遅かったのだ。彩香は悔い、人知れず唇を噛んだ。
「ラン、村の男の人たちにこのことを伝えてちょうだい。……今日の勉強はお休みにします! みんなお家へ帰ること。くれぐれも森には近づかないで、いいわね」
 不安そうに顔を見合わせる彼らに、「お返事!」と声をかけると、まばらながらも了承が返る。それで十分だ。来たときと同じように教室を飛び出していったランの背を無言で見送って、彩香もまた走り出した。
 山と里との間に広がる森には、よほどのことが無い限り誰も近づかない。山が精霊の加護に守られた場所であるのに対し、森には人を守る力が存在しないと考えられているからだ。天虎は山と共に生きる者たちであり、森は彼らの生とは別所にあるものとされる。ゆえに、子供が伝言を残さないまま迷い込みでもすれば、捜索の手はまずここには回されない。
 森に入ってすぐ、木の根元に座り込む影があった。彩香に気が付くと表情を曇らせる。ためらいなく彼に近づくと、それが最後の反抗であるとも言うように顔を背けられた。
「あなたがエン? それとも」
「ユン。あいつだったら奥に行ったよ」
 俺は止めたのに。馬鹿なエン。ぼそぼそと続ける言葉に拗ねが混じっていた。
 ここで片割れと言い争いでもしたのか、もうひとりの姿は近くに見えない。ランの口から出た名前がエンのものだけであったことを彩香は思い出した。彼を追うことができず、しかし森まで付き合ってしまった手前助けを呼ぶこともできないで、ユンはひとりで膝を抱えていたのだ。
 最後の最後で理性を選んだ子供。友人をひとりにした後悔を抱えながら、残った意地がそれを認めなかったのだろう。少年の前に屈んで目線を合わせると、彩香は声を低くした。
「ユン、もう少しここで待っていられる? すぐに男の人が来るわ。あなたはちゃんと事情を説明して、エンのことを伝えてちょうだい」
「……まさか、ひとりで奥へ行くつもり」
「ねえユン」
 両肩に手を置くと、ユンは怯えるように体を震わせた。
「あなたも、エンも、あとでちゃんと叱られなくちゃいけないことをしているわ。それは忘れちゃいけないし、反省しなくてはいけない。でも今だけはあなたを褒めます。……止めようとしてくれて、ここに残ってくれて、ありがとう」
 ユンが瞠目する。彼を残し、彩香は森へと分け入った。
 まだ冬を越えたばかりだというのに、太い木の根や枝葉に絡みつく蔦が、足の踏み場もないほどにうっそうと生い茂っている。獣道を進むうちに、肘から先が剥き出しになった腕には瞬く間に引っかき傷が作られた。
 大声でエンの名を呼んでも返事はない。ふり向くと森の入口は遠くなっている。森にそれほど深さはなく、頭上の木の葉の隙間からは山を目にすることができるため、迷う心配だけはないのが救いだった。
 息を整えるために一度足を止めたところで、茂みの中に影を見た。
 虎かと身構えたが、それにしては小さい。恐る恐る近づくと靴を脱いだ足が地に伸ばされていた。くるぶしのあたりに血が流れているのを見て取って、彩香は息を飲む。
 途端、風を切る音と共に、視界が鈍色に染まった。
 短槍の穂先だと気付いたときには、それも力なく下ろされる。草陰から呆然とした顔が彩香を見ていた。
「人、か。なんだよ、虎じゃ、ないのか」
 落胆と安堵が同時に声色に表れた。確認するために名を呼ぶとうなずかれる。
「立てる?」
「疲れただけだよ、放っといて」
 それが真実か強がりかの判断が付かない。彼の傍らに膝をついて、彩香はその足に触れた。拒否するように顔をしかめられたが、足は動かされない。よくよく見れば切り傷は目立って深いものではなく、骨折や脱臼をしている様子もなかった。
 捻ったか、もしくはくじいたか。それでも軽いものだろう。彩香はほっと息をつく。
「帰って冷やしましょう、捻挫でも放っておいたら悪くなるから」
「嫌だ。俺は虎を退治しに来たんだ」
「……あのね、エン」
「なにもしないで帰れるもんか」自分に言い聞かせるように呟く。「長になるんだよ。俺が長になるんだ。イェンロンなんかに任せておけるかよ……!」
 悲鳴にも似た決意が、彩香の中に違和感を生む。その理由はすぐにはじき出された。――彼が目指すものは、自らが長になることにはないのだ。
 エンの行動には唐突が過ぎた。加え、イェンロンが彼を指して危機迫っていたと称したとおり、エンは怒りと焦りに押されて自らの引き際を見失っている。原因を他に求めるとすれば、天虎の長の交代、それ以外にない。
 だとすれば彼を動かすのはイェンロンへの怨嗟か。違うとするならその相手は。
「あなた、もしかして」
 彩香の声は続かなかった。獣の唸り声が二人の耳に届いたのだ。背の高い草の向こう側に金色の毛並みを認めて、意識しないまま息を詰める。
 本来人を喰らう獣ではないにせよ、森は彼らの棲む場所だ。そこに人影を見れば外敵と判断するには十二分。虎は半円を描くように彩香とエンの周りを歩み、やがて茂みから姿を現した。その体躯は狩りに慣れているらしい大人のもので、口元に覗いた牙の輝きが彩香の脳裏に血の色を塗りたくる。
「……エン。槍は捨てて。音を立てないように、急いで逃げるのよ」
 威勢を失った少年が呆けた顔で彩香を見上げる。
 膝を伸ばし、体を起き上がらせると、虎は威嚇の声を上げて彩香を見た。
 ――それでいい。
「行きなさい!」
 一喝し、彩香は走り出す。二人の間に顔を迷わせた虎に向かって握りこぶしほどの石を投げつけた。標的を定めた虎から逃れるべく、太い道を避けて木々の奥へと分け入っていく。
 走り慣れない足は追いつかれるより先に悲鳴を上げた。木の根に躓いて倒れこむ。潰れた草の匂いが鼻に潜りこみ、歯には土を噛んだ。その不快感を思考の端へ追いやり、立ちあがろうとしたところに獣の爪が振り下ろされる。すんでのところで体をひねるも、体勢を崩した彩香は横へと転がった。
「う……」
 すぐ傍の道は坂になっていた。地面に叩きつけられながら転げ落ちた彩香は痛みにうめく。
 ユフェンに借りた衣は破け、隠れていたはずの腕や足にも裂傷が走っている。子供の頃でさえ切り傷を作ったことのない彩香にとって、その感覚は初めて知るものであった。
 ゆるり、地に手をついて立ちあがる。虎の顔が手を伸ばせば届くほどの位置にあって、心臓を握りつぶされるかのような恐怖が湧いた。
 黒々とした瞳が、燃えるような眼差しで彩香を睨み据えている。
 ああ、――違う。彩香は震える手のひらを握った。
 琥珀の双対。月の黄金、安らかなその色。それは虎風山に住まう天虎のみに許された色だ。その瞳に見蕩れ、目を奪われた。風のように自由に、山のように穏やかに、彩香の閉ざされた世界を広げていった彼の、彼だけの瞳。

 ――だからこそ恋をしたのだ。
 花を咲かすなら、その瞳に映る花であれと。

 虎の顔が彩香の前でぶれる。それは鉄の矢じりに射られたためだった。
 闖入者につられ横を向いた虎の顔が、直後に人の姿をした一匹の獣に蹴りあげられる。彩香の耳を裂いた悲鳴は虎のものだ。頸を振って痛みを振り払い、虎はその腕に食らいつく。刹那、腕の中心を外した牙は、しかし肉を切り裂いて鮮血を飛び散らせた。
「……こ、の」
 噛みちぎられる寸前、ラウは片手の短槍を虎の頸に突きたてた。苦痛にゆるんだ虎の顎から右腕を抜き払い、その下から蹴り抜く。勢いの殺がれた一撃であったが、疲れ果てた虎の戦意を失わせるには十分だった。
「――退け!!」
 鼓膜を破らんばかりの怒声が浴びせかけられる。
 その意を解したか、矢と槍とに貫かれた虎は、一歩二歩と後ずさって森の中へと消えていった。彼を見送って、木陰から弓を携えたユンが姿を現す。帰ってこないと知ると深く息をついてラウに駆け寄った。
「あいつ、もう来ないみた……」
 言いかけた少年は息を飲んだ。
 震える拳を伝って、塊のような血の滴が地に落ちる。二本の太い牙が通り抜けた右腕からは、締まった筋肉と脂肪の残滓との間に、うっすらと血に濡れた腱と骨とが露わになっていた。
 彩香の歯が震え、音を立てる。言葉を失くしたままよろよろと歩み寄ると、歯を食いしばってうつむいていた青年が顔を上げた。
「お前は、……何をしているんだ!? 何故森へ入った! 行かねばならないと思ったか、それとも自分で十分だと思ったか――挙句子供と同じことをしているのにどうして気付かない!? 行き過ぎた責任感で道を誤るな、それを無謀というんだ!!」
「……ごめ、なさ、」
「謝るぐらいなら――!」
「ラウ、そのあたりにしておいてやれ」
 彼の肩に手を置いたのはイェンロンだ。その後ろには彼らの顔を交互に見つめるエンの姿がある。ぎらつく瞳を向けられてなお崩れない族長の表情に、ラウは徐々に怒りを鎮めていく。やがて小さく息をついた。
 少年たちの頭を両手でわしづかみにして、イェンロンは苦い顔でうなずく。
「まずは里に帰るとしよう。話はそれからだ」