エイトはなだれ込むようにして部屋に飛び込み、後ろ手に扉を閉める。
「エイト、どうして」
 続きは言葉にならなかった。エイトは油断なく背後に気を配ってから、イチカの傍に膝をつく。
「まったく連絡がなかったので、なにかが起きたのかと思って。なんとか忍びこむことができました。……怪我は?」
 イチカは黙って首を振る。エイトは束の間だけ眼差しを緩め、すぐに表情を引き締めた。
「教室でお友達に会いました。イチカなら医務室にいる、と聞いてここに」
「友達……って、あの子たち、まだ学校にいるの」
「そこまではわかりません。さっきの放送が入ったのも、俺が教室を出たあとだったから」
 イチカらの教室からまっすぐ保健室を目指せば、時間は五分とかからない。そのあいだにふたりが下校しているとは考えられなかった。虚空を睨んだイチカに、エイトは厳しい視線を投げる。
「まずはイチカです。どうにか逃げる方法を探って、ここを出ないと。……そちらも一緒に。教師の方ですね」
 そのとき保険医がエイトに向けたものは、まずは不審、続いて当惑だった。数十分前までは紅茶のように穏やかな色をしていた瞳には、張り詰めた鋭さが混じっている。刃をあてがうようにエイトを見やり、彼女は唇を湿らせた。
「そちらは?」
「光峯瑛斗といいます。彼女の婚約の相手、と言って伝わりますか」
「下層の……あなたが」
 保険医とイチカの視線が絡む。彼女の目によぎった疑いを振り切るようにして、イチカはエイトを仰いだ。
「逃げるなら先生だけを連れていってちょうだい。私はまだ行けない」
「イチカ!」
 いつにない厳しさのこもった声に、頬を張られるような心地がした。イチカは両の手を握り込み、負けじと歯を食いしばる。
「あなたがここに忍びこめたんだもの、残った人たちを逃がすことだってできるはずでしょう。私が校舎に残っていれば、あいつらだってむやみに人質を襲ったりしないわ。その間にどうにかして助け出さないと」
「無茶を言わないでください。あなたの身は今、あなただけのものじゃない。真っ先に逃げなくちゃいけないことぐらい、少し考えれば分かるはずでしょう」
「それは、私が八神一花だからでしょう!?」
 叫ぶと同時、かっと目元が熱くなる。エイトの顔を見ることもできずに、イチカは地面をねめつけていた。
 二週間も共に過ごしていれば、彼の脆さはよく見えた。ころころと表情を変えたところで、傷つけられたという事実だけは隠しきれない青年だ。今、イチカが我を通そうというこのときに、力なく結ばれた唇を視界に入れようものならふらつきそうになる。
「ミサキもユリも、私の大事な友達だもの。ふたりとの間に違いがあるだなんて思いたくない。友達を放ってひとりで逃げて、あなたとの結婚で上層と下層を繋いではいめでたしだなんて、納得できるわけがないでしょう」
 八神の娘であることも、REBであることも、彼女たちは決して顧みなかった。ただそこにあるイチカに――ひとりのクラスメイトに笑顔を向けたのだ。
 冷えきった空気を肺に送り込む。体に滞った濁りをすべて、外へと払い出すように。再び顔をあげたとき、イチカの瞳に揺らぎはなかった。
「エイト、お願い。もうこれっきりのわがままよ。あなたとの結婚もなにもかも、全部受け入れる。言う通りにする。……だから私に、あの子たちを捨てさせないで」
 エイトがわずかに視線を落とす。イチカ、と代わりに呼びかけたのは保険医だった。床に膝をついたまま、縋るように声を絞り出す。
「そういうことじゃないわ。あなたの無事が確保されないことには、」
「……わかりました」
 エイトの首肯に、保険医が目の色を変える。
「あなた――!」
「警察が助けに来るようであれば、このことを伝えてください。イチカの安全は俺が保証します。……この人が失われて困るのは、俺も同じなので」
 イチカはエイトとうなずき合い、一呼吸の後に保健室の扉を開く。背にかけられる保険医の声を振り切るようにして、暗い廊下を蹴った。



 窓硝子がはじけ飛び、鼓膜を破るかのような爆音に襲われる。窓枠であったはずの金属がひしゃげ、高所から落ちるのを遠目に見送って、レイシは薄く息を吐き出した。
 固唾を飲んで校舎を見上げているのは警察官ばかりではない。学校に子を残した父兄や周辺の住民、さらには騒ぎを聞きつけた報道記者が、顔を真っ青にして校門に押し寄せているのだった。警察は野次馬を近付かせないように人員を裂かねばならないありさまで、彼らを統括する立場のレイシの眉間にはくっきりと三本の線が刻まれていた。
「八神警視」
 校舎の裏手に回っていた警察官が小走りで戻ってくる。彼はレイシに向けて首を振った。
「裏門、駄目です。見張られている」
「他に侵入口は」
「体育館側に一箇所、それから校庭に続く扉がもう一箇所。調べましたが、どちらも内側から封鎖されているようです」
「八方塞がりか……」
 むやみに扉を破壊すれば、間を置かずに教室のひとつが爆破される。人気のない一室を狙って爆発物を仕掛けていることは確かだが、そうした教室がいくつ残っているかも定かではなかった。
 一方で状況がこう着すれば、犯人の破壊活動は順を追って進んでいく。レイシが無言のまま腰に手をやったときだった。
 胸元の端末が震え、着信を伝える。耳にあてがったところで、女性の声が滑り込んだ。
『八神警視。こちらカナメです』
 常日頃であれば鉄のような硬質さを備えているはずの声は、そのとき、わずかにくぐもった響きを伴っていた。「状況は」と短く問うと、わずかな思考の時間が置かれる。
『校舎への侵入に成功しました。人気はなし、生徒や教員は教室に避難しているようです』
「イチカはどうした。保健室にいるはずだが」
『捜索済みです。中に残っているのは教員と見られる女性のみでした。イチカ嬢はすでに離れたあとのようで』
「あの馬鹿が」
 事態の緊急性を理解していないのだ。無為な正義感を発揮して保健室を飛び出したのだろう。舌打ちをし、レイシは端末に意識を戻す。
「追跡しろ。奴らに捕まる前に」
『はい、すでに。前方にはイチカ嬢らしき女生徒の姿を捉えています。傍にもうひとり……あれは下層市民でしょうか、上層市民の戸籍には該当するデータが見つかりませんが』
「……下層市民?」
『背格好から、青年かと推測されます。イチカ嬢とは知人であるようです』
 レイシはしばし頭を巡らせ、ひとつの名前を思い出す。光峯瑛斗、上下層間の協約の礎になる青年だ。一月前には父親から伝えられていた、下層市民の青年の名だった。ちょうどレイシが暴動事件の取り締まりに追われていた折であったため、橋渡しなど絵空事だと考えていたのを覚えている。
 立ち入りこそしなかったのもの、エイトがイチカと行動を共にしていたことも知っていた。毒にも薬にもならないような彼の態度を、レイシもまた気に留めることはなかった――やがて来る結婚式が過ぎれば、警察の出番も増えるのだろう、と辟易することこそすれ。
 そこで止まりかけた脳を回し、レイシは鼻の頭に皺を作る。
(光峯瑛斗……? なぜそこにいる)
 近隣住民の言葉から伺うに、校舎の封鎖は教室の爆破に先立って行われていたのだ。彼らの話を信じるとすれば、事件を察知してから学校に忍びこむことなどできるはずがない。
 ――可能であったとすれば、それは。
 背筋を冷たいものが走っていった。くそ、と毒づいて、レイシは端末を握る手に力を込める。
「要、追え。イチカを見失うな」
『了解』
 叩きつけるように通話を切る。警視、とかけられた声は固かった。レイシは手の汗をぬぐい、周囲の警察官を一瞥する。
「出入り口を固めろ。人質は捨て置いてもいい、何があっても犯人を外へ逃がすな」
 にわかに騒がしさを増した人々の中を横切って、警察官に指示を飛ばす。歩調はこころなしか荒くなり、続けざまにかかってきた電話には、宛先も確認せずに噛みついた。
「はい、こちら八神」
 しかし相手の言葉の中ほどまでを耳にしたところで、レイシの足はぴたりと止まる。時の流れに置いていかれたかのような心地で、その場に立ち尽くしていた。
「いま、なんと仰いました」
 通話の相手は上司だ。レイシら警察官を高等学校に送りだした男であると同時、騒動対処の総指揮権を持つ男でもある。
『手を引け、と言ったのだ。犯人の確保は中止、彼らの要望を飲むように。……これは私の一存ではない、上層議会からの依頼でもある』
(上層議会?)
 状況にはそぐわない単語だった。レイシは息を詰め、ややあって自身の父親の顔を思い浮かべる。無機物めいた顔面に、誠実というコーティングを施した男、八神榛一――彼が動いたのであろうことは明らかだった。
『八神、包囲を解け。奴らを行かせろ』
 一方的な指示のもと、通話が切れる。耳に残った電子音を、レイシはしばらくの間聞いていた。
(なにが起こっている……)
 不安げに自分を覗きこむ部下に、応える気力も湧かなかった。レイシは端末を握りしめ、校舎の方角を睨みつける。
 命令の必要性は不明瞭だった。しかしレイシらへの通達が公式なものであった以上、従うほかに道はない。レイシは言葉少なに指示を伝達し、警察官たちが戸惑いも露わに足を急がせるのを見送ってから、唇の端を引き下げる。
 ほどなく包囲は解かれるだろう。
 カナメへの指示を取り消すつもりは、なかった。