彩香が巫女の家にたどり着く頃には、その前には人だかりができていた。何があったのか、ばば様は無事なのかと問う人々の前で扉の前に立ちはだかっているのは一人の女性。それが先ほど姿を消したばかりのユフェンだと気付くのにさほど時間は要さなかった。
「お静かに!」
 凛とした彼女の声が響き、里の者たちの動揺を静めていく。うごめいていた人の群れはしんと静まり返り、ユフェンの言葉に耳を澄ました。
「長でない者が家に入ること、決してなりません。巫女様は……巫女様は此度、山へ帰られます」
 誰かが息を飲み、誰かが嘆息した。その中心でユフェンの前に立つ青年こそ彩香が追ってきた相手だ。彼は時を止めたかのように微動だにしない。そうしながら、まるで静まり返った家の中を透かし見ているようでもあった。
 痛いほどの沈黙が流れる。しばらくしてユフェンの背後の扉を開いたのはイェンロンだった。彼女と二言、三言の会話を交わし、ユフェンが家に駆けこんでいくのを見送って、代わりに扉の前に立つ。
「……巫女が継がれる」
 低い声で言って、彼はラウに目を合わせる。そこに痛々しいものを見たのか、顔をしかめて天虎たちを見回した。
「ユフェンが戻り次第、ばば様を山にお送りする。ここにいない者を呼んでくれ」
 正気を取り戻した者たちをきっかけに、少しずつ人の山が崩れていく。錯綜する人々の中を逆方向へ走ったのはラウだ。彩香が彼に目をやったときには、その姿は家々を抜けて遠くへと消えていくところだった。
 再び、今度は先ほどよりも多くの天虎が集まったところで、薄く唇を噛んだユフェンが家から現れる。彼女は後ろ手に戸を引いて深く呼吸をした。固唾をのむ者たちの前に背筋を伸ばし、紅を塗った唇を開く。
「たった今、このユフェンが巫女の座を受け継ぎました。これより先代の魂を山へとお送りします。送り火を焚き、鈴を奏でる用意を。全て整い次第、送り唄を届けます」
 粛々と始められるのは、葬儀の準備なのだろう。
 涙を流せども動きを止めることはなく、薪と鈴とを運ぶ人々が何度も交錯する。やがて弾ける音を立てて火が焚かれ、悲哀を慰めるような鈴の音が村に満ちるようになる。彩香がその中心で様子を見ていたユフェンに近づくと、彼女はわずかに目を瞠った。
「お婆ちゃん、は」
 目蓋を下ろし、ユフェンが首を振った。それから視線を遠くへやる。ラウの消えた方角だ。彼女は手元に握りこんでいた鈴を彩香に手渡して、その指を上から両手で包みこむ。ふたりの手のひらの中でその鈴がくぐもった音を立てた。
「あれの元へ届けて下さいませんか。おそらく山にいるでしょう。ふもとには木が立っていますから、そこからなら姿が見えるかと思います。……どうか」
 機を、与えられたのだ。小さな鈴を大事に握って彩香はうなずく。
 里を離れると、ユフェンが言った通り、葉を落とした木が一本だけ立っていた。息を落ち着かせようとその幹に手をつく。山を見上げれば、小高くなった山峰の上には短い髪を風に揺らした青年の後ろ姿が見えた。
 細い山道を、風にさらわれないように気を払いながら進む。岩が積み重なっただけの手がかりは触れれば転がり落ちそうなほどに不安定だ。高い段差を乗り越えると一陣の風が彩香の髪をさらっていった。ふと障害が消えて、眼下に景色が広がる。
 空、平原、森、そして天虎の里。もうもうと立ちのぼる煙の香りがそこにも届いていた。しゃらん、しゃらん、と涼やかな鈴の音が重なり合い、泣き声のように空へと舞い上がる。景色が、匂いが、音が下界に通ずる山の上から、ラウは里を見下ろしていた。
 彩香の足音に首だけでふり返るも、彼はふたたび顔を戻す。気持ち程度に広くなった足場で彼の後ろに立ち、彩香はその左手を取って鈴を手渡した。
「ユフェンから、あなたに」
 黒の紐でくくられた、金色の鈴だ。彼は手を掲げ、しばらく紐から吊り下げたそれを見つめていたが、風に奏でられる涼やかな音を聞いてもう一度手の中に戻した。諦めのような気配が漂って、彼が微かに笑ったのだと知る。
「いくら経っても敵わないな」
「葬儀には、行かないの?」
「……そう、だな」
 流れる煙が、山裾を靄のように覆っていく。死者の魂はその煙に乗って山へと帰るのだ。うつろう煙に顔を向けるラウの表情は見えなかった。
「俺は虎風山に捨てられた子供だったんだ。捨てたのが誰なのかも、どうして捨てられたのかも分からない。この目が魔の者のように見えたのかもしれないが、今となっては確かめようもないな。それから俺は、どうやら山の獣に育てられていたらしい」
「獣に」
「ああ。だが物心ついたときには、彼らも周りにはいなかった。代わりに迎えに来たのがばば様でな。俺の目を見て言ったんだ、お前が天虎か、と。……とは言っても、その頃の俺は言葉が理解できなかったから、これもばば様からあとで聞いた話だが」
 金の両目を持った虎。同じ色を宿したがために忌まれた人の子が虎風山に捨てられたなどと、天虎の巫女たる老婆にはたいそう皮肉に感じられたことだろう。
「余所者は忌避される。天虎でもそれは同じだ。特に俺は言葉も人らしい振る舞いも知らなかったからな。行き場をなくしては、いつもばば様のところに逃げ込んでいた」
「……お婆ちゃんは、それで?」
 問う彩香に、一笑が返る。
「恥じるなと言った。お前は天虎、ばばの子だ、恥じることなどないと。なおも恐れるなら、それはお前が弱いからだとな」
 いたわるがゆえに突き放すのだ。老婆が眉を寄せながら笑う様子が目に浮かぶようだった。
 長になったのは、認められるためだと彼は言った。ならば彼が力を求めたのは、育て親となった老婆の言葉のためだ。突きつめた強さは彼を長とし、疑う余地のない実力を知らしめた。天虎として、長として、身に付けたのは無論、力だけではなかっただろう。
 親だったのだ、と思う。ラウにとって、そして他の天虎たちにとっても、あの豪胆な老婆は敬い、集うべき母親であり、祖母であった。薪や鈴を運ぶ手に涙をこぼしながら歩いていた彼らは、家族の死を迎えたも同然だったのだ。
「まだ憶えている。少し前に会ったときも、度を超えているほど元気だっただろう。だから信じられないんだ。あの扉を開ければ、まだぴんぴんしているんじゃないかと思っていた。玄関の奥に、あの口やかましいばば様が歩いているんじゃないかとな。……だが俺は、もう長ではない。確かめられなかった。それがどうにも、口惜しくてな」
 村から流れる鈴の音に、朗々とした唄声が重なっていく。体を離れた魂のための送り唄だ。帰りゆく者のために、霊山を守ることを、その役目を受け継ぐことを誓う唄。
 天虎は山に生まれ、山を守り、そして山へと帰る者たちだ。山の精霊は祖霊でもある。彩香にそれを教えた老婆は、ゆえに山を母と呼んだ。
 唄声に顔を上げたラウは峰を見つめていた。死出の煙は空に届かず消えていく。老婆の魂もまた、空には昇らない。山に留まり、精霊となって天虎の子らを見守り続けるのだろう。
「ばば様は山に帰るだけだ。だからその時が来ても悲しむことはない。……そう、思っていたんだ」
 小さな背中が、重なって、揺れた。それは親を亡くした少年の姿をしていた。
 彼の懐に手を入れる。戸惑って腕を上げたのを許しと取って、腕を回した。額を添えたその背中は変わらず大きかったけれど、ぎこちなく彩香の腕に触れる手の力は弱々しかった。
「私の老師せんせいが仰ったの」
 ――散らぬ華はございません。
 年老いた師の言葉が、蘇る。
「生の連鎖は、死の連鎖。だから私たちは受け継いでいく。……その死を悲しむのは、それなら、当然のことだって私は思う」
 諦めは希望。そして慈愛。守り育ててゆくための、受け継ぎ咲かせてゆくための、決意。
 老婆が愛した種は芽吹いた。枝を伸ばし、花を咲かせた。彼女が山へ帰るとも、天虎は続く。命を紡ぎ、継いでいく。朽ちた花が実を落とし、再び種となるように。
「彩香」
 鈴の音が鳴った。ラウが指先から下げた紐の先が揺れ、送り唄に音色を重ねる。沈みゆく太陽を迎え、山際の青は燃えるような朱金にけぶっていた。
「……ここにいて欲しい」
 いつまでとも添えられない問いに、答える代わりに頬を寄せた。
 天虎の唄声が山へと響く。山裾に日が沈むまで、その唄が途切れることはなかった。