体温は思いのほかに奪われていたらしい。シャワーの湯を浴びせかけた途端、イチカの指先はひりつくような痛みに襲われた。
 海への廃棄物の不法投棄が禁じられているとはいえ、四六時中水面を表に出した水が汚れていないはずもない。髪と体、顔をきちょうめんに洗い、足の爪にもぐりこんだ砂粒も追い払う。満足がいったところで、ようやく湯船に身をつけた。
 設定水温は三十八度。湯に腹を押されて、イチカは深い吐息をこぼす。トリートメントの甘い香りに、目蓋は半分閉じかけていた。
 すぐにでもベッドに身を投げ出して眠りについてしまいたい。しかしイチカは自分で呼びこんだ客人を、いまもリビングで待ちぼうけにしたままなのだった。釈然としない思いで唇に触れると、そこをかすめた熱が記憶をよぎる。眉にしわが寄った。
「違うわ、なしよ。あれはなし」
 呟かずにはいられなかった。
(REBのことを知らなかったんだもの。人工呼吸は救命活動の一環だわ、止血をするのと同じこと。前時代の人間だってこと、思い出しなさい、イチカ)
 浴室にたちこめる湯気の中、イチカは懸命に言い聞かせる。両手を顔に近づけて、ぺち、と頬を叩いた。
「相手は下層市民。REBを嫌っているのはあっち」
 暗示をかけるようだった。少しずつ呼吸が穏やかになっていくのを感じ取ってから、そっとまばたきをする。
(話だけ聞いて、帰ってもらいましょう。そこまですれば、十分すぎるぐらいに誠実だわ)
 心に決めて、イチカは身を持ち上げた。
 普段であれば早々に部屋着に着替えてしまうところを、ジャージで妥協した。タオルをかぶってリビングに顔を出す。手持ちぶさたといった表情で立ちつくしていた青年に行きあたって、ちょっと、と唇を尖らせた。
「あなた、まだそんな格好でいたの」
 ずぶ濡れのスーツを着込んだまま、エイトがイチカをふり返る。
「着替えは持ってこなかったので」
「……ええ、そうね、そうだったわ。放り出した私が悪かったわね」
 自分のことばかりを考えていたのは事実だった。イチカはため息を漏らし、タオルを二枚、エイトの胸に押し付ける。こっち、と先導して、浴室の前に放り出した。
「あとで着替えを運ぶわ。乾燥機はそこ。乾かせないものは吊るしておいて。浴室の中のものは好きに使っていいから」
「いや、シャワーまで借りるわけには」
 遠慮を聞き入れるつもりはなかった。イチカはエイトの肩を押し、強いて脱衣所に押し込む。扉を勢いよく閉めると動揺の気配が伝わった。
「家の床が濡れると迷惑だし、あなたに風邪をひかれるのも寝覚めが悪いの。自分が客人だってことを理解してちょうだい」
 ぴしゃりと言い放ち、力のない返事が届くのを確認してから、イチカは廊下を取って返した。クローゼットに吊るされたままの父の服を数着引き抜いて、更衣室の前に放り出す。
(父さんが持ち込んだ婚約話だもの。着替えぐらい借りてもいいでしょう)
 その場に座り込んで数秒、間もなく水音が聞こえてくるのに、幾分かほっとした。リビングに戻る前にと固形の栄養食を引っぱりだして咀嚼する。舌に残る粉末を水で流し込んだ。
 料理を作る手間に気力が奪われることを思い知って以来、イチカの夕食はもっぱらまとめ買いした固形食と決まっていた。父や兄がいる状況であれば手間をかけるのもやぶさかではないが、ひとりの食卓に味気もなにもないのだ。
 がらんどうのリビングでは、点けたままのテレビが無音のニュースを吐き出している。ひとつふたつと音量を上げて、呆けた顔で耳を傾けた。
『本日午後三時、第五地区市街地に、下層市民を中心とした暴動が起こりました』
 アナウンサーの淀みない口調に合わせ、上層の一区画が映される。放り出された廃棄物、倒れた人々と、錯綜する救急車。最前線に立っているのは警察官たちで、殺気だった市民を抑え込んでいた。
 イチカはボトルの水を口に含み、頬杖をついてニュースを眺めていた。しかし人波にカメラが寄せられたとき、ん、と声を漏らして画面を停止させる。手動で画像を拡大した。鮮明になる写真に映りこんでいたのは、ひとりの警察官だ。
「お兄さんですね」
 背後から喋りかけられて、イチカは椅子から飛びあがる。わずかに身をかがめたエイトが、すぐそばに立っていたのだった。
 苦笑が耳を掠める。唇をわなつかせたイチカから距離を取り、彼は服の裾をつまんだ。
「服まで借りてしまってすみません。これはお兄さんの?」
「……父さんのものよ。どうせ今日は帰ってこないから」
「それじゃあ、また後日返しに。ありがとうございます」
 言って、エイトはてらいもなく頭を下げる。イチカは苦々しい思いで席を移動した。青年に椅子を促し、自分はその向かいに腰を落ち着かせる。
 きちんと背筋を伸ばしたエイトに対し、つけられるような文句は見当たらなかった。彼はにっこりと笑って口を開く。
「それじゃあ改めて。はじめまして、光峯瑛斗といいます。ご存知の通りアクエス下層の、第二地区の出身です。歳は今年で十九」
「そういうことはいいの」
 続きかけた自己紹介を遮る。父さんのメールに載せられていたから、と添えて唇をすぼめた。
「どうしてこんな縁談が組まれたのか、納得のいく説明をしてちょうだい。私はメール一通で話を通されて、何も知らされないままあなたに会っているの。迷惑なことにね」
「八神氏もご多忙ですね」
「慰めもいらないわ」
 声を固くし、目配せをすると、エイトはいくらか考えるそぶりを見せる。静止したままのテレビ画面をちらと見てから言った。
「上層と下層の確執が激しくなっていることは知っていますか。暴動は盛んになっているし、裁判沙汰の小競り合いも絶えない」
「飽きるぐらいに耳に入ってくるわよ。議員と警察官が身内にいるんだもの」
「それなら分かるでしょう。この婚約は、上層と下層の合意で為されたものです。上層出身のあなたと下層出身の俺との結婚を、歩み寄りの一助にしたいようで」
 イチカは唇の内側を噛む。――目を背けていたとはいえ、薄々感づいていたことではあった。議員の息女であれば都市じゅうの耳目を集めるには十分だ。イチカの渋面も意に介さず、エイトは机上で指を組み合わせる。
「そういうことですから、これからよろしくお願いしますね」
「お断りよ」
 考えるより先に口が動く。わざとらしく目を丸くしたエイトに、ささやかな苛立ちがわいた。
「驚くようなことじゃないでしょう、こんなこと馬鹿らしいって思わない? 理解できないなら近付かなければいいんだわ。……私たちがすべきなのは歩み寄りなんかじゃない、関係を一切断って、決して触れ合わないようにすることよ」
 人は積木ではないのだ。ぴたりと嵌って落ち着くような二者が、この世に存在するはずもない。その上いくつもの軋轢を抱えた市民の集まりを、たったひとつの結婚で解決してしまおうなどと、夢物語もいいところだった。
 イチカの指先は急激に冷えを訴える。乾かし切れていないままの髪の水分が、熱を伴って空気に融けるのを感じていた。
「あなただって嫌なはずよ。そうでしょう、下層市民はREBを嫌った人たちだもの。REBに縋らないと生きていけない私が相手だなんて、皮肉にもほどがあるわ」
 言い放つあいだ、イチカはエイトから視線を外していた。塊のようなつばを飲み下したところで、ようやく口をつぐむ。
 嘆息が耳に届いた。イチカはそこで初めてエイトをふり返る。
 猫のように細められた目に、どきりとした。
「REBを嫌っているのはあなたの方でしょう、イチカ」
 一字一句を確かめるように、エイトは低い声で問う。
「いいや、あなただけじゃない。断言しましょうか。人はまだ、REBなんて技術を受け入れきれていないんだ――REBの存在は、人間と機械の境目を曖昧にしてしまうから。心を置き去りにしたのがかつての上層市民で、引きずったのがかつての下層市民だった。……もちろん、居場所が必ずしも、そこに住む人を規定するわけではないけれど」
 イチカのようにね、と継いで、エイトはまばたきを挟む。
「私は、そんなこと……」
「嘘をつくのは苦手でしょう。目が泳いだ」
 黒い瞳に見透かされそうだった。イチカは二の句が継げないままで、せめてもの矜持でエイトを睨みつける。それを敵意と受け取ってか、エイトは爪を研ぐようにして浅く息を吸った。
 そちらがその気なら、と。
 わずかな沈黙に秘めた声が、聞こえた。
「ねえ、イチカ。――あなたがあなたであるなんて、いったい誰が証明してくれるっていうんです?」
「……なにが、言いたいの」
「わかりませんか。あなたがいちばん恐れていることなのに」
 嘲笑うように首を傾け、エイトは言葉を紡ぐ。
「あなたが八神一花であることを、REBの体は決して証明してくれない。お決まりのアップデートの前、そもそもその体を手に入れる前、あなたは本当にイチカであったと言い切れますか」
 拳を机に叩きつけた。ボトルの中の水面が揺らぎ、机上に置き去りの花瓶が震える。鼓膜をつんざくような反響が消え失せても、イチカは震える手のひらをただ握りしめていることしかできなかった。
「言いすぎましたね。すみませんでした」
 そう言って迷いなく下げられる、エイトの頭が憎くて仕方がなかった。イチカはやり場のない怒りを舌の半ばに滞らせる。
「でも、これだけは覚えておいてください。俺はこの婚約を、対等な条件のもとで受けたつもりでいます。あなたと俺と、産まれた場所が違っただけで上下はない。……その顔じゃ、納得してもらえてはいないようだけど」
 そうですね、と、駄々をこねる子供を見たかのように呟いて、エイトはうなずく。
「イチカ、勝負をしましょう。俺はこれから、結婚までの時間を使って、あなたを口説き落とします。イチカが俺のことしか考えられなくなるぐらいに、夢中にさせてみせる」
 おもむろに腰を浮かせた青年を、見上げていることしかできなかった。椅子の足が地を擦って、きい、と掠れた音を立てる。
「だからちゃんと俺の目を見て、俺の言葉を聞いてください。そうして紛れもない、あなたの心で判断して。自分の胸にだけは嘘をつかないで。――イチカ」
 絶句したイチカの頬を、エイトの指の節がするりと撫ぜる。
 捕えた、とばかりにほほ笑んで、言った。
「俺はあなたのことが好きですよ」
「……っ!」
 エイトの手を打ち払う。乾いた音を耳に聞きながら、イチカは一歩を退いた。椅子が倒れ、大げさに転がっていく。
(こいつ……この、男!)
 REBの体にこびりついた、人の本能が騒ぎ立てる――この男のことだけは、信じてはならないと。かっと頭に熱が上り、積もり積もった怒りをはらんで弾けた。
「ふざけないでちょうだい、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるわ! さっきの今で、誰があなたなんかを信よ、う」
 こめかみにつきりと鋭い痛みが走る。立ちくらみ、急の大声、いくつもの理由を勘案したものの、イチカの頭はうまく回らない。確とした答えが導き出せないまま、平衡感覚は急速に失われる。
「信用、したり、なんか……」
「イチカ!?」
 舌が回らなかった。さっと血の気が引いて、イチカは床に崩れ落ちる。駆け寄ったエイトを拒む力も、もう残ってはいなかった。