Chapter1 つくられびとの睦言
海に空が映るなら、彼女はなにも溺れた子供を相手に、歌うような真似をしなくともよかったのだ。
光を透かしては七色を揺らし、あぶくはイチカの視界を奪う。励ますように踊りこそすれ、どの一粒を取っても彼女の傍にはとどまらない。みな嘲笑うように細い髪束を弄んでは、遠く彼方へと浮かんでいった。
イチカが水音を水音と判断できたのは初めも初め、水面を体が叩いたそのときまでだった。あとは脳を侵食するような静寂に襲われて、いくらもがいても体は沈む。悲鳴は喉奥に凍りついたまま、行くべき場所を失っていた。
――わたしにそらを。
空気を吐き、水を飲む。ひときわ大きなあぶくが口を飛び出したとき、漫然と死を覚悟した。どんなに腕を振り回したところで、縋れる手すりのひとつもない。息の止め方も知らない彼女に、水をかく術が見つかるはずもなかった。
――そらをちょうだい。わたしにそらを。
聞いたのは、だから、夢なのだろうと思った。
あるいはただの幻だ。声も上げられなかったイチカの代わりに、頭をかすめた誰かの悲鳴。電子情報をいくつも溶かしこんだアクエスの海だから、鼓膜を模したイチカの受信機が、勝手にノイズを捉えてしまっただけだ、と。
けれども。
――イチカ。
呼びかけられたとき、イチカは閉じかけていたまぶたをいっぱいに見開いた。
そうして声の主を探す――上下さえも曖昧になった水底で、果てない暗闇に包まれながら。澄みわたる呼び声、あるいはひとひらの歌声は、絶えずイチカの名を呼んでくり返す。
そらを、わたしにそらを、そらをちょうだい、と。
(ばかに、しないで)
助けてほしいのはこちらのほうだ。今にもかき消されそうな意識のさなかで、イチカは懸命に身をよじる。声も出せない自分のほうが、悠長に歌う彼女よりよほど、苦しい思いをしているというのに。
(……わかってる)
知っていた。誰も助けに来てはくれない。
父親がいつものように家を出たのが三日前。ふたたび帰ってくるとすれば四日後だ。そのときをのんべんだらりと待とうものなら、茫漠な海の中、イチカは同程度に膨大な情報と共に、永い眠りにつくことになるだろう。
あるいは、とイチカは考える。もがくことさえ諦めてしまったならば、すぐにでも彼と顔を合わせられるかもしれない。在りし日の情報の塊を閉じ込めた、棺という名のフォルダの中から、初めて父親に無垢な笑顔を向けることができるのだろう、と。そこまでを頭に思い浮かべたところで、イチカの唇は歪んだ笑みの形を取った。
(かえってくるわけないじゃない)
父は帰らない。娘が息を引き取ったとしても。
反復する歌声の中で、イチカの呼吸はふいに楽になる。代わりに世界は、すう、とぼやけて眩んでいった。
(ごめんね)
イチカは最後に囁いた。
――あなたを起こしてあげられるのは、きっと私なんかじゃない。