磨かれたショーウィンドウに、背筋の伸びた自分の立ち姿を見る。うつむきがちだった数年前に比べれば随分な変わりようだった。
(あまり目立っちゃ避けられる。それでも人目を引くぐらいでなきゃ意味がない。難しいな)
 汚れのひとつもない靴に、傷をつけないよう足を進める。私服こそ自前のものであるものの、靴や礼服、その他値の張る装束はすべて、八神一花に見劣りのないようにと下層の献金によって用意されたものだ。まるで仕着せのようだったそれに慣れるにも、ずいぶんと時間を要してしまった。
 携帯端末を片手に握り、エイトは時間を確認する。ちょうど午後の六時を回ったところだった。日は未だ高くにあるものの、もう二時間もすれば、アクエスの海は夜に溶けていくだろう。傍を行き過ぎるモスグリーンの制服を見送って、授業の時間も過ぎたらしいと悟る。
(校門まで近づくと怒られる、と)
 エイトは足を止める。今朝方イチカを送りだしたのも、同じ並木道に並ぶ、同じ喫茶店の前だった。漂ってくるバニラの香りに鼻を任せ、店内のショーケースにちらりと目をやる。
「お土産か……」
 甘いものでも買ってやれば喜ぶだろうか、と考えて、すぐに首を振る。自分が宿にしている借り部屋に持ち帰ることになるのが落ちだった。
 冷蔵庫に保管されたクッキーの包みを一瞥した限り、イチカが菓子の類を好まないということはないだろう。しかし焼き菓子を贈り物にしたところで、そもそも毛嫌いする相手から物を受け取るとは思えない。要らないの一言で突き返される未来が目に見えるようだった。
 ふう、とため息が漏れる。乾いた風が髪を揺らしていった。
(……参ったな。これ以上、どうやって距離を詰めようか)
 思案する――脈がない、とは思わない。しかし踏み込むにはまだ遠い。
 苦いつばを飲み下したところで、端末が小刻みに震えた。着信の相手を確認して、おや、と思う。そっけない着信音のワンコールぶん、焦らしてようやく端末に耳を当てた。応える声に驚きだけは気取らせないように。
「イチカから呼び出してくれるとは思いませんでした。今日は積極的ですね」
『そういう話がしたいんじゃないのよ、こっちは』
 声に戸惑う様子がない。慣れられたかな、とエイトはひとつまばたきをする。
「学校は?」
『終わったわ。今さっき』
「それなら帰りましょう、今朝の喫茶店の前にいますから――」
『嫌よ』
「イチカ?」
 優にひと呼吸を挟むだけの間があった。イチカの声は、やけに鮮明にエイトの耳に届いてくる。
『嫌と言ったのよ。私はもう家に帰らないわ。家出をすることにしたの。もう降参ですってあなたが泣いて、婚約の取りやめを頼んでくるまでね』
 二の句が継げなくなる。魚のように口を開閉させた末、エイトは眉をひそめた。こぼれかけた嘆息を、危ういところでかみ殺す。
「……わがままを言わないで。せめて家には帰ってください、俺が八神氏に顔向けできなくなります」
『あらそう、いい気味だわ』
「イチカ」
 くす、と笑い声が響く。彼女と顔を合わせて以来、一度も聞いたことのない声だった。
『そこまで言うなら捕まえてみればいいじゃない。一昨日みたいに、端末の位置情報でも追いかけてみたらどう? あなたなら簡単でしょう』
「え……あの、イチカ」
 振り払うような言いように、エイトが呼び止める間もない。通話はぷつりと断ち切られたきり、鼓膜に嘲笑うような電子音を響かせる。舌を出した娘の顔が頭をよぎるようで、エイトは思わずうなり声をあげた。
(あの人は……っ)
 思い知らされる――あれはただ、気難しいだけの令嬢ではなかった。高校生らしい図太さと少女の反骨心を、やはり例外なく胸に秘めた娘のひとりだ。だとすればわざわざ電話をかけたのも、宣戦布告のために違いない。
「くそ」
 低い声で毒づく。当人にそれを聞かせられるはずもなかった。ぎょっとふり返った通行人を一瞥だにせず、エイトは地面を蹴りつける。
 日が暮れるまで時間はない。イチカが分別のつかないような子供でないことは分かっていたが、捨て置くわけにもいかなかった。頭を抱えたい思いにかられながらも、まずは走り出すほかには、エイトの行動は残されていないのだった。
 高校を出ていることは確かだ、と校門を横目に見る。イチカの端末情報を検索、端末の地図上に表示すれば、中央区内を移動する光点が目についた。その速度と道筋から、バスや他の公共移動機関に乗っているのだろうと推測する。
(とはいっても、これが本当にイチカであるかどうか……)
 端末に残った通話音声をくり返し再生する。気にかかるのは、彼女の声にわずかなノイズもかからなかったことだった。イチカが足を寄せていたのがどのバス停であったにせよ、帰宅する学生でごったがえすこの時刻に、声が鮮明に聞こえていたのは不可解だ。
 友人が一枚噛んでいるのかもしれない、と考える。上層を闊歩する女子高生たちを相手取るとなれば、ひとりで立ち向かう状況が不利であることは明らかだった。エイトは逡巡して、連絡先の束を画面に呼び出す。ひとりを選択した上で端末を耳に押し当てた。
『おう、どうした』
 鼓膜を揺らしたのは若い男の声だった。エイトの補助にと上層に移住していた青年だ。借り部屋で映画を眺めていたのだろう、背後からは芝居がかった台詞が漏れ聞こえてくる。外出していないなら僥倖だ、とエイトはマイクに口を近づけた。
「お嬢さまが逃げた」
『はあ? 逃げた!?』
 頓狂な声は耳をつんざいた。エイトは顔をしかめて続ける。
「おそらくひとりでやっていることじゃない。友達の助けがあるはずだ、俺ひとりじゃ分が悪い」
『お……おう、手伝う』
 映画の音声が途切れる。すぐにキーボードを叩く音が響いてきた。エイトは端末を握り直し、街角の電子案内をちらと見やる。
「お嬢さまの端末の識別番号を送った。バスか電車に乗っているはずだから、路線と行き先を特定してほしい。……まずフェイクだろうけど、一応それを追いかける」
『バスのほうだな。東駅発の中央周遊。バス停の場所を送信しておく。ほかには』
「中央学校から徒歩で行ける範囲で、この時間に人気のなくなる場所を探してくれ。できれば近くから水音の聞こえるところで」
『人気? どういうことだ』
「本人から電話がかかってきたんだ。音声に雑音がかかっていなかったから、少なくとも人通りのある場所にはいないと思う」
 バスに乗っているとすれば、イチカの端末を握った何者か、だ。友人たちをひとりひとり追いかけていっても構わないが、大幅に時間を食うことになる。行き先の候補には見当をつけておくべきだろう。
 軽やかなキータッチの音を聞きながら、指示されたバス停に足先を向ける。情報を次々と受け取って、耳元の端末はライトを点滅させていた。
『わかった、一応あたりをつけておく。連絡もいつでも取れるようにしておくから、逐次報告を入れてこい』
「了解」
『……なあ、エイト』
 通話を切ろうとしたエイトの耳に、掠れた声がかかる。端末に触れかけた指を下ろして沈黙を保った。一秒、二秒、迷うような間のあとに、かすかな身じろぎの気配が伝わってくる。
『上層はいいところだな』
「タカキ?」
 友人の名を呼んだ。彼の力ない笑声が、端末を震わせる。
『人はいくらでもいるし、昼間はまぶしいぐらいに明るい。……なにより責任を押し付けられた高校生が、嫌だって言って逃げていける場所があるんだろ』
 いいところだよ、とタカキがくり返す。
 エイトは足を止めた。視界に映るのは、絶え間なく列をなす車、空を埋め尽くす摩天楼。行き交う雑踏の中では、すぐに自分の居所を見失いそうになる。消えてしまうにはこれ以上の場所はないのだろう、と頭の端で考えた。
「用意するさ」
 強いて顔面に笑みを作る。一度、血が出るほどに唇の裏を噛んだ。
「逃げていけるところを作るよ。俺もお前も、そのためにこっちにいるんだろ。俺たちは自由になるんだ、なにに怯えることも、遠慮することも、もうしなくて済むように」
『……悪い』
「謝るならお嬢さまに、だ」
 エイトは今度こそ通話を打ち切って、端末に届いた情報を開く。添付ファイルの数はすでに十を超えていた。画面の地図上に並ぶ定点へと足を急がせながら、耳にこびりついた泣き声を思い出す。
 あなたじゃない、と。
 まるで赤ん坊のように泣き叫んだ、彼女の声を。