「じゃあ、今日がアップデートの日だったんだ」
粉砂糖をふりかけた菓子パンにかぶりつき、もぐもぐと咀嚼して数秒。ミサキはぺろりと唇を舐めあげた。彼女が肘をつく机には、先ほどから砂糖が絶え間なく降り注いでいる。本来の机の持ち主であるユリが、それを払いのけて渋い顔をした。
「ミサキ、汚い」
「いいじゃないのよう。ごはん食いっぱぐれちゃったんだから」
「授業中にお弁当を一個片付けておいて言う台詞じゃないでしょ」
「だってパンは別腹ですもの。菓子パンはスイーツ、もっと別腹。ね、ね、それでイチカ、今回はどこが変わったのさ」
額縁を模して長方形を象った両指に、ミサキはイチカをはめ込んだ。片目を閉じた姿はさながらカメラマンだ。腕を曲げ伸ばしして、神妙な表情でうなずいてみせる。
「ふむふむ、胸は相変わらず? 髪切った?」
「切ったりしないわよ、伸びるのがずっと遅いんだもの。胸についてはノーコメント」
「えーっ! やめてよイチカ、イチカにまで巨乳になられたら、あたしたちはどこへ行けばいいんだよー!」
「あなたはどこに行こうとしてるの、ミサキ」
ユリがこつりとミサキを叩く。頭をさすりながら、ミサキはふたたび菓子パンにかみついた。
「まあでも、また半日ぐらいかかったんでしょう。お疲れさまだね」
「どうもありがとう。そう思うなら椅子を返してもらえるとありがたいんだけど?」
「あたしだって部活で疲れてるんですよ」
言い、はばかるようすもなく唇をとがらせる。ミサキは食事に精を出しながら、イチカの椅子を占領し、背後のユリの机に肘をついているのだった。弾きだされたイチカはあからさまにため息をつく。
ミサキはパンの最後の一口を飲みこんで、そういえばさ、と指先を舐める。イチカを仰いでまばたきをした。
「放課後に残ってるのって珍しいね。イチカ、門限厳しいんじゃなかったっけ」
イチカは唇を歪ませる。いつかは触れられるだろうと思っていた部分だ。渋々うなずいた。
「そうだけど。今日はちょっと帰りたくなくて」
「……REBの調子がよくないとか?」
慎重に言葉を選んだユリに、イチカはそうじゃないのと首を振る。いくらか迷ってから、誤魔化すように苦笑する。
「お客さんが家に来るのよ。私は会ったことがないんだけど、できれば会いたくないのね。でも一対一で顔を合わせなきゃいけないから」
「会ったことがないのに、会いたくない……?」
「ものすっごい不細工とか!」
ユリイカ! とばかりにぴんと指先を跳ね上げて、ミサキが声をあげる。教室の視線が三人に寄せられたので、イチカは彼女の頭を弾いた。
「違います。むしろ顔は……たぶん、いいほう。たぶんね」
「美男子に尻ごみしてるの? イチカならむしろ張り合いそうなものだけどな。ちゃんと美人だよ、元気出して」
「そうじゃないって言っているでしょう。いい加減顔から離れてちょうだい、いつもいつもそればっかり」
「嫌だよう、イケメンの話ができない世界なんて退屈だよう」
じたばたと机を叩き、ミサキは即座に自分の携帯端末をかつぎ出した。普段通りに秘蔵の画像フォルダを開いては、モデルの青年たちを指差し始める。
イチカは肩をすくめるものの、結局彼女の側に身を寄せる。自身の境遇を切々と訴える気はないのだった。
(学校に持ち込む話じゃないわ。そもそも私自身が納得していないもの。父さんと話をして、どうにか断ってもらわないと)
そのために、今日のところは上辺だけの対応に留めて、“彼”には早急にお帰りいただかなければならない。イチカは心に決めて、端末を握る手に力を込めた。朝に衝撃を受けて以来、結局父親のメールを読み返すことはできていないままだった。
それとなくミサキの端末を覗き、きらびやかな若者たちを眺める。流行の服装で固めた彼らの笑みもどこまで本物やら、と、イチカには思えてならなかった。望んだ者に天使のような顔さえもたらすのが、アクエスの先端技術だ。
「タイキでしょう、アキラでしょう……あ、ほら、この子この子」
ミサキはウィンドウを弾く指先を止めて、ひとりの青年の写真を拡大する。
小奇麗な顔だ、とイチカは感覚的に思った。整形に金をつぎ込む都市の男性たちならば、大抵が精悍であるか、もしくは作り物めいた顔面を求めるものだ。しかし彼はそのどちらにも当てはまらない。恐らくは生来の顔なのだろうと推測する。
ミサキが画像を指で叩くと、端末には瞬時にモデルの経歴が浮かび上がった。
「下層の出身なんだって。びっくり」
「下層の……」
イチカはくり返して口ごもった。ミサキが示した通り、出身地の欄には聞いたこともない地区の名が綴られている。固い声で問いかけた。
「下層の人たちって、上層に出てこられるの」
「出てこられるんでしょう? だから上層で騒ぎが起こるんだし」
こともなげに言って、ミサキはデータを拭い去る。しかし一度出身を知ってしまえば、イチカには先のような瞳で彼を見ることができなかった。
下層市民。彼らはアクエスの海の底、重力の反転した都市下層部に住んでいる人々だ。
上層市民と下層市民を分かつ線引きはひとつ。REBが生み出されたその日、技術に賛同し受け入れた者たちの子孫であるか、反対し遠ざけた者たちの子孫であるかということだけだ。
とはいえ根強く染みついた思想は、どんなに世代を重ねたところで消えないままに残存している。上層に生まれた人間が下層へ赴くことも、その逆も、都市議会によって厳しく取り締まられているのはそうした理由からだった。
「分かり合えないなら、触れ合わなければいいのに」
呟いて、イチカはそっと顔を上げる。ミサキとユリはぽかんと口を開けてイチカを見つめていた。
漂った沈黙に、失言を悟る。
「……なんて、本で見ただけよ、気にしないで。それよりふたりとも――」
イチカの携帯端末が震えたのはそのときだった。
鞄の暗闇で点滅するライトを一瞥し、友人たちに目配せをする。それぞれがうなずくのを確認してから、イチカは端末を取り上げた。
表示された番号に憶えはない。探るように通話を選択し、端末を耳に押し当てる。
「はい」
『初めまして、お電話失礼します。こちら、八神一花さん、の電話番号で間違いはありませんか』
「私がイチカですけど」
声色は穏やかだが、男のものであることに違いはない。わずかに身を固くしたイチカに対し、電話の主はほっとした様子を見せた。
『よかった。お勉強お疲れさまです、イチカ。お父さんから俺の話は?』
「……お父さん? 待ってください、あなた一体」
『おかしいな。名前も電話番号も、すでに伝えてあると聞いたけど。光峯瑛斗の名前にも心当たりはありませんか』
「み――っ!?」
引きつった声を上げたイチカに、ミサキとユリがまばたきをする。イチカは思わず彼女たちに背を向けた。ああ、と安堵するような声が届いて、青年が小さく笑ったことに気付く。
『名前は憶えてもらえていたみたいですね。初めまして、イチカ。エイトといいます。時間も時間ですし、そろそろ授業も終わったころですか』
「な、なんで私の番号を……っていうか名前! 勝手に呼び捨てにしないでちょうだい!」
『番号はイチカのお父さんから伺いました。メールでもよかったけど、まずは直接話がしたくて。呼び捨ては嫌ですか? 親密な感じがして、俺は好きだけどな』
臆面もなくそう言われる。イチカは目まいを感じて首を振った。呑まれたら負けだ、とこぶしを握りしめ、自分を奮い立たせる。
「そういう話じゃないわ。……そもそも私が家に戻らないからって、電話なんかかけてこないで。それとも人待ちもできないの? 早く家に帰って来いって?」
険をこめると、エイトは微かに間を置いた。しかし一拍後には、何事もなかったかのように通話を続ける。
『イチカに会いたかったので。そうですね、その通りです。でも早く帰れというわけじゃなくて』
ううん、と考え込むようなうなりが、イチカの鼓膜を震わせる。イチカが眉をひそめたのも数瞬、エイトはことさらに声を和らげて言った。
『窓を開けてみてもらえますか』
「窓? どうして」
『いいから』
促されるままに、イチカは窓際に歩み寄る。そうして大きく窓を開け放った。ふわりと風が吹き込んで、薄手のカーテンを躍らせる。
視界が晴れたとき、そこに映ったのは帰路につく生徒たちのうしろ姿だった。部活動に精を出す青年たちが駆け抜け、少女たちはスカートをなびかせながら噂話に花を咲かせる。彼女らの行く先を視線で辿って、イチカは言葉を失った。
校門の脇に、仕立てのいいスーツを着こなした青年が立っている。
「わーお、美青年」
横から覗きこんだミサキが、彼を目に留めてはにかんだ。ユリは首をかしげる。
「あの人、こっちを見てる。手を振っているみたいだけど……イチカ?」
呼びかけられるのと、イチカがしゃがみこむのとが同時だった。ひらひらと無神経な笑顔で手を振った青年の姿が、イチカのまぶたの裏に焼き付けられる。
「なんで学校まで来てるのよ!」
『迎えに来ました。どうせなら一緒に帰ろうと思って』
「いらないわ、頼んでない!」
押し殺した声で叫ぶが早いか、イチカは鞄を肩にかける。窓際の少女たちに向かい、ごめんなさい、と心で一声謝って、廊下へと飛び出した。
早足で校舎を抜けるものの、向かう先は正門ではない。ぐるりと踵を返した先には、開かれたままの武骨な鉄扉と、後者の背面に伸びる裏道がある。イチカはその通路を勢いよく走り抜けた。普段は使われない道だが、正門をくぐってエイトと鉢合わせをするなどもってのほかだった。
『イチカ? 端末の所在地が学校を出たみたいですが』
「あなた、そんなことまで……っ」
『どこに向かわれるおつもりで?』
「関係ないでしょう、今すぐ帰ってちょうだい!」
一喝して通話を切る。端末の電源を根幹から切り、鞄の中に放りこんだ。エイトに居場所が追跡されるのは、イチカの携帯端末が絶えず位置情報を吐き出しているためだ。
(冗談じゃないわ)
学校の友人にまで、婚約者などという存在を知られたくはなかった。それをかの青年は土足で踏みにじろうとしているのだ。
イチカは泣き出したい思いで地面を蹴りつける。交錯するように走っていった運動部員の青年たちが、疾走する少女を面白がるようにふり返っていった。
恨みがましく彼らをねめつけて、イチカは思う。もしも婚約の相手が、彼らの中のひとりであったなら、と。ならばイチカも、必死になって逃走を選ぶような真似をせずとも済んだのだ。
(よりにもよって、あいつは)
思い出す。へらりと笑ったエイトの顔は、人目を引くほどに端正だった。事実、面食いのミサキが歓声をあげていたありさまだ。それがREBの賜物でないことを、イチカは嫌というほどに理解している。
なぜなら彼は下層市民だ。
REBを嫌って上層から離れていった、後進市民のひとりなのだから。