Chapter3 散乱する青の
 寝起きの良さは、イチカにとって小さな自慢だった。そもそもひとり暮らしに等しい生活を送っている以上、毎日同じ時間に目を覚ますことができなければ、無遅刻無欠席など成し遂げられはしないのだ。
 ――朝の七時。普段より二十分早まった起床時間。
 快いアラームを響かせる端末を黙らせて、イチカは窓の外を数秒眺める。慣れない早起きに、頭はまだ呆けたままだった。
(……ああ、そうだったわね)
 そのままリビングに向かいかけた足を、扉の前で反転させた。以前ならば部屋着で食事を行っていたものだが、そんな横着が許されなくなるだけの理由ができたのだ。仕方なく着替えを済ませ、ドライヤーを掴んで髪を整える。
 部屋の鏡を眺める表情は険しい。はあ、と立ち上がれば、モスグリーンのスカートがひるがえった。
「おはようございます、イチカ」
「うん」
 リビングに姿を見せれば、途端小気味のいい挨拶がかけられる。イチカは投げやりに返事をして、棚から買い置きのパンを引き出した。
 寝ぼけまなこで朝食を摂るあいだ、エイトは穏やかな笑みでそれを見下ろしている。早朝であることもなんのその、服装、髪型のどこをとっても乱れはない。余裕を見つければ、イチカの茶やコーヒーを用意することさえしてしまうのだった。
 エイトがイチカの通学に付き合うようになってはや二週間。いくら待てども彼が投げ出す気配はなかった。いつからか文句を言うことにも飽きが回り、結局不要な接触を行わないことを条件に、彼の同行を黙認するようになっていた。
「早起きですね。まだ家を出るには早いと思うけど」
「あなたにだけは言われたくないわよ。毎朝毎朝、私が起きる前から家先に押しかけておいて」
「待つのは苦にならないので」
「私が気にするっていうの」
 軒先に青年を待たせておくのにも気が引けて、家に入ることを許したのが数日前のことだ。目を覚ましてすぐに着替えなければならなくなったのもそのせいだった。イチカがむっと唇をとがらせるので、エイトは苦笑した。
「それを抜きにしても、今日は早起きですね。お友達と待ち合わせでも?」
「試験期間に入るの。朝は早くなるし、帰りは遅くなると思う。だから送り迎えもいらないわ」
「それぐらい合わせますよ、待つのは苦じゃないって言ったでしょう」
「……あなたも飽きないわね」
「イチカが生活の中心にあるので」
「そう」
 好きにすればいいわとそっけない振りを装い、パンの包みをくずかごに放る。それが目標を逸れ、床に墜落するまでを見届けて、イチカは顔をしかめた。エイトが甲斐甲斐しく捨て直すのを、頬杖をついて見つめる。
 テレビは絶えずニュース番組を吐き出していた。小声の映像が見せつけるのは、上層で起こった下層市民のストライキだ。暴動に発展した騒動を、警察が慣れた様子で取り締まっている。
『八神議員の長女の婚約に、期待が寄せられています――』
 ニュースキャスターの一言に、思わずため息が漏れる。イチカはテレビの電源を落とした。けろりとした顔のエイトに首を振ってみせる。
「肩が重いったらないわ。顔と名前が出ないのがまだ救いよ、記者に囲まれるなんてまっぴらだもの」
 エイトは黒く染まった画面を見やり、ひとつまばたきをした。
「それもあるだろうけど、なにをおいても防犯のためでしょうね」
「……防犯?」
「イチカや俺の名前を出せば、協約に反対する人間にどうぞ狙ってくださいと言っているようなものでしょう? まだ争いを続けたい輩、互いを受け入れられない輩はごまんといます。イチカには議員の娘なんて肩書もあるわけですから、事件でもあれば全面衝突も避けられないだろうし……、なんですか?」
 イチカはいつからか、目を丸く見開いてエイトを注視していた。それに気付いて眉を寄せる彼に対し、曖昧に笑ってみせる。
「そこまで理解しているのに、どうして歩み寄ろうなんて考えるのかしら、と思って」
 エイトが小首をかしげる。イチカもまた言葉が足りなかったことは自覚していた。「だから」と継いで続ける。
「私とあなたの婚約は、協約締結のためのものなんでしょう。私みたいに嫌がるわけじゃないなら、政略結婚だって割り切っているだけのことじゃないの。だったらあなたが私を、……その、」
「口説こうとする理由がない」
「う……そうよ、別に仲良しこよしする必要なんかないじゃない。適当に式でも何でも済ませて、あとは好きにすればいいのに」
 黒く透明な瞳に見つめられ、イチカは視線のやり場を失う。まるで自分が意地を張る子供であるように思われて、腹の底に居心地の悪さを感じていた。
 そうですねえ、と間延びした声で答え、エイトは考え込む様子を見せる。沈黙がイチカへの同意のためのものでないことは明らかだった。イチカは逃げるように立ち上がり、鞄の中身の点検を始める。
「人を好きになるのは怖い?」
 放り投げるような声だった。
 イチカの手がぴたりと止まり、指先は続けざまにわなつく。故障したロボットよろしく固い動作でふり返れば、エイトはハンガーを手に取ったところだった。そこに吊るされたカーディガンを、イチカの前に掲げてみせる。
「心が長じて形をとるだけが恋じゃない。形から始まるものも確かにあると思いますよ。少なくとも俺は、そうだといいなと考えている」
「恋、って」
 イチカの声はみっともなく震えた。呑まれるな、と自分を叱咤したくとも、エイトの笑みは思考を端から溶かしていく。
 両肩に手を置かれるまで、イチカは微動だにできないでいた。手のひらの大きさに反して、かけられる力は撫でるように優しい。エイトはわずかに顔を寄せ、ゆるりと首をかしげる。
「今の今まで、ずいぶん押してきたつもりでいたんだけどな。まだイチカは、俺を好きになってはくれない?」
「す……っ」
 声はとうとう裏返り、頭に閃光が散る。かっと耳に熱が上ったことも、エイトには悟られていたのだろう。
「うん、あとちょっと。よくわかりました」
 そう声もなく笑う。代わりにこぼれた吐息が、イチカの鼻先をかすめていった。
 それだけで硬直したイチカの身を、彼はくるりと反転させる。手の温度を残したままの肩にはカーディガンが被せられた。
「好いてくれなくてもいい。でも、せめて信じていてください。俺があなたの傍にいるのは、婚約したからだけじゃないということ」



 人影の消えゆく一室には斜陽の朱が差し込んでいる。噂話に興じていた少女たち、小突き合いながら冗談を交わす少年たちが立ち去るのを眺めているうち、気付けばイチカら三人はぽつりと教室に取り残されていた。
 しかし訪れた静けさが、少女たちにためらいを与えることはない。はーっ、と感嘆の声をあげて数秒、ミサキはきつく口元を歪めた。
「あのお迎え、まだ続くんだ。こんなに帰りが遅くなるのに?」
 机に備え付けられた勉強用の端末に、イチカは絶えず文字を打ち込み続ける。そうしながら肩をすくめた。
「いらないとは言ったのよ。それでもやめないって」
「イチカってば、愛されてるう」
「からかわないで」
 ミサキの頭を突いて、イチカはふいと顔を背ける。ひひひ、とミサキが笑った。
「夜逃げの準備ならいくらでも手伝うつもりでいたけど、いらなそうだね。会った限りじゃ相手もいい人そうだし、紳士的だし」
「紳士ね……」
 ふり返って、イチカの舌は鈍る。
 周囲への人あたりを見るならば、なるほど確かに彼は穏やかな青年であるのだろう。礼儀こそ正しいが、決して堅苦しくはない。一方で適度な距離を置こうとするだけのわきまえがある。実際、一度顔を合わせただけのミサキやユリにも好印象を与えているのだ。
 しかし、あの押しの強さを紳士のものと呼べるものか。今朝がた詰め寄られたことを思い返して、イチカの耳には熱がよぎった。
「イチカ、もう六時半だわ。そろそろお迎えに来ているんじゃない?」
 促されるまま携帯端末に目をやる。いつもの場所で待っている旨を記したメールが一件、エイトから届いているのを確認した。しかしイチカは通知を削除して、端末を机の端に追いやる。ミサキとユリが目を見合わせた。
「帰らなくていいの」
「勉強が先よ。遅くなるとは伝えてあるし。……もう少し友達と一緒にいたいの、いけない?」
 イチカあっ、と机を叩いて、ミサキが悲鳴ともうなり声ともつかない声をあげる。その傍らでユリが唇をほころばせているのを見上げて、イチカはほっと息をついた。
 友人との時間を優先したいのは事実だ。しかし一方で、言葉にならない理由があった。
 帰りたくない、とまでは言わない。エイトと顔を会わせたくないとも思わない。しかしこのまま自分を許してしまうわけにはいかないと、危ういところで思考が待ったをかけるのだ。
(好きになるのが怖い、か)
 恥ずかしげもなく口にされたことが尾を引いている。誘うように、それでいて試すように放られる言葉たちの、どこまでを受け止めていいのかわからなかった。
(……そう考えている時点で手遅れなのかしら)
 むずがゆい気持ちがこみ上げて、イチカは所在なく指先を絡めあわせる。
 廊下に気配が立ったのはそのときだった。一定のリズムを刻んでいた靴音が、教室の前でふいに静止する。扉から中を覗きこんだのは保険医の女性だ。
「あなたたち、まだ帰っていなかったの」
 呆れた、と首を傾けて、彼女は教室に足を踏み入れる。ミサキがふんと胸を張った。
「テスト勉強が忙しいので」
「端末を見ているのは八神さんだけみたいね?」
「先生ってば失敬だなあ! 休んでいたイチカに勉強を教えてあげるのも、親友の務めってものですよ」
「ミサキは自分の課題を片付けてからそれを言いなさいね」
 荷を揃えながら口を挟んだのはユリだ。ふてくされるミサキを横目に見て、保険医がくすくすと笑った。
「残っているなら丁度いいわ。八神さんをお借りしてもいいかしら」
「私ですか?」
 ミサキやユリに目を向けると、ふたりはそれぞれにうなずきを返す。
「もうちょっとだべったら帰るよ。あたしたちのことは待たなくていいから」
「帰り道には気をつけてね」
「……ええ、ありがとう。それじゃあまた明日」
 鞄をすくい上げ、保険医の後に続いて教室を抜ける。鍵のかけられた窓の外には、すでに藍色の迫りつつある空が広がっていた。