序幕
 私から逃げ道を奪うものが、壁であった試しがなかった。
 いっそ、と思うことがなかったとは言えない。いっそ眼前にはだかり、紙縒こよりじみた志を折ろうとするような、断固とした否定の顕現こそが障害として在ったなら。だとしたら私の胸は、どんなにか楽になったことだろう。性質の悪い跳ねっ返りを発揮して、無理を強いてでも駆け抜けるだけの意地を見せることがかなったものを。けれども実際のところ、私から逃避の道を奪い去っていくのは、それをそれと見極めることさえかなわないような、それでいて壁などよりもことさら強固で厄介な、形を持たない制止の声にすぎないのだった。
 それは、時には怨嗟の体を為す。力の限りに振った腕を絡めとって、逃がしはしないと、あるいはどこへもいかないでと、囁きかけるおんなの懇願だ。
 あるいは隷従の体を。助けを求める声は発せられるまでもなく潰され、喉を締めた首輪の痕は、そこから留め金を取り払ったいまとなっても私の呼吸を奪い取っていく。
 そして諦念――これがもっとも性質が悪いものだった。研ぎ澄ました意志のなにもかも、突き立てる端から斃れてゆくとなれば、逃げ場を求めようなどと考える方が無駄なのだと、そう悟りきってしまった私のこころそのものだ。地にしがみつくこともやめた私、濁流じみた時勢の潮流に身を任せるだけのぼんくらがつくりあげられることとなった理由は、果たしてその諦念によるところが大きかったのだろう。
 諦め。
 そう、身に降りかかるみなを諦めてきたからこそ、私はこれまで生き延びてこられたのだった。注がれた暴力、侮蔑の眼差し、ひとつひとつに反感を抱こうものならとうに疲弊していたであろうなにもかもを相手に、無抵抗で流されることを選ぶことによって。小川に浮いた草船のように、生というせせらぎに身を任せて。
 これからも、そうしていくつもりでいたのだ。
 だというのに。どうして。





 ――おまえを愛する人間なんか、帝都のどこにもいやしない。

 彼女の心臓を狙い射ったやじりは、放たれる間際、私の喉をいたく傷つけていったらしい。
 荒い吐息、何度目かの咳。消えない粘つきが気にかかる。背中に追い撃ちの一太刀を浴びせられ、ほうぼうの体で“彼女”の前から逃げ出したのは半刻と前のことではない。しかし塞がらない傷を背に負った今となってなお、私の頭をいっとう悩ませているものは、喉のつかえごときの些末事なのであった。
 さやかな月影のもとを、走る、走る。煉瓦造りの邸を囲った庭の芝は、点々と並ぶ植木や電灯のもと、夜風を浴びては身を震わせている。宵の口ともなれば当然視界は悪い。一寸先に木の根が現れれば容易く転んでしまいそうなもので、私の足取りも自然慎重になる。しかし背に口汚い怒声を聞く現状、逃走の足を止めてしまうことだけは許されなかった。
 木陰を縫って闇の中へ。胸を叩く鼓動に耐え、声を殺して溜息をひとつ。白色に染まった空気は、橙の灯を受けてゆらめく。つきり、思い出したかのように痛んだ背へと手を這わせれば、ぬめった感触が指を濡らした。
「なんで、こんなこと……なんで、」
 詮無い嘆きだ。後悔が時を戻してくれるわけでもない。そもそも私の胸を絶えず苛んでいるものは、後悔や反省の類ですらないのだから。
 額づくべきであった彼女への叛逆を経、憲兵の刀に追われる身になって、――それでもまだ、高揚を覚えている。英雄にでもなったかのような有能感は胸を満たすだけに留まらず、私の口元に笑みを形作らせようとする。あんまりだった。諦めに殉ずることのできなかった自分を罵りながら、自分が未だ意志持つ“にんげん”であれたことに満足を覚えている、だなどと。
 毒づいて、身を翻す。まばらに響いていた足音が、ふたたび統制を取り戻している。私の姿を目に捉えたに違いなかった。
 私は拾い上げた石で手近な窓を割る。鬼が出るか蛇が出るか、迷いなく体をそこに捻じ込んだ。
 直後私を受け止めたものは、窓際に据え付けられていたらしい寝台だった。硝子の破片を払いのけながら頭上を仰げば、そこには蔓草模様の描かれた天井と、精緻な花紋様を刻んだ天蓋が待ち受けている。
 人の気配は無い。ぐるりと視線を巡らせたところで、檜仕立ての調度がうっすらと月明りに照らされているばかりだ。どうやら立ち並ぶ邸の一室のうち、何某かの寝所に潜り込んだらしい。憲兵の舌打ちが離れていくのを鼓膜に感じ取って、主の身分が並ならぬものであることを悟る。失礼のないようにと廊から回り込むことを選んだのだろう。
「逃げないと、」
 しかし寝台から足を下ろしたところで、くるぶしに鋭い痛みが走る。もんどりうって転がった。
 確認の目をやるまでもなく、足首から粘着質の液体が垂れてゆくのを感じ取る。強いて立ち上がろうとしたものの、膝が震えて一秒たりとも堪えていられなかった。せめてと朱染めの絨毯に手をつけば、腕の付け根に刺激を覚える。ず、とてのひらを滑らせた。
 動けない。
 一歩たりとも。
「……ああ」
 乾いた土に水がしみ込んでゆくかのように、理解する――潮時なのだ。
 引き結んでいた唇から、ゆるゆると力を抜いていく。前へ、と急き立てる体を休ませてやれば、尻はあっけなく地についた。諦めることに慣れきった体は、往生際の悪い意志などよりもよほど私に正直だった。
「どうして、……」
 そうしてまた、何度目かの自問を繰り返す。答えはすでに出ているのだ。どう転んでも諦念にたどり着くなら、初めから抵抗など選ばなければよかった。みな私の浅薄さが招いたことだ。おろかな彼女を“そういうもの”として受け止めることができなかった、おろかしいと糾弾せずにはいられなかった、私のほうがよほどおろかなのだ、と。
 近付く人の気配を、首を絞められるような気持ちで待つ。しかしその歩調の思いのほかにゆるやかなことに、私はいくばくかの疑念を覚えていた。わずかな気品さえも携えた歩み。憲兵の慌ただしい足取りとは一線を画している。それだけではなく、あまりにも――軽い。撫ぜるように床を踏む、靴音はまるで踊り子のものだ。
 扉が開かる。差し込んだ光の束に、私は思わず眉を寄せた。
 現れたのは女だった。それも帝都の女ではない。
 稲穂の色を写し取ったようなこがねの髪は、夜闇に慣れた目にはまぶしい。やわらかに弧を描くそれを奔放に背へ、肩へとまとわりつかせれば、年代ものであろう古びた朱塗りの衣さえ、真新しい輝きを放つようだった。
 透きとおる白皙の中心にはつんと尖った鼻が据わり、碧色をした瞳、うすく色づいた頬、紅を塗った唇が体よく並べられている。けれどもつり上がった眉が勝気な内面を示すのは変わりない。事実、彼女は呆ける私を一瞥するや否や、小さく鼻を鳴らしてみせたのだった。
「あら、あら……幸運な鼠だこと。まんまとここまで逃げおおせるだなんて」
 流暢な帝都のことばを放ち、前触れもなしに床を踏む。呼吸も許されない。直後、私の首にはほそい指先が添えられていた。
 一瞬の静寂。かり、と喉を掻いて、女は笑う。
「いいわね。あたくし、生き汚い女は好きよ」
「……なに」
「まだ這いずるつもりがあるなら、すこしだけ静かにしておいで。喧しい猫どもを追い払ってあげる」
 選択の余地は与えられない。女にとり、じぶんの声はみな等しく命令の意を持っているに違いなかった。私が是とも否とも答えないうちに、腹には無造作な足蹴が見舞われる。そのまま寝台の下へと追いやられた。
 文句を吐き出そうとする、その刹那で口を覆う。地に横たえたわが身に、ささやかな振動を受け取ったのだった。目前に垂れ下がった敷布の下から外を覗けば、戸口には憲兵らの足が見て取れた。
「妹姫様」
 応えるように、高く足音。耳環を鈴音のごとく鳴らし、女は憲兵をふり返る。
「騒々しいこと。ここがあたくしの寝所と知っての振舞いかしら」
「は……失礼をば。この部屋に無法者が逃げ込んだものゆえ」
「とうに逃げ出したあとでしょう、窓もこのありさまだわ。駆けつけるのが遅いのではなくて?」
「しかし」
「おまえたちの失態を、あたくしに押し付けるつもり」
 稲妻じみた叱責が決め手だった。憲兵はいっそ哀れなほどに怯えきって、彼女の前からすごすごと引き返す。部屋にはいまひとたびのしじまが戻ってきた。暫くの後、「出ておいで」との声に従いそろりと身を現した私の前に、女は表情ひとつも変えずに立っている。
 うつくしいひとだ。嫉妬もなくそう思う。
 うつくしい女を見るのはこれで二度目だ。けれどもかの娘とは――日差しのもとに華やぐ彼女とは、趣を異にするうつくしさだった。たとえるならば太陽を食らう向日葵、あるいは狂い咲いた宵闇の桜。向かう者の口を噤ませる、畏怖を香として纏った女。
「名前を仰い、赤毛の鼠」
 紅を塗った唇が問う。そこに蠱惑的な響きを伴って。
 ――ちはる、と答えた。夜風が攫った私の毛先は、うすら赤く光を透かしている。血の色とも、黄昏の色とも呼ばれた赤、すなわち私に諦念を押し付けた赤だった。それを愛おしむように梳いて、女は睫毛を下ろす。
 風が凪いだ。虫の音までもがかき消えれば、自然、私の意識は女に絡めとられる。
 そう、と息をつき、女は私の名前を舌に乗せた。千春。
「いまからおまえは、あたくしのものよ」
 女のてのひらが自分の頭を押さえつける。私は眉毛を伏せるだけで受け入れた。
 もはや、従属の立場を取ることに躊躇はない。他人に抗う気力はどこかに消え失せてしまっている。疲れきり、息をつくことのできる場所を求めていた私は、それを彼女という支配者のもとに求めたのだった。糸が切れたかのように崩れ落ちて、それからのことは憶えていない。

 十六夜月が煌々と照らす夜半のこと。叛逆の芽が鎮圧され、暴動を招いた赤毛の鼠がしかし密かに生き延びた――その騒動の傍らで、邸は同じ屋根の下に、ひとつの花を迎え入れようとしていた。汚れを知らない娘の輿入れを、帝都の報道誌はこぞって取り立たしたという。花、白百合、清澄たる泉の君。そこに一分の翳りを見出すこともできないままで。
 帝都イカルガ。
 これは光食む“すめらぎ”の都が、ちいさな島国の中央に、まだ凛然と坐していた頃の話。