授業時間を終えてしまえば、保健室に生徒の影はない。保険医はイチカに椅子を薦めると、自分は棚からポットを引き出した。ふたつのカップに紅茶を満たし、それぞれに角砂糖を放りこむ。すぐにたちのぼった芳しい香りは、つんとする消毒液の臭いと混じりあってイチカの鼻を刺激した。
「もう体は平気?」
「はい、ずいぶん元気です」
 カップに口をつけてイチカは唇を尖らせる。ティーバッグに湯を注いだだけの紅茶は、まだ舌にひりつくような熱さを残しているのだった。保険医はかすかに笑い、自分も椅子に腰を下ろす。
「よかった。あなたもがんばり屋だから、あの日も無理をして学校に来ていたんじゃないかと思ったの」
 ちくり、と胸を刺す痛みがある。イチカは声を落とした。
「前の日にはよくなっていたんです。あの日は風邪を引きずっていたわけじゃなくて」
「なんとなく気が沈むのも体調不良のうちよ。特にREBの生徒さんは、体が丈夫にできているぶん、その理由でここにくることが多いの。いくらでも休みにいらっしゃいな」
 イチカが口ごもり、紅茶の水面に目を落とすのを、保険医は探るように見つめる。一呼吸ほどの間があって、彼女は「違うのね」と目元を和らげた。
「あなたは無理をしがちだわ。ほかの子よりも体がちょっと強いから、心も同じぐらいに強いと思いこんでしまう。我慢をすることに慣れてしまってはいない?」
「そんなことは……」
「結婚の話、聞きました」
 イチカは弾かれたように顔をあげた。保険医の瞳に映りこんだいたわりに気付けば、イチカの体からは徐々に力が抜けていく。
 ミサキとユリを除いた生徒や教員の誰も、婚約の話題を出すことはしない。それが気を利かせてのことであったのか、下層との関係に首を突っ込むことを避けるためであったのか、イチカに判断をつけることは叶わなかったが。
 まるで腫れものを扱うような空気に、息苦しさを感じていたのも事実だ。イチカはカップを包む手に力を込める。保険医はいくらか姿勢を正して問いかけた。
「お相手には?」
「会いました。何度も」
「信じるに値する人だった?」
「え」
 ひときわ強い風を受け、窓は不安げに揺れていた。保険医は続ける。
「下層についてどうこう言うつもりはないの。でも今回は、あまりに話が急だったものだから……議会の中ですべて段取りが決まってしまって、発表があったのだって、ついこの間だったでしょう」
「きっと、あまり表沙汰にしたくなかったんだと思います。結婚が滞りなく済むまでは騒ぎにならないように」
「本当に、それだけならいいのだけれど……」
「……先生」
 呼べば、ごめんなさいね、と保険医が首を振る。
「生徒のことだから過敏になっているのかもしれないわ。あなたが気にしていないのなら、私が口を挟むことではないわね。その人と一緒にいることは、苦痛ではない?」
「ええ、と」無意識に目が泳ぎ、イチカは紅茶を一口すする。熱の和らいだそれは、舌の上にほのかな甘みを残していった。「今のところは。息が詰まるようなときもあるけど……それはたぶん、嫌、ということではなくて」
 紅茶が震える。イチカは揺らぐ水面へと目を落とし、ほうと息をついていた。言葉にしきれなかった胸の裡すら、琥珀色の液体にならば透かすことができるような気がした。
 漂った沈黙も、もう鼓膜を苛むことはない。保険医は「そうね」と呟いて、白い指を組み合わせる。
「息のしやすい場所を愛が作るなら――きっと、呼吸ができなくなるような想いを、人は恋と呼ぶのね」
「呼吸が、できなくなるような」
「ふふ、年甲斐もなく恥ずかしいことを言ったわね。紅茶はもう空かしら」
 イチカのカップを取り上げて、保険医は立ち上がる。
 途端、耳をつんざくような轟音が、校舎の中を駆け抜けていった。ふたつのカップを地面にたたき落としたのは、それに続いた振動だ。悲鳴じみた音を立て、陶器の破片があたりに飛び散る。
「な、なに」
 地面にしゃがみこみ、揺れの余波に体を揺らす。――REBの接続に狂いがなければ、イチカの耳が聞きとったものは確かに爆発音だった。
 どこから、と考えて、顔は自然と上を向く。音は三階、保健室からふたつ階段をのぼった先から響いてきたのだった。
「調理室の小火、なんかじゃないわね。防災ベルが鳴らないもの。なにかあったのかしら」
 保険医がおそるおそる腰を浮かせる。続き二人の耳朶を叩いたのは、校内放送に用いられるチャイムだった。
 イチカはごくりと息を飲む。授業を終えた夕暮れどき、チャイムが流れる理由はない。耳障りなノイズが、マイクを通じて流れ出した。
『校内に残る諸君に告ぐ。現在この校舎は、我々の占領下に置かれている』
 聞き憶えのない声だった。少なくとも教師の声ではない。そっけない声色に、イチカは身を固くする。
『ついさっきの爆音に気付いたことと思う。あれは我々が起こしたものだ。被害が気になる者があれば、確認に来てくれても構わない。その場合、命の保証まではしないが』
 さて、と声が区切りを置く。
『我々はひとりの女子生徒を探している。彼女がまだ校内に残っていることも把握済みだ。諸君らにはこれを探す手伝いをしてもらおうと思う。……より正確に言うならば、諸君らには、そこから一歩たりとも動かないでいただきたいのだ。きみたちの命そのものが、彼女を探す助けになる。有り体に言えば、彼女に対する人質、ということだな』
 声の主が小さく笑う。
 イチカは黙りこんだまま、保健室の時計に目を向けた。時刻は七時に近づこうとしている。生徒はほとんどが帰宅しているだろう。校内に残っている者はといえば、職務をこなす教師たちか、あるいは部活に精魂を込める一部の生徒ぐらいのものだ。
 イチカの背を冷や汗が流れていく。彼らの目的は、言葉にされずとも察せられた。
『女子生徒の名前は八神一花。知ってのとおり、八神榛一議員のご息女だ。彼女の身が確保され次第、我々は学校を開放しよう。しかしいつまでも彼女が現れなければ――』
 続けざまに爆音が鳴り響く。音の方向は先ほどと同じだった。イチカはカーディガンの袖を掴み、スピーカーを睨みつける。
『――こうして教室をひとつずつ爆破していくとしよう。そこに生徒が残っていようと、いまいと関係なく。諸君らが諸君らの役割を果たしてくれることを、我々は願っている』
 ノイズが途切れる。嵐のあとのような静寂を、イチカは唇を噛んで迎え入れた。
 彼らの目的はイチカ――八神議員の娘にして、協約の標となる生徒の拘束だ。上層と下層の結びつきを阻害したい者たちの犯行であることは間違いない。彼らは校舎中の人員を人質に取った上で、イチカが自ら姿を現すことを要求しているのだろう。
 携帯の端末の音声を切り、続けざまにニュースを引き出す。速報と銘打って流れ出した映像には、校舎の外観と詰めかける警察官の姿が収められていた。近付くに近付けないままでいる彼らの背後には、不安げに校舎を見上げる生徒が映し出されている。
(ミサキとユリは)
 現場の映像に彼女たちの顔はない。先に帰ったはずだ、と胸に言い聞かせたところで、不安は晴れないままだった。
 端末がふいに振動し、イチカは慌ててそれを握り直す。着信だと気付いて、端末を耳にあてがった。
『イチカか』
「兄さん、」
 鼓膜を震わせたのは兄の声だ。弛緩しかけた体を一喝し、イチカは耳元に意識を向ける。
『今どこにいる』
「……保健室。一階の、南の端」
『そこを動くな。すぐに警察の人間を送り込む』
 レイシもまた学校の前に到着しているのだろう、と推測する。端末越しには報道記者の声が響いていた。
「他の人たちはどうするの」
『輩の狙いはお前だ。手に入れるまでむやみに手は出さない』
「でも、学校を爆破するって」
『お前が投降したところで結果は同じだ。……いいか、電波が傍受される前に端末を切れ。あとは警察がどうにかする。間違っても出ていこうとは思うな』
 まるで機械と会話をしているかのようだった。公務をこなそうとする兄に、イチカの心配を慮るつもりなどないのだろう。
 通話が打ち切られたことを境に、イチカは言いつけどおり端末の電源を落とす。深いため息が漏れた。様子を伺っていた保険医が、険しい表情で口を開く。
「お兄さん、と聞こえたけれど」
「兄が警察官で。もうここに来ているみたいです、すぐに人を寄越すと言っていました」
「人を寄越すといっても、学校は封鎖されているわ。どうやって」
 イチカは渋面を浮かべる。兄が自分の行動について、十分な説明を行ったためしがなかった。首を振って、保険医に苦い笑みを見せる。
「できないことを言う人じゃないはずです。方法までは教えてくれなかったけど」
 人を寄越すと告げたからには、確実にやり遂げるはずだ。レイシの能力を疑うつもりは微塵もなかった。彼の言う通りにじっとしていれば、イチカの身の安全は確保されるのだろう。
 それでもイチカの胸から、憂慮が消えることはなかった。
(私が捕まっても、犯人がここを爆破することに変わりはない。……それは、私が助け出されても同じことじゃないの)
 イチカを手中に収めることも、その可能性が完全に失われることも、等しく人質の価値をゼロにする行為に違いない。イチカが宙ぶらりんのままに晒されている現状こそ、人質にとってはひとまずの猶予が与えられる状況なのだ。
(じり貧だわ)
 動いても、動かなくても、訪れる結果は同じだ。
 だとすれば、なにもせずにいることに、一体どんな意味があるというのだろう――。
「イチカ!」
 保健室の扉が、破るかのような勢いで開かれる。イチカは一度大きく肩を跳ね上げたが、廊下に立つ青年の姿を確認して目をしばたかせた。
「……エイト?」