霞散りて、春

 跡継ぎのいなくなった屋敷は、ほんの少しだけ、寂しくなった。
 やがて来る滅びを待つばかりの家。仕えるべき主をふたり、共に失ったそこに留まった者は少ない。残されたのは自らの行く先を儚んだ侍従長と数人の使用人、そして両手の指ほどの数の庭師のうち、頑強な老人がただひとり。
 若者はこぞって屋敷を出ていったが、彼らの背を見送った者に混じり、桐はぽつりと佇んでいた。
「いいんだな」
「はい」
 遠ざかる影を目に焼き付けて、彼らが抱えていたのは墓参りの後のような寂しさだ。
「俺は、ここでしか生きられない。でもそれは、俺にとっての喜びなんです」
 空はからりと晴れていた。見つめれば魂を抜かれそうなほど、透けるように遠い。誰も責めず、誰も包まず、穏やかに見守るばかりの春の色――雲も霞も妨げぬその青を、初めて見たような気がしていた。
 李の香りは屋敷を満たし、去りゆく春の名残を惜しむ。やがては香りも消えゆくのだろう。
 狭い世界に生まれ落ちたあの方も、花開くべき場所を見つけた。そこは風の行く先、時を止めていたこの屋敷からは遠く離れた場所だった。その時が動き出した今、咲き誇っていた花が散るのと同じように、この場所は崩れていくのだ。逃れることが道理なら、残ることもまた道理だった。
「だから――朽ちることを、恐れなければ。ここは、どこよりも優しい場所だと思います」
 しかし、そこにはもう自分の付き従うべき娘はいない。
 そのことが、彼の胸にぽっかりと穴を開けたような空虚さを残していた。



 季節は移ろう。
 一月の後、長い遠出から帰ってきた屋敷の主は、最後に見たときより少しばかり痩せた。梅の紋を背負っていた当時の威厳は失わぬまでも、自らを閉ざす氷のような壁は春の日差しに溶かされていた。くたびれた顔立ちと細められた眼差しとを目にした時になって初めて、ああこの方も老いるのだと感じていた自分に、桐は密かに驚いていた。
 豪奢な器、端麗な獣、贅の限りを尽くして集め回った逸品は、減っていくことはあれど増えることは無くなった。徐々に数百枚の紙幣と取り換えられていったのち、その財も、どこかの飢えた子供たちに与えられたという。十と数人を数えるばかりの家人にはあまりにも広すぎる屋敷は端から取り壊され、余剰な蔵も書院もやがて平地に変わっていった。
『あの屋敷の御主人は変わった』
 菅流の民はそう噂した。変わり果てたと蔑む者もいた。その声を耳にするたびに、桐は心中で違うと呟いた。――あの方は、変わられたのではない。もとのあの方に戻られたのだ。
 一年、また一年。物語の頁をめくるように年月は過ぎゆく。その手を一時止めさせたのは、三年後の春の日のことだった。
 買い出しを言いつかっていた桐は、ひと山ほどもある荷物の入った紙袋を抱えて菅流の町を歩いていた。中身は目の前を覆う顔負わないかという量の食材だ。ぐらりと両手の中で揺れるそれを注視するのに精一杯で、とても周囲に気を回す余裕などなかった。
「――桐か?」
 ゆえに呼び声に身を固くしたのは、驚きで反応が遅れたためだった。
 緩慢な動作でふり返ると、声の主はいつかと変わらぬ能天気そうな表情でこちらを見た。頭一つは上にある顔を見つめて桐は凍りつく。二対の金の瞳が人懐っこそうに細められた。
「ああ、やはり桐か。背が伸びたな。呼び止めようか迷ったぞ」
「……おまえ、何故」
 平原の先、虎風山の山裾に住まう天虎という名の民がいる。町に入ることすら倦厭される華の外の者だ。
 その一員であるはずの青年ラウが、あろうことか菅流の道の中央で自分に親しげに声をかけている。顔にこそ出さないものの、桐は立ちくらみを起こしそうな心地を味わっていた。まさか、と周囲を見回すが、他に目につく相手はいない。
「お嬢様はどうした。ひとりで来たのか。まさか何か悪いことでも、……いや」
 それはない、と首を振る。仕返しなどということを考える男でないことは痛いほどに分かっていた。沈黙を間として、絞り出すように尋ねる。
「どうして、ここにいる?」
 ようやく求める問いを得たとばかりに、ラウは満足そうにうなずいた。
「初孫を見せに、な」
 たっぷり十数秒は固まった。
 それから弾かれたように再び雑踏に目を走らせて、桐は何度も彼女のいないことを確かめる。ぐいと詰め寄ると、ラウが眉を跳ねあげた。
「おま、え……かっ、からかうつもりか!?」
「誰がからかうものか。顔が見たいなら今すぐにでも屋敷に戻ればいい。彩香と子供はそこにいる」
 とうとう絶句する。腕の中の荷物を怨んだのはこれが初めてだった。拳を振り上げることのできない悔しさに身を震わせ、歯を食いしばる。もし両腕が自由であったなら、彼の頭の後ろに揺れる長い三つ編みを引きちぎっていたところだ。
 ラウはしばらく面白がるように桐を見下ろしていたが、その背の方向を見ておおと声を上げる。つられてふり向いた先に、一陣の風が吹き抜けていった。
 両腕に小さな命を抱えた女性が、一人。桐を認めて立ち止まる。
「……桐?」
 瞳に顔を映すまでもない。つき従い続けた相手をそれと見極めるなら、その声だけで十分だ。自分がほんの子供になったような錯覚を覚えて、桐はしばらく、呆然と彼女を見つめていた。彼女――彩香もまた、町中でかつての従者を目にするとは思わなかったのだろう。目を大きく見開いて立ちつくしていた。しかしその顔面には、次第に喜色が露わにされていく。
「桐、あなた桐ね? 驚いたわ、少し背が伸びた? ずっと大人になったんじゃないかしら」
「俺……いや、私は、そんなに小さかったでしょうか」
 立て続けに身長のことを言われてはかなわない。回らない自分の口を恥じながら言及すると、そうじゃないのよと彩香は笑う。
 たおやかに、華やかに、笑う人だ。纏う衣服が鮮やかな民族服に変わり、傷一つなかった指先が家仕事に荒れてなお、花のような笑顔だけは三年前と同じだった。そのことに寂しさと安心とをひとときに覚えた桐は、ゆるゆると彼女の顔から視線を下におろしていく。そこには何ひとつの不安も知らない赤子が、厚みのある布に覆われていた。
 ぱちり、と目が合う。小さなまなこは異人の存在を食い入るように見つめて、それから母親の胸へと逃げ込むように顔を逸らした。
「メイファというの」
 しげしげと眺めていた桐に、彩香は赤子を揺らしながら告げた。
「お嬢様、ですか」
「ええ。……ふふ、なんだか新鮮ね。あなたの口から、私のことじゃない『お嬢様』を聞くなんて」
 発した言葉に他意はなかった。桐は気恥ずかしくなって視線を逸らすが、すぐにはっとする。
「旦那さまには、もう?」
「お会いしたわ。喜んでくださった。この子を抱いてくださったのよ。……とても、うれしかった」
 抱く手に力がこもったのだろう、彩香の腕の中でメイファが嫌がるように体をうごめかせる。慌てて彼女に謝った彩香が、そうだわ、と桐を仰ぎ見た。しかし期待に輝いていたその目は、桐の腕を埋める荷物を見るや残念そうに眇められる。
 彼女の意図は察せられたが、食物の入った紙袋を直に地面に下ろすわけにもいかない。謝罪の言葉を口にしようとしたところで、腕の重みがひょいと取り上げられた。
「主従揃って甘えるのが下手だな、うん?」
「な、おまえ……!」
「それじゃあメイファ、お兄ちゃんに抱っこしてもらいましょうね」
 文句をつける間もなく、触れれば折れそうな赤ん坊が胸元に押し付けられる。
 怯えたのは桐のほうだった。見よう見まねで尻と首の後ろに手を回したが、子供が少しでも身動きをしようものなら地面に取り落としそうなものだ。やっとのことで据わりのいい場所を見つけて一息つくと、幼いメイファはぱちぱちと瞬きをしながら桐の顔を見上げていた。
 小さすぎる肢体と高すぎる体温は、武の者の庇護欲をも掻きたてる。同じようにして初孫を抱いた主人がどんな顔をしたのか――彩香と行き違いになった今となっては、それを確かめることが叶わないのを残念に思った。
 不安げな桐の表情を映しこむ、無垢な瞳はつるりと黒い。それでも彼女は、天虎として産まれてきたのだろう。
「――不安でした」
 ぽつりと呟いたのは、胸の奥底が揺らされたからだ。
「お嬢様は、華でしか生きられないと思っていました。俺は屋敷で生きるお嬢様しか知らなかったから、壁の外に出れば、あなたはなにも残さずに消えてしまうのではないか、と。恐れていたんです。ここには……屋敷には、もう、なにも残っていないから」
 滑稽な怯えでも、彩香の存在へと想いを傾けるたびに抱いた影だった。
 虚ろになった古城。かつての城主。共に朽ちゆこうとするあの場所が、せめてもの慰みにと迎えようとしているのは、見苦しくない最期だけなのだろうと考えた。それを理解し受け入れてなお、あるべき者を失ったかのような寂しさばかりが胸を満たしていた。
 すべて杞憂だったのだ、と思う。
 何も残されぬはずが無い。止まっていた時を動かしたのも、自らの花を咲かせたのも彼女なのだから。生み落とされた新たな芽を、彼の主たる吾妻知治が愛したならば、それは娘の残したものとして十二分。
 虚ろさを解き放つ。――拘り続けていたのは、自分だ。
「……おめでとうございます、彩香様。俺は」
 息を切れば、赤子の手が目元に触れる。小さな手が魔法をかけたかのように、自らの中で結ばれた頑ななものがほどけてゆくのを感じていた。
「俺は、あなたの従者でいられて、幸せでした」
 桐の名は、霞の散った秋の日に与えられたものだった。桐、霧、呼ばれるたびにちらついていた、喪われた人の影は、もうどこにもない。
 霧を晴らすように、風は吹く。
 思えばあの屋敷は菅流のどこよりも空に近い場所であるはずだった。行き交う風に身を任せることができなかったのは、胸の奥に空いた穴を透かされるのを恐れていたからだ。ひとたび穏やかな春風に髪を揺らせば、その暖かさに心底驚くことになる。
 閃いたつむじ風は菅流の町並みを駆け抜け、弾みもないままに舞いあがり、やがては朝妻の屋敷を撫でてゆく。いずれは遠く、平原の果てまでも渡ってゆくのだろう。

 庭園に根付いた李の花弁がひとひら、遥かな空へと吹きあげられたことを、まだ、誰も知らない。