REBのアップデートの完了を告げる、人を食ったようなクラシックの音色が、イチカは心の底から嫌いだった。
それを耳にすることになるのは一年に一度。人工人体――通称REB、すなわち再生者の肉体を、年周期の更新日に伴って新しいものへと入れ替えた直後だ。母の病弱さを受け継いで産まれたイチカが、十七になるまで心臓を動かしていられたのも、毎年同じ一曲を聴き続けるだけの根気があったからに他ならない。
とはいえ、『朝』、とは。
開いたままの目がゆるやかに像を結んでいくあいだ、イチカはひとときも額のしわを緩めなかった。
よりにもよって、朝。REBの換装時に訪れる一時的な五感の消失を、専任の技術者が眠りと称していることの表れだ。古い体から新しい体に自分の意識、つまりは頭部に保存されていた情報の塊が移し替えられる最中、イチカが眠りについたことなど一度としてなかったというのに。
技師たちは国定の免許のもと、初めてREBの体を移し替える施術を許される。彼らがみなREBの体を持つわけではない。むしろREB手術に未だ高額な費用が求められる現代、REB人口は都市人口の一割を下回っていた。
イチカの施術を担当した技師もまた、生身の体を持っている。技術を疑うつもりはないが、それでも不満は消えないのだった。
「医者の不養生……ううん、これは違うわね」
神経接続の確認。そう意味づけたひとりごとに、イチカは自ら首を振る。
こころなしか上の空だった。まるで夢を見たあとのように、頭に霧がかかっている。
(夢だなんて、皮肉)
唇を結ぶ。これでは技師に「おはよう」を言われても仕方がないというものだ。
イチカはぐりぐりと手足の動作を確認してから、ようやく上半身を起き上がらせる。沈んでいたベッドが元の平坦さを取り戻すのを、なにもせずにじっと見つめていた。
呆けるだけの時間が過ぎてしばらく、そっと金属製の床に足を下ろす。外気に晒されたままの人工皮膚は、暖房床の温もりを認識して感覚へと変換、脳の代わりに取りつけられた頭部の計算機に伝達していく。
REBのつくりは人体と同じだ。それが人工であることさえ除いたならば。
ベッドのほかには一切の家具を排除した部屋で、イチカはぽつりと佇んでいた。立方体の一室は、壁や天井、床を問わず、白の一色に埋め尽くされている。それは施術服に身を包んだイチカも同じことだった。
「おはよう、イチカ。調子はどうかな」
自動扉が開き、技師のひとりが顔を出した。嫌みのない笑みを浮かべた男に、おはようございます、とイチカは惰性で返す。彼は短くうなずいた。
「どこか具合の悪いところは?」
「特には。すこし、頭がぼんやりするぐらいで」
「REBに異常はなかったけどな。検査をやり直すかい」
「いいえ。いつものことですし、すぐに慣れるでしょうから」
REBのアップデート後に些細な異変が現れるのも、そう珍しいことではない。そもそも周囲の人間の成長速度に合わせてREBの換装を行っている以上、多少の違和感は我慢するべきなのだ。
数年もすれば成長期が終わる。アップデートの周期も遠くなるはずだ。自分に言い聞かせ、イチカは数度まばたきをする。幾分か明瞭になった視界に、技師の顔を映し直した。
「父は?」
「さっきまではここに。きみの施術が終わり次第出て行かれたよ」
「そうですか」
落胆はない。けれどもわずかに間を置いて、次の問いかけを舌に乗せる。
「あの、いまは何時ですか。学校には……」
「間に合うだろうね。まだ午前の七時を回ったところだ」
始業が八時半。イチカの通う高等学校まで、周回バスを使えば三十分とかからない。準備に時間をかけても間に合うだろうと見積もって、イチカはほっと息をついた。
「それじゃあ着替えます。荷物をお願いしても?」
「かしこまりました、イチカ嬢。しばらくここでお待ちあれ」
芝居じみた一礼が不愉快だった。やめてくださいと手をひらつかせ、イチカは技師の男を追い払う。ほどなく運ばれてきた着替えと通学鞄を受け取り、携帯端末で時間を確認してから、施術着の結び目に手をかけた。
布をはらりと足元に落とせば、少女の肢体が姿を見せる。なだらかな曲線を描く腰、丸みを帯びた肩、膨らみかけの乳房まで、忠実に十七歳の女性の体を模したものだ。最新の技術によって作り出された理想的な娘の体が、端末の暗い画面に反射していた。
下着を身につけ、薄手のタイツに足を通す。こころなしかやわらかくなった太ももに触れて、イチカは眉をひそめた。
「体重も増えたのかしら。本当にマメよね」
人体の無駄までを余すことなく再現するのがREB技術だ。無論脂肪も例外ではない。後日身体データを送ってもらおうと決めて、イチカは身支度を整える。
モスグリーンのプリーツスカート、しみひとつないブラウスに、目にも鮮やかな紅のネクタイ。指定のカーディガンに腕を通して、巻き込まれた毛先を払い出す。肩先に揺れた黒髪に乱れがないことを確認してから、ベッドに投げていた端末を取り上げた。
「メール……」
携帯端末がライトを点滅させていたことには気付いていた。学校からの連絡、友人からの挨拶を流し見て、最新の一通を開く。すぐに飛び込んだ父の名に目をしばたかせた。
文章の羅列に集中すべく、イチカはベッドに腰かける。事務的な挨拶の先には一枚の画像データが貼りつけてあった。証明写真じみた角度で映っているのは、目鼻立ちの整った青年の顔だ。
(誰かしら)
見憶えはない。父を通じて会ったことがあっただろうか、と数秒頭を巡らせるも、無駄と悟って諦める。人の顔を覚えるぐらいなら、数式をいくつか頭に入れた方がよほど効率的なのだった。
続く文面に目を通して、しばらく。画面を繰る指がぴたりと止まる。
「待って」
思わず呟いた。数文をくり返し追いかけても、内容はうまく頭に入らない。心臓をあぶられるような焦燥に追い立てられながら、イチカは端末を睨みつける。
(冗談だわ、嘘でしょう)
引きつった笑みを浮かべ、倍の速度でメールの先を読み終える。しかしどの一文を取っても、父親の文面を撤回する内容にはつながらなかった。結局先の画面に辿りついて、ゆるゆると首を振る。
――イチカ。お前の婚約相手に、彼を。
――ついては今日中に家に来るよう言い渡してある。面会の時間を取るように。
「“私は外出しているが、当人同士で確認しなさい”――って、」
イチカの呼吸が、そこに至って完全に止まる。
「婚約? ……結婚? 聞いてないわよ、そんなの!」
叩きつけるように叫ぶ。気絶できるものならば、すぐにでもしてしまいぐらいだった。
どっと脈打つ胸に手を寄せて、イチカは何度も首を振る。そろりと映しだした画像ファイルの中で、件の青年は穏やかにほほ笑んでいた。
初耳、どころの話ではない。自分の異性交遊までもが取りきめられる定めにあったということさえ、イチカは今日の今日まで、一度として聞かされていなかったのだ。
婚約――ずしりとのしかかった一語の重みに、乾いた笑い声が漏れる。
(ありえないわ、こんなの)
百歩譲って話を受け止めるとしても、メール一通で知らされるような内容ではないはずだ。仕事に出ていった父が、書き置き代わりに残したメールなどでは。
髪を掻きむしりたい衝動に駆られながら、気力を振り絞って端末の情報を閉じる。ふたたび光を反射させるようになった画面には、歪んだイチカの顔が映り込んでいた。不細工、と呟いて、ついと目を背ける。
「……光峯、瑛斗」
初めて聞く名前、初めて見る顔に、間もなく引き合わされるというのだ。それも婚約を取りつけた父親が席を外した、がらんどうの一室で。
(だめ。吐きそう)
これ以上考えるのは精神に毒だ。端末を鞄に放り込むと、イチカはベッドから腰を浮かせた。
学校の授業は、机に取りつけられた学習用の端末をもとに行われる。教科書やノート、文房具といった前世紀的な遺物は、そうした端末の普及に従い、瞬く間に都市から消えていった。おかげで軽くなったものはといえば、学生の鞄と家庭の財布だ。とはいえ財布については、そもそも情報での売買取引が一般化された数百年前、かさばるコインや紙幣の類を残さず一掃していたのであるが。
そういうわけでイチカの鞄に入っているのは、IDカードを兼ねた学生証、化粧道具と携帯端末。それからカードの数枚詰まった財布ぐらいのものだった。軽い荷物のおかげで女子高生の足が細くなった、とは、まことしやかに語り伝えられる都市伝説だ。
「ああ、イチカ。いってらっしゃい」
「いってきます。今回もありがとうございました」
廊下でコーヒーをすすっていた先の技師に、礼儀程度に頭を下げる。掃除ロボットが音もなく通り過ぎていくのを見送って、イチカは反対の方向へと足を遊ばせた。
物ごころがついてからは自ら換装施術へ向かうようになったのだから、入り組んだ廊下の作りもよく心得ていた。迷わず玄関へ向かい、特殊硝子の自動扉をくぐる。
さあ、と風が吹き込む。
まぶしいほどに、目を焼いた光景は、青。
都市を照らす太陽は、直下に広がる“海”に反射され拡散していた。水面には白亜の島がいくつも浮かび、それらを無数の橋が網のように繋いでいる。その合間から巨大な水たまりが覗く景色こそ、水上都市アクエスの景観だ。
空を覆った摩天楼の合間を通り抜け、道路を駆け足で渡り終える。最寄りのバス停には色とりどりの学生服がちらついていた。通学時間に重なる時刻、彼ら彼女らは端末に目を躍らせている。ちょうど辿りついたバスの中に押し込まれながら、イチカは辛うじて椅子のひとつに腰を下ろした。
環状に巡らされた路線を通り、都営のバスは絶えず街中を周遊する。磨かれた窓には間もなく校舎の一角が映り込んだ。誰かが押した降車スイッチが、あての外れた音を響かせる。
――中央高等学校前、中央高等学校前、停車します。
間延びしたアナウンスに続き、車内が慣性にぐらついた。吐き出される人波に混じってバスを降りれば、イチカの視界にはモスグリーンの制服が流れ込む。
人ごみに乱れた髪を梳き、ブラウスのふくらみを整えて、生体認証を兼ねた校門を通り抜ける。ふと立ち止まって顔を上げれば、イチカの教室にあたる窓からは少女が手を振っていた。