ぽっかりと、吐き出した息は熱を含んでいる。
 どれほどの時間が過ぎたのか確認するのも億劫だった。ベッドの中、イチカは薄れかける意識を必死に繋ぎ止める。幸か不幸か、断続的な頭痛のおかげで、眠るのも起きているのも苦痛でしかなかったのだった。
 カーテンの向こう側からは、絶えず青い光が漏れている。朝は来ずとも日付を跨いだのは確実だった。慣れた自室、温い布団で、それでもイチカが気を緩められないのは、ベッド脇に立つ青年の存在があるためだ。
「三十九度。REBでも熱を出すんですね」
 体温計を弄びながら、エイトは軽い口調で言った。
「人に怒声を浴びせておいて、当のイチカは風邪っぴき、と」
「うるさい」
「鼻声じゃ威勢もなにもありませんね。涙目で睨んで、かわいいな」
「……底意地の悪さが透けて見えるわよ。泣き顔が好きなら赤ん坊でも抱いていなさ――くしゅっ」
 すん、と鼻をすすって、イチカは口を結ぶ。
 情けないと感じるだけの理性は、リビングで倒れた瞬間に放棄していた。腰さえ持ち上げられなくなったイチカを、エイトは当然のように抱え上げて寝室へと運び込んだのだ。
 イチカがベッドを出ようとすれば、脇のエイトが待ったをかける。体温計と風邪薬、冷却用のシートが用意されるのも時間の問題だった。結局イチカは動くことも許されず、彼の看病を受けるままになっていたのだ。
「もう話は済んだでしょう、帰って」
 寝返りを打って、エイトに背を向ける。その拍子にずり下がった毛布は丁寧に引き上げられた。
「帰れませんよ。病人をひとり残して」
「ただの風邪よ、海に落ちたせい。寝込んでいればすぐに直るから」
「それでもひとりじゃ心細いでしょう」
 しつこい、と唇に呟く。イチカは毛布を頭の上まで引き上げた。自分の汗のにおいに顔をしかめる。
「慣れているから平気。あなたを家にあげておく方がよっぽど心配だわ」
「惚れそうになる?」
「その前向きさは見習いたいぐらいね」
 毒づくと同時に、頭がひび割れるように痛みだした。口からはうめき声が漏れる。
「……お願いだから、帰ってちょうだい。ひとりで眠っていたいの」
 見苦しい姿を晒しているだけでも苦痛だというのに、相手は昨日今日会ったばかりの青年なのだ。問答を交わしていれば治るものも治らなくなるというものだった。
 居住まいを正すような物音があって、なら、とエイトが息をつく。
「食事だけ用意してリビングにいます。食べられそうなら呼んでください。直接でもいいし、立ち上がれなければメールでも」
 イチカの携帯端末が枕元に運ばれる。かっとなってふり返った。
「だから、帰れって……!」
「固形食ばかりじゃ飽きるでしょう。心配しなくとも、一服盛るようなことはしませんよ。REBにはばれるだろうし、それこそ抗争の火種になりそうだ」
「人の話を」
「おやすみなさい、イチカ」
 冷たいてのひらがイチカの頭を撫でていった。
 引き止めかけた声は、痰に絡んで咳へと変わる。静寂が部屋に訪れてようやく、終始抑えられていた声も、扉が静かに閉められるのも、イチカの頭に配慮されていたからだと気付いた。子犬のようにわめきたてていたのは自分のほうだ。
 ひりつく喉を、イチカは外側から撫でさする。家の中で大声を出したのは数年ぶりだった。



 過ぎた疲労は緊張さえも鎮めこんでしまうようだった。
 つんざくようだった頭痛は、気だるさを残す程度にまで収まっている。端末の時計を確かめれば朝の九時。イチカが体を持ち上げたとき、カーテンは太陽の光を透かしていた。ベッドに腰を下ろしたまま、しばらく詰まった鼻で呼吸をする。
「静かね」
 ぽそり、と呟いた。這うようにベッドを抜け出して、リビングの中を覗く。しんと静まり返った一室に人の気配はなかった。
(帰ったのかしら。もう朝だものね)
 顔を見せないイチカに愛想を尽かしたか、それとも一泊まではと遠慮したのか。どちらでもいいわと結論付けて、イチカは椅子に身を落ち着けた。遅れて机上の器に目をやる。
 保温用の蓋を取り除いて、粥だ、と気付いた。
 イチカははっと端末を顧みた。ミサキやユリからのものに続き、未登録のアドレスからのメールが届いている。受信時刻は九時前、となればそう過去のものではない。
 おそるおそる開いて拍子抜けした。買い物に出てくるということ、粥は温めて食べるようにということを簡潔に示しただけの、エイトからの言伝だ。
(……本当に、ずっとここにいたのね)
 リビングに身を落ちつけられるような場所はない。二人掛けのソファがひとつ、こぢんまりと置かれているぐらいのものだ。イチカは一度顔をしかめてから、粥の器を加熱器に放りこむ。
 久しぶりに手に取ったスプーンは、手にずしりと重みを残した。イチカは粥をひとすくいだけ含んで眉を寄せる。
「小器用なやつ」
 よくよく煮溶かされた米の粥には、鶏卵が混ぜ込まれているらしい。ものの味を感じられない舌にもほのかな甘みが伝わった。先ほど流し見たキッチンが片付いていたことを鑑みても、エイトが調理に慣れていることは明らかだ。
 端正な顔、海を泳ぐだけの運動神経に、料理の腕――長所を数え上げるたびに、非の打ちどころがなくなっていく。ミサキであれば目を輝かせているところだ。だからこそイチカの顔は渋くなる。最後の一口を喉に流し込んでからも、長くスプーンを握りしめていた。
 快い電子音が響いたのはそのときだ。
 玄関の解錠を報せるチャイムだった。エイトが帰って来たのかと納得しかけて、しかしイチカはすぐに椅子を蹴った。
(家族用の通知音だわ。どうして)
 父親が家に帰るのは数日後のはずだ。勤務期間には忠実な彼が、急な休暇を取りつけるはずもない。イチカの胸が鼓動を打ったとき、リビングに人影が立った。
「兄さん?」
 紺の制服を隙なく着こなした青年が、イチカを見るなりまばたきをする。切り揃えられた髪、鋭い目つきのどちらをとっても、テレビに映っていた姿のままだった。
 彼の背後にはひとりの女性の姿がある。彼女は先導する青年同様、警察服を身にまとい、くせのない黒髪を肩口に下ろしていた。視線を退けるだけの冷たさを宿した顔立ちが、病み上がりのイチカをすくませる。
 イチカは指先を握りしめ、顔を上げた。
「……お仕事はいいの」
「資料を取りに来ただけだ。すぐに署に戻る」
 言うなりレイシは自室に入っていく。しばらくの無言の後、残された女性がイチカに小さく頭を下げた。目礼を返したイチカに、薄型のデータメモリを握ったレイシが問いかけた。
「学校はどうした」
「風邪をひいたから……今日は、休むことになると思う」
「そうか」
 理由の確認。兄が行ったのはそれだけのことだった。
 父であれば早く治すようにとの言いつけが続いていただろうが、レイシはそれ以上を気にかける男ではない。喉がからからに乾いていくのを感じながら、イチカは顔を背けていった。
 女性が踵を返すのを、鼓膜を揺らす足音で知る。しかしレイシは立ちつくしたままだった。
「イチカ」
 呼ばれ、目をしばたいた。続く会話があったことにも驚いたほどだ。
「な……なに」
「客がいたのか」
 日を浴びた芽が、呆気なく摘み取られるかのようだった。喉奥を刺した針を、イチカはつばとともに飲み込む。馬鹿、と胸に呟いたのは、自分を叱りつけるためだ。
(なにを期待したの)
 無機質な人間。イチカが兄に向ける評価は、変わらないままであるはずだった。
 妹の在宅を訝しむことこそすれ、心配するようなことはしない兄だ。客人の有無を問いかけたところで、イチカの安全を慮ることさえしないのだろう。
 口から漏れだした吐息を、抑えつけることさえできなかった。
「兄さんのところまで連絡が届いているかは知らないけれど、私に婚約の話が来ていたの。だからさっきまで、その相手がここにいて」
 ああ、とレイシがうなずく。
「下層の。光峯瑛斗といったか」
「わ、私は反対よ。相手が下層市民だなんて。兄さんだってそうでしょう、昨日も暴動を止めに入っていたんだから……」
「警察は司法組織だ。上層と下層のどちらにつくつもりもない。そもそも父さんも議会も、お前や俺の一存に興味はないだろう」
 イチカが求められているのは、議員の娘であることだけだ。腹を締め付けられるような心地がして、歯を食いしばる。
 レイシはメモリを懐にしまい、ただ、と付け加えた。
「気は抜くな。お前と婚約者のあいだにいざこざがあれば、警察も敏感にならざるを得なくなる」
 それきり靴音が遠ざかる。気の抜けたチャイムがふたたび鳴り響いたとき、イチカは冷え切った空気を腹にためこんでいた。
「……それなら、気にかけることぐらいしてくれたっていいじゃない」
 虚空を睨みつけて、その言葉の無意味さを嫌悪する。
 あまりにも滑稽だ――理解し合えないことを知りながら、望みをかけることをやめられなかった。それは積もった砂を掘り続けるのと同じこと、底など見えるわけがない。指先を痛めるだけだと分かりきっていたのに。
(馬鹿)
 自分で放った矢が、自分の胸をえぐる。立ち続けていることもできずに、いつからかその場に膝をついていた。視界がぼやけ、頬を生ぬるい雫が伝うのを、両の手で拭おうとする。
 ふいに、リビングに人気が立った。探るように鳴らされていた足音が、イチカの傍でぴたりと止まる。
「……イチカ?」
「嫌」
 それが誰であっても、同じ言葉を吐いていたのだ。
 払いのけようと振るった腕は、エイトに目の前で受け止められる。それでもイチカは首を振らずにはいられなかった。
「離して、嫌、」
「イチカ、なにが」
「嫌、嫌よ、違う……っ!」
 子供の喧嘩のようなもつれ合いは、イチカが抱きこまれたところで終わりを告げた。腕を取り上げられて、背中に手を回される。押し付けられるようにして胸に抑え込まれてしまえば、イチカの身にはもう力が入らなかった。
 鼻孔に潜り込むのは、ささやかな甘い香り。ムースとは別の匂い。
「イチカ」
 呼び声に、イチカの喉がひくりと鳴いた。
「あなたじゃ、ない」
 絞り出すようにして呟く。
 ――違っていた。慰めてほしいのも、頭を撫でてほしいのも、抱きしめてほしいのも、昨日今日会ったばかりの青年などではない。幼いころに開いた穴は、他のものでは埋まらなかった。そんなことには気付いていたのに。
「あなたなんかじゃない……!」
 叫ぶ。喉は刺すように痛んだ。一度吐き出した嗚咽は留まらず、溺れるように涙を流す。憤りが胸を食い破ろうとも、エイトを突き飛ばすこともできないまま、目蓋をきつく閉じていた。
 震えをなだめつけるように、イチカの背中が撫でられる。泣き疲れた娘が眠るまで、エイトはてのひらを休めることをしなかった。