すべてアップデートが原因だ、と、イチカはベッドの上でむくれた表情を浮かべていた。
 REBを取り換えたばかりで、諸機関の機能に意識が追いついていないのだ。感情が不安定になっているのもそのせいに違いない。そうでなければ、初対面にも等しい若者を前にして痴態を晒し続けるようなことはしなかった。イチカはぶつぶつと自分に言い聞かせ、ベッドから身を起こす。
 十分な睡眠は、体の不調を端から拭い去ってしまったようだった。頭は澄みきっており、呼吸も幾分か楽になっている。汗の染みこんだ服を脱ぎ捨て、簡単に体を拭ってから、外出用の服に着替えた。膝上のスカートを躍らせて部屋を抜け出す。
 端末を確認すると、友人からのメールが数通届いていた。病状を心配するそれらに軽い調子で返事をしてやる。玄関で靴を履き換えたとき、時刻はすでに昼をまわっていた。
 なにはなくとも、REBを慣らすのが先決だ。そう決めて扉を開く。
「イチカ」
 門の前で端末を操作していたエイトが、イチカに気付いてふり返った。
「落ち着いたみたいですね。具合もよさそうだ。安心しました」
「……あなた、まだここにいたの」
「一度帰りました。いつまでも同じ服を着ているわけにもいかなかったから」
 その際に着替えたのか、顔合わせの意味を込めていたのであろうスーツも、幾分かラフなシャツにすげ変えられていた。一方でループタイとカーディガンの落ち着いた色合いは、イチカとのあいだに適度な距離を取る。
 そつのない青年だった。イチカは舌を巻きながら、探るようにエイトを見る。人の胸で泣き腫らした揚句眠りについてしまったのだから、ひとつふたつの揶揄は覚悟していたものの、彼はまるで何事もなかったかのようにイチカの視線を受け止めるのだった。
「お出かけですか。学校じゃありませんね、よそゆきの服だ」
「ちょっと散歩に……寝ているのにも疲れたから」
「それなら一緒に歩いても?」
 人好きのする笑みは、彼の得意とするところなのだろう。イチカは拒否の言葉を探したものの、結局は小さく息をついた。
「好きにして」
「ありがとう、イチカ」
 首を振ったところで、丸めこまれるのが目に見えているのだ。外出の一歩目で気力を消耗するつもりにはなれなかった。
(ついてきたって、面白みなんかどこにもないのに)
 もの好き、と胸に呟く。イチカが無言で先に立つと、エイトは体を門から離した。



 学校を自分の事情で欠席したことがない、というのが、イチカのささやかな自慢だった。
 初等部、中等部、高等部と教育を受けるうち、一度染みついてしまった欠席への怯えが、イチカを毎朝健康的な時間に目覚めさせ、伴って日付を跨がないうちに眠りにつかせていた。無遅刻無欠席、考査で遅れをとることもない。絵に描いたような優等生だったと自分でも思う。そうあれるよう立ち続けていたのだから当然だ。
 強迫観念は、健康であることをイチカの体に強要した。ここ数年間熱を出すような風邪にかかってこなかったのはそのおかげだ。寝込んだところで看病をする人間がいないということも理由にあったのだろう、と思う。
 だからこそうららかな平日の昼どき、こころなしか人気の少ないアクエスを闊歩することに、イチカが確かな罪悪感――それと共に、かすかな興奮を覚えていたことは確かなのだった。
「学生がいる……」
 中央街を離れた並木通り、イチカの視線の先には、寄り添うふたりの女学生の影がある。今日は平日だったはずだけど、と呟いたイチカに、エイトは肩をすくめてみせた。
「たまには休みも必要でしょう。息苦しくなるときもある」
「あなたもそうしていたの」
 十九歳ともなれば高等教育を終えたころだ。ほんの興味から尋ねたものの、エイトは複雑そうに眉を下げる。
「俺の場合は、親が教育費を出す人間ではなかったから。通っていたのは公費で行けた中学校までです。高校には行っていませんでした」
「教育費を出さない? 親が?」
 問い返すイチカに、エイトは短くうなずいてみせる。
「他に比べて厳しかったので。だから一般教養は友人に教わった程度です。その友人がさぼり癖のある奴だったので、よくああして付き合いを」
 言いながら、並んで歩く男子学生を指差した。家こそ出てきたものの手持ちぶさたになったのだろう、学生鞄を振り回して、娯楽施設へ行く算段を立てているらしい。笑いあう声が青い空に響いていく。
「下層には、そういう……学校に行けない人たちが、たくさんいるのね」
 イチカが神妙に呟くと、エイトがこらえきれないとばかりに吹き出した。喉の奥でくつくつと笑うので、イチカは勢いよくふり返る。
「な、なによ」
「いや、偏見もいいところだなと。教育制度は上層とあまり変わりませんよ。下層をスラムかなにかだと思っていませんか」
「そういうわけじゃ」
 ない、とも言いきれなかった。口をもごもごとさせたイチカに、エイトは笑いの名残をにじませた声で言う。
「興味を持ってくれるのは嬉しいので、気にしませんよ。これを機に知ってくれたらいい。下層のことも、俺のことも」
 エイトは数歩先を歩いて、イチカを海のもとへと導いた。水面をまるで湖のように取り囲んだつくりの公園では、年代を問わず多くの市民がそれぞれの昼下がりを過ごしている。ためらいなく海の水に手をひたして、エイトはその先を指差した。
 深く、水底を目指すにつれて、上層の光は闇の中に消えていく。しかし彼方には微かにちらつく光点が見て取れた。硝子の輝きとは異なった、自ら煌めく光源だ。
「あれが俺たちのいたところ。アクエスの裏側です」
 波を受けて光が移ろう。蛍のようだ、とイチカはそれに見入っていた。その蛍でさえ、アクエスを出たことのないイチカにとっては、絵や小説の中で存在を知るのみの生物だ。
 エイトの傍にしゃがみこみ、しかし居心地が悪くなって指先を擦り合わせる。自身の無知を目の前に突き出されたことは久しくなかった。
「さっきのは、確かに偏見だったけど。技術普及は上層ほど進んでいないって聞いたわ。人口もそう多くないし、日の光も差さないんでしょう」
「そうですね。下層市民は年中、人工の灯りと、上層から海を越えて届く光で生活しています。あちらでは足元から光が差すから、イチカは驚くかもしれない」
「行くとは一言も……」
「機会があったらで構いませんよ。観光でも、なにかのついででも。そのときに気に入ってもらえたら、俺は嬉しいです」
 手のひらを引き上げて、エイトは指先の水を払う。一粒一粒の雫が光を弾いて海へ帰っていくのを、イチカはじっと見つめていた。彼がおもむろに立ち上がるので、そういえば、と顔を上げる。
「あなた、泳げるのよね」
 人が水に触れなくなって久しい。アクエスの海の水が人体に害を及ぼす、という保険管理委員会の勧告が染みついているためだ。海に溶け込んだ電子情報は、REBのみならず、人体にも良い影響を与えないというのが常識だった。
 エイトはきょとんと目を丸くしてしばらく、ああ、と納得したように首を縦に振った。
「何度も飛び込んだことがあるんです。違う世界に行きたくて」
「……違う世界?」
「そう。子供のころですけどね。それが海の向こう、この上層であったのか、もっと違う場所であったのか、今ではもう分からないけど」
 懐かしむように目を細めて、エイトは水面を見つめる。
「知っていますか、イチカ。いつか、海はもっと広くて、塩気があって、大陸――アクエスの島よりも、ずっと大きな島たちを繋ぐものだった。海の向こうっていうのはアクエスの裏側じゃなくて、違う大陸を差すものだった、って」
「第一史実の頃のことでしょう。眉唾ものの学説だわ」
 歴史の教科書の片隅にぽつりと示されているだけの過去の話だ。歴史はかつて一度生まれ、滅び、もう一度生まれ直した。人々が暮らしているのは第二史実を積み重ねた“今”だ。第一史実の歴史を語る記録はどこにも存在せず、エイトが口にした世界でさえも数ある仮説の一片に過ぎなかった。彼は肩をすくめる。
「でも夢がある話でしょう。昔、海の向こうには、言葉や風俗はおろか、姿形も違う人々が住んでいた。宗教も、考え方も、文化レベルも、なにもかも――それでも彼らは意志伝達の手段を得て、互いに干渉しようとしていた、なんて」
 歌うようにそう口にしながら、エイトはイチカに手を差しだす。イチカはわずかに躊躇してから、そこに自分の手を重ねた。軽々と引き上げられて、スカートの裾がふわりと舞う。
「でも今は、世界はずっと身近になって、言葉の通じない相手もいなくなった。確かに便利ではあるけど、ちょっと窮屈ですね」
「エイト……?」
「ああ、はじめて名前を呼んでくれた」
 消え入りそうだったエイトの声に、うっすらと喜色がにじんだ。イチカの言葉が続かないことを悟ってか、彼は誤魔化すように笑う。
「教えましょうか、水に溺れないようにする方法。二度目があると困るでしょう」
 イチカは迷ってうなずく。正確に数えるならば三度目だ、とは口にしないことにした。エイトはイチカの前に指を三本立ててみせる。
「まずはむやみに暴れないこと。海より人体のほうが比重は軽いので、慌てさえしなければ、自然と体が浮かびます。学校でも教わったでしょう?」
 子供に言い聞かせるような口調だった。からかわれたかとイチカは口元をゆがめる。
 しかしエイトはすうと目を細め、瞳に猛禽の色を宿した。伸ばした指で、前触れもなく、イチカの唇をさらっていく。低く、囁くように言った。
「それから、息を止めていること。……キスをしたときみたいにね」
「なっ」
「それさえできたら、あとは俺を信じてくれればいい。イチカが水に落ちるようなことがあれば、必ず助けに行きます。大丈夫、溺れさせたりしませんよ」
 顔面にかっと熱が上った。転がるように後ずさったイチカを、エイトの笑声が追いかける。イチカはぶんぶんと首を振った。
「すっ、好きで息を止めていたわけでも、あなたを信じていたわけでもないわよ! 馬鹿!」
 鼻息荒く叫んで、イチカはぐるりと踵を返す。肩を怒らせて地面を踏むや否や、「あれ」ととぼけた声が背中にかかった。
「もうお帰りですか? まだ出てきたばかりですよ」
「あなたと並んで歩きたくないの、ついてこないで!」
「辛辣だな、さっきは許してくれたのに。デートだと思って楽しんでいたんだけど」
「ただの散歩だって言ったでしょう!?」
 ふり返ればエイトは唇に隠しきれない笑みを浮かべている。言い返すたびイチカが律儀にふり返るのを、楽しんでいるに違いないのだ。――大嫌い、と胸に叫んで、ずんずんと足を進ませる。地面を踏む靴音ひとつ、振る腕の角度ひとつ、重なることさえ気に障って、いつしかイチカは逃げるように家を目指していた。