薄青色のカーテンが、アクエスの風にはためいて揺れていた。
 半開きにされた窓からは、絶え間なく女生徒の談笑がもぐりこんで来る。アイスクリームショップの評判、無愛想な雑貨屋の店員の悪口、ぎくしゃくし始めたクラスメイトの噂に、近付く試験期間への不満。数十分もすれば忘れてしまうような話題を取り上げては、彼女たちがきゃらきゃらと笑いあう。イチカはそれに耳をすましながら、保健室の天井の木目――正しくはそれを模した金属板――をぼんやりと見つめていた。
 昼前の授業の終了を告げる予鈴が鳴ったのは、まだ数分と前のことではない。もうしばらくすればミサキやユリが顔をのぞかせるだろう、と考えながらも、イチカは体を起こす気にもなれずにベッドに転がっていた。
 そうしてくり返し思い返されるのは、“大樹”で行われた婚約発表の映像だった。ともすればゴシップめいて聞こえるそれが、よもや父の口から飛び出すなどとは考えもしなかったのだ。
 ――私の娘、と彼は言った。
 鼓膜を擦るような声を思い出して、イチカは細く息をつく。
(八神一花。八神議員の娘。八神警視ではないほうの子供。まだひとり身の)
 婚約させる価値のある、娘。
 自ら単語を導き出して、イチカは眉間にしわを寄せる。
(……当たり前じゃない、REBにしてまで生き延びさせた娘よ。大判をはたいて守り抜いた子供を、利用しないでどうするの)
 母はもうこの世にいない。以来父が二人目の妻を迎えることをしなかったのは、政界へのポーズ作りでもあったのだろう、とイチカは思う。誠実さのアピールによって足場を固めた八神榛一議員なのだから、病気がちであった幼い娘の命も、当然救わなければならなかったのだ。
 イチカが生身の体を失ったのは三歳のころ。母親が電子情報の墓地に埋められたのは、それより昔のことだった。
 毛布で口を覆って、こぼれそうになるため息を押し殺す。
(形だけ、そうよ、形だけでいい。どんなに癪でもあいつと籍を置くだけ。それだけでも、“形だけ”の和平が保たれるんだもの。……いいじゃない、十分だわ)
 笑わなくてもいい、喋らなくてもいい。書類にサインをしてやるだけだ。あとは父を始めとした“大樹”の人々が、婚姻に相応の意味付けをしてくれる。身じろぎをしたイチカの脳裏に、しかしありありと浮かび上がるのは、エイトのほほ笑みだった。
 あなたを口説き落とします。
 自分の胸にだけは嘘をつかないで。
 イチカ、俺は、あなたのことが。
(……なにが、嘘だっていうの)
 そろりと目蓋を下ろす。女生徒たちの笑声が、どこか遠くへ消えていく気がした。
(恋が伴わないならそれは嘘? 父さんたちの役に立つ娘でありたいのも、友達を危険にさらしたくないのも、全部私の、本当の心なのに?)
 ねえ、と呼びかける。届かないと知っていたからこそ。
 小器用な優しさに救われてしまうことが、今はなにより恐ろしかったから。
(どうして、“好き”でなければいけなかったの――)
 保健室に届いたチャイムは、くぐもった音を響かせる。生徒たちの眠りを妨げないようにと配慮がなされているためだ。
 目ははっきりと冴えている。ふたたび眠りにつく気にもなれなかった。イチカは携帯端末を鞄から引き抜くと、受信していた通信に許可を出す。画面には数秒と経たずに校長の丸顔が現れた。手持ちのイヤホンを端末に接続し、彼の声に耳を傾ける。
『中間考査の時期が近付いています。生徒のみなさんであれば、もちろん対策を始めているころだとは思いますが……』
 イチカは知らず知らずのうちに唇を歪めていた。
 体調不良を理由に欠席した昨日、そして保健室で眠っていた今日。その二日間で、どれだけ授業が先に進んだとも知れなかった。ただでさえ落ちこぼれを迷わず振り落とすような教育が行われているのだから、考査が近いともなれば、学校のあちこちで悲鳴が上がっているに違いないのだ。
(頭が痛い……)
 イチカはもぞもぞと端末を操作して、今度は教科書を呼び出した。予習が授業に追いついているかも定かではない。画面上に踊る数列を見つめてため息をついたとき、保健室の扉ががらりと開いた。
「先生、イチカは」
 ミサキの声だ、とイチカは顔を上げる。今の今まで雑務をこなしていたのだろう保険医の影が、ゆらりと立ち上がった。
「ちょっと待ってね。……八神さん、起きている?」
「はい」
 ベッド脇のカーテンがめくられる。数式にかじりついたイチカを見るなり、保険医は細面に呆れを浮かべた。
「あなたねえ、ベッドの上でまで勉強してどうするの」
「なんだか心配になって……ああ、ミサキ。ユリも」
「おはよ」
 保険医の差し出した椅子に、真っ先に腰を下ろしたのはミサキだった。彼女はためらいもなく足を組んで、イチカの手もとを見つめる。
「ここって、ふつう勉強が嫌で逃げてくるとこじゃない?」
「ミサキ。先生がいらっしゃるから」
 ユリがなだめれば、保険医がひらひらと手を振る。そうした生徒たちも受け入れているのが事実なのだろう。けろりとした顔で椅子に座っているミサキなどが最たる例だった。イチカは苦笑しながらユリを見上げる。
「授業資料は配られた?」
「数学の課題が二枚と、物理の映像ファイルね。送っておくわ」
 手短に礼を述べたところで、挙げられた通りのファイルが端末に送られてくる。それぞれを軽く眺め、別のフォルダに放り込んだところで、イチカはほうと息をついた。内容から察するに、まだ追いつけない範囲ではない。
 あとで授業再現映像を引っ張り上げよう、と心に決めて、端末を布団に放る。顔を上げたイチカを迎えたのは、ミサキのしかめつらだった。
「真面目だよねえ。休むときぐらい休めばいいのに」
「じゅうぶん休んだわ。昨日も今日も、もうぐっすり」
「また体を壊したら意味がないじゃん」
「REBは丈夫だもの、平気よ」
「そのREBで熱を出したのは誰だよう」
 ミサキがむうと頬を膨らませる。イチカはユリと目を見合わせて、それから眼差しをゆるめた。
「もうちょっと休んだら教室に戻るわ、午後の授業は出られそうだし。……ごはんも食べていないんでしょう? ここじゃ迷惑になるから、先に戻っていて」
「イチカあ」
 ミサキはそう呼びかけたきり唇を引き結んでいた。困り果てたユリに肩を叩かれても、椅子に座りこんだまま動かない。しばらく無言の重圧をまとわせたのち、彼女は不意に口を開いた。
「逃げてみようよ、イチカ」
 ミサキの細い指が、一本立ち上がる。
「……逃げるって」
「一昨日イチカがあの美青年から逃げたのは、もう婚約のことを知っていたからなんでしょ? イチカはそれが嫌で、教室を出ていったんじゃないの」
「そうだけど」
「それなら一回、本気で逃げてみようよ。あたしたちがサポートするからさ。ねえユリ」
 自信に満ちた顔を受け止めるユリも、ミサキの発言は予想外であったらしかった。面喰って友人を眺め、「サポートって」と口をつぐむ。
「イチカの嫌がることはさせたくない、でしょ? このままじゃイチカ、どんどん我慢して、結局なにも言えなくなっちゃうもの。一度はっきり反対すれば、もしかしたら別のお嫁さんを見繕ってくれるかもしれないしさ」
 にい、と吊り上げられた唇の端に、少女らしい豪胆さがのぞく。ユリがしぶしぶうなずいたのを確認してから、ミサキはイチカを振り向いた。
(逃げてみる……)
 生まれてこの方、一度として、父や兄に反抗したことはなかった。反抗する暇さえ与えられなかった、と言うべきなのだろう。父ハルイチに言い渡される言葉は、いつも決定事項としてイチカの頭に降りかかってきたのだ。REBの体を押し付けられたときも、婚約を決められたときも。
 できるだろうか、と考える。面と向かって彼らに否やを言うことができなくとも、相手がエイトであるならば。黙り込んで、ミサキの瞳をのぞき込んだ。
「……婚約はもう決まったことだわ。あいつや私が別の人間に取り換えられることはないし、この話がなくなることもないでしょうけど、……そうね」
 窓硝子の向こう側には、青の街が広がっている。目を凝らしても果ての見えないアクエス、人の波を抱いた都市。イチカが声を限りに叫んだところで、ふり返るのはせいぜいが校舎の生徒たちぐらいのものだろう。
 それでも、と胸に呟く。たとえ雑踏にかき消されてしまうとしても、自分に声があることを知らしめることができるなら。イチカはミサキを真似て目を細める。
「鼻を明かしてやりたいわ。あいつをぎゃふんと言わせたい。私たち、まだ高校生だものね」
「さっすがイチカ、そうこなくっちゃ!」
 ミサキは指を鳴らすが早いか、自分の携帯端末を立ち上げる。イチカたちの前に表わされたのは、アクエスの中央区を示した地図だ。縦横無尽に巡らされた鉄道やバスの路線が、簡素な線で示されている。
 地図上の一点、学校の所在地をミサキは指で叩き、続いていくつかの路線をなぞる。呼応するように浮かび上がった図面を、イチカとユリが目で追った。
「まあ任せてよ。あたし、このへんの抜け道には誰より詳しいんだから」
 伊達に部長と追いかけっこしてないよ、と、所属する陸上部の少女を槍玉にあげる。過酷な練習を虫より嫌って逃げ回るミサキにとって、アクエスの中央区は庭も同然なのだった。頼もしいわねと笑って、イチカはミサキの地図を自身の端末に複写する。
「美青年には悪いけど、これもイチカのため。ひと泡吹かせてやんなきゃね」
「そんなこと言って。捕まってぺらぺら喋らないでよ」
「平気だって」
 ユリに地図を送信し、ミサキは大きくうなずいた。
「友達がなにより大事だなんてことぐらい、女子高生にとっては常識、なんだからさ!」