Chapter2 水底は遠く
いってらっしゃい、の一語で送り出されたことがついぞなかった。
保育施設に通っていたころこそ行き帰りには兄の付き添いがあったものの、彼に親代わりの愛情を期待するだけ無駄だった。前を行くレイシの背中を小走りで追いかけ続けて、園に辿りつくころには肩で息をしていたことを、イチカはよく覚えている。保育士からは彼女を気遣うようにとの働きかけがあったようだが、その声がレイシらの鼓膜を揺らすことができたかどうかも定かではないのだった。
「それじゃあ、イチカ。このあたりで」
イチカの通う中央高等学校の校門から、徒歩五分ほどの距離を置いた場所。比較的人通りの少ない道で、エイトがひらひらと手を振った。
ときおり行き過ぎる高校生たちは、エイトとイチカを異質なものでも見るかのように一瞥していく。イチカはげんなりと顔をしかめていた。
「……これを毎日続けるつもり?」
「はい、もちろん」
「朝早くにわざわざ家まで来て、学校に送り届けるだけ送り届けて。授業が終わったら、帰りにも迎えに来るっていうの?」
「そんなときでもないと一緒にいられないので。お家に長居されるのは嫌だろうし」
どっちもどっちだと考えはしたものの、透きとおった太陽の光を浴びていれば言い返すことも馬鹿馬鹿しくなる。イチカは顔を覆って首を振った。
「今のうちに忠告しておくけど。絶対に続かないわよ」
「イチカが今まで続けているんですから、俺が倣わないと嘘でしょう」
言うなりエイトはイチカの毛先に触れる。外に払い出たひと束を梳きなおして、うん、と満足げにうなずいた。イチカは跳ぶように後ろへ下がる。
「い、いきなり触らないで!」
「どうして? そのほうがどきどきしませんか」
「時間と場所と相手をわきまえなさいって言ってるのよ、この無神経!」
なんのことやら、とエイトが肩をすくめる。そのわざとらしさが鼻についた。
イチカは踵を返す。肩を怒らせて数歩を進んだところで、「いってらっしゃい」と笑い交じりにかかる声があった。
ちらりと一度だけふり返る。けれども青年の顔は、結局見られないままだった。
早足で校門へ向かえば、いつも通りの喧騒がイチカを出迎えた。
制服を彩るモスグリーンは、小中高一貫の教育組織に共通のものだ。夏服のズボンやスカート、冬服のブレザーに用いられたその色は、学生証や個人の立ち居振る舞いよりも有言に生徒たちの所属を示す。それというのも、モスグリーンを身につけることが許されるのが、アクエスでも最上クラスの名門とされた学校の生徒のみであるためだった。
見慣れた色の洪水に包まれながら、イチカは教室の扉を開く。高等部二年の教室は、神学を控えた三年生のものとも、先輩の影に怯える一年生のものとも異なった空気をはらんでいる。耳に飛び込む挨拶に応えつつ教室を横切り、自分の机に鞄を下ろした。
「おはよ、イチカ」
「おはようミサキ。席を返してくれる?」
我が物顔でイチカの席に座っているのは、腕組みをしたミサキだった。その横ではユリが苦笑を浮かべている。
ミサキは鹿爪らしい表情で首を振った。
「それよりもねえイチカ、私はきみに問わなければならないよ。これは由々しきことだ」
「そう、聞きましょうか」
「おとといイチカを追いかけていったあの青年! つまりは今日イチカをここまで送り届けた彼のことだよ! イチカくん、どういうことなのかね。説明したまえよ」
傍らのユリが小声で「昨日のドラマが響いているらしいの」と囁いた。主演男優はミサキの愛するアイドルのなにがしであったはずだ、と頭の端で思い出しながら、イチカはどうしたものかと目を虚空に向ける。
黙秘を認めてくれるような友人ではない。しかし上層と下層の思惑を聞かされている以上、何から何まで語り聞かせることが、得策とも思えなかった。
拮抗するイチカとミサキの視線のあいだで、ユリが再び口を開く。
「そのことなんだけどね、昨日気になるニュースがあって」
録画してきたんだけど、と自分の携帯端末を操作する。机上に横たわった画面には、彼女の言葉通り、夕刻のニュース番組が映し出されていた。
「このニュースの次……ああ、これ」
流れ出したのは、“大樹”の中で行われた都市議会の一幕だ。マイクの前に立った父親の姿を、イチカは口をつぐんで眺めていた。
『先回の議会の議決通り、上層市民と下層市民との間に協約を結ぶことと致します。内容は相互不侵攻の法定強化、それに伴う互助関係の促進――』
つらつらと読みあげられる文言に、議員たちは静観の姿勢を崩さない。イチカの父親が口にした通り、協約の締結に関してはすでに定められたことであるのだろう。一度言葉を切って、八神議員は手元の草稿から顔を上げた。
『下層との交渉の結果、この協約の証として、上層と下層の人間のあいだに婚姻関係を結ぶ運びとなりました。ついては私
八神榛一の娘八神一花と、下層の青年との婚約を進めています』
声をあげた議員と、沈黙を保った議員がいた。イチカはその様をじっと見つめる。微動だにしなかった議員たちのうち、いったいどれだけが事前に話を受けていたとも知れなかった。八神議員の発言はあくまでも報告の形で処理されてはいたが、彼ならば混乱を避けるための根回し程度は行っていてもおかしくはない。
続くニュースを読み上げ始めたキャスターを、三人の少女たちはしばらく無言で眺めていた。ごくり、とつばを飲んだのはミサキだ。
「八神議員の娘って、イチカだよね」
イチカはそうねと首肯する。氷を吐き出すような声に自覚はない。ミサキが瞳を揺らした。
「それじゃ、政略結婚ってこと――」
「ミサキ」
ユリが少女の肩を小突く。ミサキははっとして言葉を止めたものの、その顔色は苦虫をかみつぶしたように曇っていった。
「な、なんとかならないのかな。ねえユリ」
「なんとかって言ったって……」
囁き合いを横に、イチカは画面を睨みつける。遠い視点から映し出されたのは小学校だ。小ぢんまりとした校舎からは、高らかな銃声が響いてくる。
『本日十二時より、上層三区に位置する第五小学校が下層市民の襲撃を受け、占拠下に置かれています。警察は彼らに学校と人質の解放を求めていますが、襲撃から六時間経過した現在、未だ現場に動きはありません』
舐めるように揺れたカメラが、担架で運ばれていった少年を画面に映す。顔と傷口こそ隠されていたものの、彼らが通りすぎた地面には血の滴が染みを残していた。怪我人は彼のみではないのだろう、ひっきりなしにサイレンの音が鳴り響く。
現場の映像はシームレスに画面隅に追いやられ、再びニュースキャスターが映し出される。その傍らに座った男が、白いひげを撫でていた。
『権威拡大を求めるテロ行為でしょう。以前にもこうした事件が頻発しました。上層議会の構造改革が行われた時期のことですが』
『六十年前のことでしょうか、磯塚さん』
『そうですね。上下層を繋ぐテレポーターを、一括して上層の管理下に、と定める法案を題目として打ち出した改革でした。上層に移り住んでいた少数の下層市民がクーデターを起こしたため改革は断念、現在もテレポーターは相互不可侵領域とされています』
続きニュースキャスターが読み上げたのは、小学校から運ばれた死傷者の人数だ。切り離された画面の中には、校門の前に座り込み、祈るように指先を組み合わせる女性たちの姿があった。
――暴動は盛んになっているし、裁判沙汰の小競り合いも絶えない。
エイトの言葉を思い出す。イチカにとっては、耳にたこができるほど聞かされ続けた現状だった。兄の背中をニュースの中で見かける回数も格段に増えている。小学校襲撃の事件も、そうした騒動のひとつにすぎない。
しかしイチカの指先は、いつからかきつく掌を苛んでいた。
画面越しの世界に触れるだけの力はない。いつ何時も、救出に向かうのは兄で、解決に向かうのは父だった。そうした彼らの姿を、イチカは電波を通して遠目に知るばかりだった。
(でも、今は)
八神一花という名前には、彼らと同じだけの価値が与えられている。“大樹”で八神榛一が娘の名を出したその瞬間から。
「――イチカ。イチカ」
呼びかけられ、イチカは数秒遅れてミサキを見つめ返した。彼女の黒い瞳の中には、呆然とする娘が映り込んでいる。
「ひどい顔してた。真っ青」
ミサキの言葉に、イチカは悔いるように眉を寄せる。
「……ごめんなさい、少し吐きそう」
「医務室に行きましょう。昨日だって熱を出していたんだもの、仕方ないわ」
ユリに背を押され、イチカは黙って彼女に従った。ふたりの友人のどちらも、イチカの蒼白を体調のせいだなどとは考えていないのだろう。ちらとふり返れば、ミサキはうっすらとグロスを乗せた唇を噛みしめている。
「ユリ」
細い声で名前を呼ぶと、ん、と返事が耳に入る。彼女の顔さえ見ることができずに、イチカは廊下を見下ろしていた。
「ミサキのこと、あとでうまくなだめてあげて。……どうしようもないことはわかっているの。認められないだけ。でもそれは、ミサキが心配するようなことじゃないから」
規則的だった足音が途絶える。そこに至って、イチカは初めて背中をふり返った。首横でひとつに括られたユリの髪束が、歩みの余韻にさらりと揺れる。
――幼なじみだよ、とミサキは言った。ふたりは学校に籍を置く前から、親同士の付き合いに由来した面識を持っていたという。趣味や性格こそ正反対であったものの、ふたりの少女が離れたところを、イチカは一度として見かけたことがない。
その片割れが、姉のような顔つきでほほ笑んでいる――あるいは、妹のような弱々しさで。思わず口をつぐんだイチカに、ユリはゆるやかに首を振った。
「イチカが考えるほど、ミサキは子供じゃないわ。こういうときに足踏みをしてしまうのはいつも私のほうなの。なにもできないから諦めてしまうだけ。でもミサキは、ずっと強くて優しいから……」
ユリ、と。彼女の名前を呼ぼうとした。けれどもイチカの喉は、ほんのかすかにも震えてはくれなかった。
ユリは両手の指を組み合わせて、寂しそうに目を細める。
「お願いよ、イチカ。私たちにも心配させて。上層だとか、下層だとか、イチカだけが悩まなきゃいけないなんて、そんなのおかしいもの」
ユリはイチカの両肩に触れ、ふたたび廊下を歩ませる。保健室の扉を開いたところで、彼女はそっと身を離した。にっこりとほほ笑んだ顔にはもう影もない。
「ゆっくり休んで。ミサキと一緒にお見舞いに来るからね」
またねと残された声が、イチカの胸にぬくもりを灯していく。思い起こされたのはふたりと出会ったその日のこと。甲高い声が叫んだ同じ言葉が、耳の中に蘇り、鼓膜を震わせていくように感ぜられた。
イチカと呼んで、手を握って、少女たちは笑いかけたのだ。八神議員の娘、あるいはREBの体を持った季節外れの転入生でしかなかったイチカが、初めて教室の床を踏めたのはそのときだった。
彼女たちの傍にだけ自分の名前が呼ばれる場所がある。そう思っていた。
(だからこそ、よ。ユリ……ミサキ)
最後まで告げられなかった不安が、イチカの視線を引き下げる。
血を流した子供たちと、遠巻きに見守るしかない母親たち。惨状を伝えるニュースを見つめながら、イチカは確かに安堵していたのだ。赤々と記された死傷者数に、友人たちは含まれていなかった――それが偶然でしかないことに、気付いてしまったからこそ。