上層と下層を隔てるものは、アクアの水と、反転した重力だ。海水にはアクエスの膨大な電子情報が溶け込んでいるとされているため、危険を顧みずに飛び込むような者はいない。その代わりに両層の通路の役割を担っているのが、エレベーターを模した輸送機器だった。
 機能からトランスポーターと呼ばれるその機器は、みな揃って直径十メートルほどの円錐状をしている。かれらは海に沈むようにして、アクエスの各地に点々と設置されているのだった。
「……冷たい」
 透明の壁から遠い水面を見上げる。漏れ聞こえる水音が、イチカの鼓膜を揺らしていった。
 海に沈んだ経験は二度だけだ。記憶もあいまいな子供のころと、たった数日前に一度ずつ。けれどもイチカが水面の空を見上げたのは、その二度のみに留まらなかった。
 イチカの吐息が白さを帯びる。使用の打ち切られたトランスポーターを、直接照らす光はない。天井に添えつけられたライトもまた、数十年も昔に仕事を忘れたきりだ。一室に明度を落とすのは、上層を照らす街灯の、わずかな余韻ばかりだった。埃のちらつく金属床へと、青い光はさやかに陰影を映し出している。
 イチカにとっての唯一の隠れ家。それがトランスポーターの跡地だった。
 集中の端末を確認すれば、時刻は七時を回っている。ミサキやユリから届けられた最終連絡も、青年に取り押さえられたことを謝るもので締めくくられていた。
(……頃合いね)
 靴音が床を叩く。その響きを耳に捉えて、イチカは身を翻した。
「早かったじゃない」
 エイトがおどけた様子で肩をすくめる、その拍子にこきりと音が鳴る。身なりこそ几帳面に整えられていたものの、目には疲労が色濃く映し出されていた。
「まだ七時だわ。もっとかかるかと思ったのに、残念。有能なのね」
「お誉めにあずかり光栄です。これでもかなり手間取りましたよ。苦労話でもお話ししましょうか?」
「じゃあ聞かせてもらおうかしら」
 芝居じみた声で言い、首をかしげる。エイトが苦笑を浮かべた。
「イチカの端末を握ったお友達を追いかけて、彼女から偽の情報を掴まされて、まずはあちこちでたらい回しに遭いました。やっとのことでもうひとりのお友達に行き着いて、有力な情報を得たと思ったのに、今度はイチカに行きあたらない。……おかしいでしょう、このアクエスのどこを探しても、八神一花という女子高生ひとりが見つからないだなんて」
 ミサキとユリはそれぞれにエイトを振り回したらしい。イチカは喉の奥で笑い声を上げる。
「ええ、それで?」
「仕方がないので、捜索の範囲を広げました。セキュリティのレベルをいくつか上げて、……あとは通話の録音に水音が混じっていたので、それも条件に入れて。ようやくここに辿りついたら、今度は立ち入りの許可を得るのに手間取るし」
「ご苦労さま」
「本当ですよ」
 友人たちからの連絡から、粗方の経過は掴んでいる。それに間違いがなければ、エイトは中央区を散々に駆け回らされていたのだろう。しかしイチカが身を隠していたのは、学校から十数分と歩かない位置にあるトランスポーターの跡地だったのだ。
 二重、三重のセキュリティが施されているため、当然高校生が忍びこめるような場所ではない。イチカは一歩を下がり、薄い壁に背中を預けた。
「ここ、ね。子供のころに迷い込んだのよ。まだ小学生のころ。ミサキとユリ……あなたもさっき会ったでしょう、あの子たちと一緒に、ちょっと離れたところまで遊びに行こうって。そうしたらぜんぜん人気のないところに、こんなトランスポーターがあった」
 入ってみようと声をかけたのはミサキだった。入口に取りつけられた端末を好き放題に叩いて、エラー表示を引き出すだけ引き出したあと、彼女は風船のように頬を膨らませたのだ。むくれてしまったミサキに代わって端末の前に立ったイチカが、見よう見まねで画面に触れたとき。
 ぽおん、と、まるでピアノの鍵盤をひとつ、気まぐれにはじいたような音と共に、トランスポーターは口を開いたのだった。
 揃って目を丸くした友人たちの顔を思い出して、イチカは唇をほころばせる。
「まさか入れるだなんて思わなかったわ。その頃は知らなかったけど、ここのセキュリティには生体認証が組み込まれているはずなのよ。いくら議員の娘だからって突破できるわけがないの」
 だというのに。自分の指を矯めつ眇めつ眺めて、イチカは首を振った。
「父さんには言えなかった。もともと立ち入り禁止の場所だったから、白状することも怖くてできなかったし、……そもそも、聞く耳なんか持たないって思っていたのね」
 小学生のころには気付いていた。父親が愛を娘に向けるとすれば、上層市民に向けるそれと同じものに過ぎないのだと。大樹の前で声を限りに父を呼んだところで、彼はきっと顔をのぞかせることもしないのだろう。
 こつん、と頭で壁を叩く。水面は遠く、水底はより遠かった。トランスポーターに立つふたりなど知らぬ顔で、海は冷えきった青ばかりを漂わせている。
「周りにREBの友達はいなかったから、比べることもできなかった。セキュリティを無視できるのが私だけなのか、それともREBの体さえあれば同じことができるのか。私だけだとしたらどうして? 誰がそうしたの? ……知りたいくせに、父さんに尋ねることもできなかった。私はいつだって、手間のかからない娘でありたかったから」
 週に一度だけふらりと帰ってきては、会話を交わすこともなく家を出て行く父親。親の承認が必要な書類に手早くサインをする際の、無機質な瞳の色が恐ろしかった。そんな目を見るぐらいなら、無関心でいてくれた方がよほど幸せだった。
 不安になるのよ、と視線を下ろす。
 ぞっとするほどの沈黙に、イチカの声は飲み込まれていった。
「私は本当に八神一花なのか。もっと別の、それこそREBでもなんでもない、ただの機械だったんじゃないのか。八神一花なんて始めからいなくて、そんな名前の付けられた人形が、議員の娘のふりをさせられているだけなんじゃないか――だったら父さんや兄さんに顧みられないのもおかしくはない、ってね。あなたが言ったこと、図星だったのよ。悔しいけどね」
 ――あなたがあなたであるなんて、いったい誰が、
 答える言葉があるはずもなかった。自分自身がそれを疑ってしまっている以上、他の誰であろうとも、イチカの存在を証明してくれることはないのだから。
 エイトを仰げば、彼は悼むように唇を引き結んでいた。押し殺された呼吸の合間に、わずかな後悔の気配が漏れる。その段になって、イチカは肩をすくめた。
「馬鹿ね。笑うところよ」
 なにもかも、愚かな妄想だった。アクエス上層の戸籍に八神一花の名が刻まれていることも、元の型となった少女の写真が供に保存されていることも、イチカはすでに自分の目で確かめているのだ。自分が辿る成長は、彼女が本来辿るべきだった道のり――辿ると推測された道のりに違いなかった。
(それでも、諦めてしまいたかった)
 すべてREBのせいにしてしまえれば、決着をつけてしまえると思った。妄執をすべて取り払って、ひとりで立つことができるだろうと。けれどもイチカが願うほど、アクエスの技術は優しくできていなかった。
 イチカの端末がぶるりと震える。にわかに光を放った画面には、門限を報せる文面が表示されていた。端末を鞄の中にしまいこんで、イチカは体を壁から離す。
「結局捕まっちゃったものね、今日は大人しく帰るわ。わがままを言ってごめんなさい。走り回って疲れたでしょう? ……明日にでも、なにか埋め合わせをするから」
 鞄を肩にかけ直す。空同然の中身に、イチカの歩みを重くするだけのものはなかった。
「ちょっとぐらい気が晴れるかと思ったけど、全然だめね。ミサキにもユリにも迷惑をかけたし、あの子たちにも謝らなきゃ」
 ミサキならば楽しかったと笑うところだろう。ユリも仕方ないわと首を振ってくれるはずだ。何事もなかったかのように始まるであろう明日が、唯一イチカの救いだった。
 なだらかに伸びる地上へのスロープを、一歩一歩と踏んでいく。凝るような冷気が、それに伴って薄れていくのを感じていた。
「イチカ」
 呼ばれたのは、スロープの中ほどまでを上り終えたときだ。
 なにかしら、と答えるだけの気力はあった。気苦労をかけたことへの引け目も手伝ったのだろう。いつかのようにふり切ることもせず、イチカは足を止める。
 体を反転させようとしたところで、しかし、息を詰めた。
 背後から腰へ、そして腹へと、まるで蛇のように回される腕があった。片腕で抱き寄せられる体勢になり、耳元に彼の吐息を意識する。思わずこわばった肩は、布越しに確かな体温を感じていた。
「俺は」
 鼓膜を掻くように、声。
 囁きに潜むかすかな震えが、脳髄を痺れさせていく。
「俺はあなたを好きになりました。ほかの誰でもない、イチカ自身のことを。泣きながら別の誰かを求めていた、脆いぐらいに強がりなあなただから、目を奪われた」
 体中の力が抜け、思考が溶け落ちて、代わりに感覚ばかりが鋭くなる。沈黙に同化した耳で、イチカは心臓の音を聞いていた。けれどもそれが自分のものであったのか、彼のものであったのか、聞きわけることだけはかなわなかった。
「きっと、イチカをひとりにした誰かの代わりにはなれない。隙間を埋めることも、傷口を消してしまうこともできない。わかっています。それでもあなたの痛みを分かち合えるなら、あなたがひとりで泣かなくて済むなら、俺はあなたの傍にいたい」
「エイ、ト」
「だから少しだけでいい。こっちを向いて。俺にあなたを許してください。……イチカ。俺はあなたのことが好きです」
 泣いているのはどちらなのだろう、と思う。
 掠れた声がイチカの胸をなぞるたび、膝を抱えた子供の姿がまなうらにちらつく。それは声なき声で悲鳴を上げるばかりで、誰の名前を呼ぶこともしない子供だった。
 しかしイチカがふり返ることを、エイトは決して許さない。腰を抱く腕には力がこもり、宙に浮いたままのイチカの指が震える。呼吸にならない呼吸を繰り返すうち、心臓はいつしか、酸素を求めて脈を打つようになっていた。
 静寂が降り積もり、足元に凍りついていく。ふるり、とイチカが身を震わせたのを最後に、エイトは腕を引いた。埃混じりの空気が滑り込み、イチカの背を撫ぜていく。
 足音は硬質な反響を伴っていた。イチカの横を抜け、エイトは数歩前を行く。
(……なし、だわ)
 ひとりでに首を振っていた。耳に張り付いた熱を、引き剥がそうとするように。
(今のはなし。なしよ。……だって、あんなの)
「イチカ」
 ぽとりぽとりと転がり落ちる言い訳の断片を、エイトの呼び声が打ち払う。
 トランスポーターの扉は開かれていた。濃紺に染まりきったアクエスの空には、塵のような星々が散らばっている。かれらを従えるように、青年は笑っていた。
「帰りましょう。なににせよ、イチカを見つけてあげられてよかった」
 光のない空に、瞳が焦がされる。
 凍っていたはずの胸の中、歪な硝子玉がひとつ、音もなく転がっていくのを感じていた。