格子状に編まれた鉄線を、走り寄った勢いで乗り越える。人工石材の真白い地面を踏みつけた後に三歩をよろめいた。なんとかその場に留まって、イチカは安堵の息をついた。
 REBの体に救命目的以外の特性を付与することは、よほどの事情がない限り禁じられている。並はずれた身体能力や記憶力、計算能力が形にされるようなことがあれば、個人資産による能力の格差が生まれてしまうためだ。REBをあくまでも身体補助の道具と見なすのが現代の思想だった。
 しかし本来病弱であるイチカにしてみれば、健康に手足が動くことそのものが、なにより大きな恩恵だ。乱れた呼吸を整えて、白石に埋め尽くされた街外れを歩く。
(ここまで逃げれば、もう追ってこないはず……)
 うっそうと生い茂るビルの森を離れれば、のっぺりとした橋が並ぶ開発区域が、視界いっぱいに飛び込んでくる。建造物ひとつない土地にはもちろん人の気配も見当たらなかった。
 開発区域とは名ばかりの、投げ出されたままの土地。校舎裏を抜けた先にはそんな世界が広がっている。イチカが足を進ませるのは、手すりのない橋が縦横無尽に渡されているだけの無味乾燥な区画だった。
 ――アクエス。
 蜘蛛の巣のように張り巡らされた橋が、海をまばらに透かす都市。
 しかし一歩街並みを抜けだせば、手つかずの地帯が残っているのも事実だった。イチカは橋を飛び移りながら、海の上を乗り越えていく。
(遠回りをして帰りましょう。時間はかかるけど、あいつと一緒に帰るよりは万倍もましだわ)
 ようやく端末を立ち上げて、現在地点を確認する。イチカが足を止めたのは、それから十数分ほど歩き続けたあとだった。
 眼下の海にはさざ波が立っている。人工の水たまりであるアクアを揺らめかせるものは、風の存在をおいて他にはなかった。傾き始めた太陽を映してたゆたっていた白波の狭間に、ふいに大きな影が落ちる。
 イチカは顔をあげて、ああと納得の声を漏らした。
 都市の中心にそびえたつ、巨大な建造物――上層議会議事堂。青い天を切り裂くその建物を、人々は“大樹”と呼んでいた。仰いでも果てが見えないほどの塔を睨みつけ、イチカは大きく息をつく。
 父親は今日も、大樹の中であくせく働いているのだろう。子供を叱ったことさえない彼が、ニュースの中でだけその熱弁をふるっているのを、イチカは幼いころから何度となく耳にしてきたのだった。
「次に帰ってくるのは七日後かしら。それとも今回の寄り道を抜きにして、前回の出勤から数えるのが正解?」
 問いかけたところで、大樹は答えを返さない。イチカは眉を上下させた。
「どちらにせよ、今日は帰ってこないわね。馬鹿らしい」
 仕事に忙殺される父親とは、顔を合わせても月に数度だ。長女の婚約の話さえメール一通で済ませてしまうような父親なのだから、たとえ結婚の日が近づいたところで、心遣いを見せることすらしないのだろう。
 非干渉の父親と、それを諦めきった娘。
 婚約者の青年が身一つでイチカに会いにくるような状況は、だから生まれるのだ。
(駄目だわ、苛々してきた)
 それもこれも無意味に歩かされているのが原因だろう。足は悲鳴を上げていて、一歩を行くたび軋むように痛むありさまだった。
(すぐに帰って、お風呂に浸かって、勉強して。今日は早めに寝ましょう)
 電話越しとはいえども、エイトとの顔合わせはすでに済ませている。父の言いつけはこなしたのだから、もう彼に付き合う必要はないはずだ。イチカは自分に言い聞かせて、くるりと身を翻した。
 しかし疲労の溜まったふくらはぎは、少女の体一つも支えきることができなかった。なだらかな傾斜を描く道の上、ふらりと揺らいでイチカの身を傾かせる。
(……あ)
 しまった、と思ったときには、足はもう地面を離れていた。
 慌てて伸ばした手のやり場が見つからない。手すりのない橋の上を渡っていたのはイチカ自身だ。重力に従う体は、緩慢に落下する。鞄を残し、地面のない空間へ――海の上へと。
 どぼんと滑稽な音がした。驚きに息を吐き出してしまってから、イチカはすぐに後悔することになった。どんなに手足をばたつかせても体は沈んでゆく。
(助、け――)
 悲鳴は上がらない。上げようとも思わなかった。
 水中から声が漏れたところで、耳にする者がいないことを、イチカ自身がよく知っている。父は大樹の幹の中で働いており、兄も当分家には帰らない。イチカを追いかけてきた青年もまた、今しがた首尾よく撒いてきたところなのだから。
 水をかこうとした腕も、すぐに放り出してしまう。呼気をあぶくに変えるばかりのイチカに、声が聞こえたのはそのときだった。

 ――そらをちょうだい、イチカ。

 聞いた声だ、と気付く。
 ずっと幼かったころ、同じように海に落ちたことがあった。ものごころもついていない折のことで、誰に助けられたのかも定かではないけれど。
 ぼんやりとうつろうイチカの視界には、白んだ光を放つ太陽が、水面と共に揺れていた。そらを、と歌う誰かの声に晒されながら、イチカはかわいそうにと胸に呟く。溺れた自分にも見出せる空さえ、手にできないままの誰かがいるのだとしたら、それはどんなに孤独なことだろう。
 最後のひと息を吐き出して、イチカはゆるやかに目蓋を下ろす。眠りにつくようにして体の力を捨て去った。
 暗闇を受け入れる直前、誰かの腕にかき込まれたのが、夢であったのか――海に溶けだした意識では、見きわめることさえ叶わなかった。



 排水。呼吸の確保。REBの体は生命維持に必要なだけの動作を、持ち主の意思を問わずに実行する機能を備える。
 糸くずのようだった意識を呼び起こしたとき、イチカは自分の体が地面に横たえられているのに気が付いた。REBによって正常に機能する心臓、危なげなく行われる呼吸を確かめて、静かに目蓋を持ち上げる。途端、朱金に染まり始めた陽光が、イチカの黒い瞳を焼いた。眩みかけた視界を取り戻すため、短い間隔のまばたきを繰り返す。
(私、どうして……)
 思考は続かなかった。
 次第に確かになっていく視界に、一柱の影が落ちる。それが青年の顔であると気付いたとき、イチカに残された反抗は、指先を跳ね上げることだけだった。
「――っ!?」
 唇が重なった。半開きだったイチカの口に、強く吐息が吹き込まれる。口内に生暖かい空気を感じ取った瞬間、イチカは弾かれたように体を起こした。エイトを力任せに突き飛ばし、自分は尻もちを突いたまま、がむしゃらに距離をとる。彼を指差した手は小刻みに震えていた。
「な、なん、なな、な、なにっ」
 わななくイチカをよそに、エイトはほうと息をつく。こわばっていた彼の顔が、ほころぶように笑みを浮かべた。
「よかった、気がついた」
「あなっ、あなた、いま何を……!」
「人工呼吸をと思って。ひどく水を飲んだみたいですし、息もしていなかったので」
 ひっ、とイチカの喉が音を立てる。口は開閉するばかりで、しばらく言葉を吐き出すことさえ叶わなかった。はっとして大きく首を振り、エイトを力の限りに睨みつける。
「い、いらないわよそんなもの! 私にはREBがあるんだから」
 エイトが眉の端を下げる。困ったように笑って首をかしげた。
「すみません。REB周りの事情については、あまり詳しくなくて」
「そ……れ、だから、下層市民は嫌いだっていうのよ!」
 言い放った瞬間後悔に襲われた。エイトが前髪から水のしずくを滴らせ、諦めたように笑ったからだ。
 彼の頬を伝った水滴には、太陽が淡い金色を溶け込ませる。ぴんと立っていたはずのシャツの襟もネクタイも、すっかり濡れて皺を作ってしまっていた。
(助けられたの……?)
 イチカはそれ以上なにを言うこともできなかった。撤回も、謝罪も、追い打ちも選べないままで、唇を結んで黙りこむ。
 一度、二度、浅い呼吸を行ってから、エイトは大儀そうに立ち上がった。
「帰りましょう、イチカ」
「……嫌よ」
「もう日が暮れます。いつまでもここにいるわけにはいかないでしょう」
「家には誰もいないもの。いつ帰ったって同じだわ」
 顔を背けて、ひとつ嘘をつく。
 イチカの帰宅と外出は、携帯端末のチップと自宅の門のセンサーによって正確に記録されていた。夜遅くまでセンサーに反応がなければ、間をおかずに父親の端末へと連絡が発される仕組みになっている。
(でも、だからって、父さんが探しに来てくれるわけじゃない)
 センサーの存在も、父親との確執も、エイトが理解しているはずはない。万が一にも悟っていたところで、イチカにそれを気にかけるつもりもなかった。
 エイトのまばたきに、水滴が弾ける。彼のてのひらは、無音のままでイチカのそれをすくい取った。灯をともしたかのような熱が、冷え切ったイチカの手に伝わる。
「だったらせめて、今日だけでもいい。一緒に帰りましょう。俺におかえりを言わせてください」
 ね、と。囁きかける声に、イチカの腰がふわりと浮かんだ。
 戸惑うイチカの手を、エイトはついと引いていく。藍色に染まりゆく空にはアクエスの街灯が光を放っていた。沈黙を縫うように、エイトが口を開く。
「日が沈んでしまえば、ここも下層に似ていますね」
「……下層」
 口の中でこぼした声が、エイトに届いたとも知れなかった。彼は薄闇に落ちた空を仰ぎ見る。
「こちらほど明るくはないけど、青い光に包まれた場所です。俺はそこで生まれました。あなたと同じアクエスの、海を隔てた向こう側」
 あるものを、ただあるように語る声だった。イチカが返事に戸惑っているうちに、エイトの足は歩みを止める。イチカにとっては見慣れた家の門が、主の帰りを待ちわびていた。
 門に取りつけられた端末を操作し、ロックを解除する。ほどなく開かれた玄関へと足を踏み入れたとき、エイトの手はイチカを解き放った。思わず振り返ったイチカの視界に映ったのは、姿勢を正したエイトの姿。
「おかえりなさい、イチカ」
 屈託もなくそう告げて、青年は笑ってみせた。