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 抵抗する力を意にも介さず、男はソニアを軽々と引きずっていった。母の仮屋を離れ、クェリアの裏通りをひたすらに進んでいることだけはソニアにも理解できたが、自分のいる場所の把握は追いついていなかった。人通りのない見知らぬ風景に取り囲まれ、恐怖ばかりが存在感を増していく。
 辿りつく先は明らかだった。奴隷として売り飛ばすなら、気を失わせておいた方が遥かに楽だ。それを選ばないのには、それだけの理由があるのだ。
 口を塞いでいた手が離れた、と思った瞬間に突き飛ばされた。体を支えきれずに転がった先は石畳の上だ。意識を飛ばされそうな衝撃の後に、息がかかるほどに近寄った男の顔を見る。
「はあん、なるほど。あの女のガキだな。よく似ているもんだ。黒い目、黒い髪、そのくせまだ男を知らねえんだもんな」
「……放、して。人を呼ぶわよ」
「やってみな、届きやしねえよ。クェリアって町は便利でな、中心はごたごたとうるせえくせに、少し離れればこれだけ人通りがなくなる。ここでいくら大声を出そうが、町の奴らの騒ぎ声がみんなかき消しちまうってわけだ」
 男はそう言って、歪んだ笑みをを頬に浮かべる。
 地に触れた体に振動を感じて、ソニアは彼の背後に目を走らせた。どこから嗅ぎつけたのか、それともこの男が呼び寄せたのか、片手では数えきれないほどの男たちが集まってきていた。
 その光景には憶えがあった。ソニアがまだ母のもとにいたころだ。物乞いをして慰み程度に手にした銅貨を、降り注ぐ暴力に奪われた時のこと。相手が子供や女であろうとも彼らは徒党を組んで襲いかかる。子供には暴力をもって、そして、女には。
「修道女ってのは確かだな。綺麗な服着てやがる。それにこの銀細工……はっ、あの女も馬鹿だな! これひとつに銅貨二十枚じゃ割に合わねえだろうがよ!」
 哄笑と共に、銀の薔薇が首から抜き取られた。男は瞳の奥の欲望を隠そうともせず、ソニアの頬を厚い手で撫ぜる。
「それで、アーシャってのはなんだ。てめえが人妻だってのは本当か? どうせマーシアの作り話だろうが、それなりの値が付く娘なら売り飛ばすのも悪かねえ」
「気高い方よ。あなたなんかより、ずっと」
「……あなた、なんか、だあ?」
 頬を張られた。遅れてやってきた痛みに涙が滲む。
「てめえが言える立場かよ。身売りの子は身売りでしかねえんだ。俺はマーシアに金を払って、奴は俺から金を受け取った。わかるか? てめえは母親に売られたんだよ!」
 男の手が修道衣の内側に潜り込んだ。わき腹をさすられ、身の毛がよだつような不快感が襲いくる。覗きこむような幾つもの視線はソニアの恐怖を駆り立てた。
「……っ、触らないで!」
「誰が聞くかよ」
 身動きが取れなかった。頑丈な筋肉を備えた重石のような体が、ソニアの自由を奪う。
(嫌、だ、こんなの)
 荒れた指先が胸へと伸びる。そこを他人に触れさせたことはなかった。当然だ、母の言うとおりソニアは身を売ったことなどない。困窮した生活を送りながら、その一線だけは踏み越えていなかったのだから。
 踏みにじられる。固い石畳、冷たい風が、ソニアに感じたこともない海の水底を思わせた。二度と浮かぶことができないほどの深い海の底へ沈んでいく。背の高い建物に冬空は切り取られていた。目を開いているというのに太陽が見えない。
 光が、遠ざかる。
(いっ……やだ、嫌だ嫌だ嫌だ……!)
「ラクス! ラクス、いやっ、助けて! ラクス――!!」
 声のあらん限りに叫ぶ。すぐに頬を殴られた。気が飛びそうなほどの痛みを噛み殺して、ふたたび、呼ぶ。呼び続ける。
 男たちがどよめいた。抑えつけられた少女がすっかり竦んでいると思い込んでいたのだろう、互いに視線を交わし合う。届きはしないと嘲笑っていた男も焦ったようにソニアを殴る。鳴りやまない呼び声を力ずくでも止めようとしたが、それがかなわないと知ってかソニアは口に布切れを噛まされた。ついに彼の名前はただの叫声に変わり、掠れた声は彼女の喉を突いた。
 咳き込んでもなお、叫ぶ。その名前が意味を為さずとも。
「ちっ、誰にも聞こえねえって言ってんだろうが! いい加減にしねえと……」
 声が途切れ、ひときわ濃い影がソニアの視界を覆う。しかしその闇に恐れを感じることはなかった。男の姿の向こうに、刃の色を宿した銀糸を目にしたためだ。
 そして何よりも、彼の声が響く。
「ソニアに――触れるな!」
 胸の内側から熱を放った安堵感に、体じゅうの力が抜けていく。彼はあんなふうに叫ぶのだ、と、頭の片隅で思った。
 目の前が明るくなる。剣の柄で殴打された男が横へと転がったのだ。冬空の太陽が、温度を伴わないはずの透き通った光が、暗がりに慣れたソニアの目を焦がした。かれは燦然と白く輝いて、彼女を水底から引き上げる。
 口から布が引き抜かれた。手探りでソニアを抱き起こしたラクスは、咳き込んだ彼女の背に無言で手を回す。その手は存在と温もりを確かめるように上下し、少しだけ力を込めてソニアを引き寄せた。
「全員動くな!」
 凛とその場に叫んだのはエリーゼだ。髪と同じ色の剣を握った彼女は、ソニアらを囲んでいた男たちをぐるりと流し見る。まばらに逃げようとした彼らの足が、彼女の気迫に動きを止めた。
「揃えて領主につき渡す! 動けばその頭、二度と貴様らの首の上には乗らないと思え!」
 アーシャラフトの国内で女を買ったという事実は厳罰に値する。どちらへ転んでも助けはない状況に耐えかねて、怯えた声を上げながら背を向けて駆けだした男がいた。しかし彼も、通りの突きあたりで待ち伏せたレオンハルトによって一撃のもとに昏倒させられる。
「なん、だよ、てめえらは……!」
 ソニアを買った男が、家の壁に背を預けて立ち上がる。「そいつはただの修道女だろうが、ただの身売りの娘だろうが!?」
 エリーゼはちらとラクスに目をやり、アーシャ、と呼びかけた。
「斬りますか」
「いや、裏に誰かがいるかもしれない。吐けるだけ吐かせて、処罰はそれからだ」
「御意。……ということだ、あなたを雇った人物を教えて頂きましょうか」
「こっちの質問に、」
「質問?」エリーゼがくいと首を傾げる。両の目は冷ややかに男に固定されて動かなかった。「人の道を捨て、その恥すら忘れ去った下賤な輩の問いに、何故私たちが答えねばならないのです? ……答えなさい、あなたを雇ったのは誰です」
「……エリーゼ」
 ソニアが彼女の名を呼んだ。不思議そうにふり返った彼女に、小さく首を振ってみせる。ラクスの肩を押し、よろよろと立ちあがって言った。
「わたしを売ったのは、わたしの母です。名前はマーシア、……言われたとおり、身売りを稼業にしています」
 呆然とするエリーゼとラクスに笑いかけようとして、失敗した。
 ソニアを捨てる前の彼女は、娘に体を売ることを強要したりはしなかった。自らがそうして稼いだ日銭でか細い生活を送り、ソニアには家の仕事と物乞いだけを言いつけていたのだ。しかし再会した母は、ためらいもなく娘を売り払った。
 彼女を変えてしまったのは、ひとりで暮らした日々ではない。光に包まれた娘の姿だ。
 しばらく無言が支配したその場で、男はじりじりと後ずさり、手に銀薔薇の首飾りを掲げた。はっとしたソニアの表情を目にして優位を確信したのか、にやついた笑みを取り戻す。
「どうやら大事なものらしいな? 俺の身を保証してくれる程度には価値があるんだろう」
 鎖をぐるりと指で回し、手のひらに握りしめる。卑劣な、とエリーゼが低い声で呟いた。男は二度、三度とうなずいて、一歩ずつ後ろへ退いていく。狭い通りの奥にはさらに幾つもの分岐路が続いており、それらはクェリアから出る道へも繋がっている。男はそのことをよく知っているのだろう。
「動くな、動くなよ。これに傷をつけて欲しくなけりゃ、な」
 そのまま距離を離していく。しかし男は、数歩のところで立ちどまった。怪訝そうにソニアらの背を見つめる。彼の口もとが引き結ばれた。
 背後から、靴音。沈黙を保った彼らのあいだに、その足音はやけに高く響いていく。
「いいのよあんなの。どうせもう、後継ぎなんていないんだから。……もう、一度捨てられたものなんだから」
 肩をすくめて、彼女は笑う。さっぱりとした表情で、困惑する男を見据える。
 正確には、その男の背後を。
「……やりなさい、アルバ!」
 男が驚愕をあらわにふり返る。彼に無音で歩み寄っていた青年が、己の剣を振りかぶった。