少女
 やわい日光の降り注ぐ昼下がり。ウィゼルは人気から離れようと足を急がせていた。
 ユークシアへと戻ってきてから、ちょうど一週間が過ぎた。すぐにでもパーセルへの帰郷をと訴えたウィゼルであったが、長引く事情聴取への対応に追われ、以降数日の王都への滞在を余儀なくされていた。日中は軍や警察、新聞記者には引っ張りだこ、時間を持て余しているところを見つかろうものなら野次馬に声をかけられる。興味本位の追及から逃れるべくウィゼルが選んだのが、警察署の屋上であった。
 錆びついた扉を開くと、生ぬるい風が髪を撫でる。静けさに一息ついて、鉄柵に寄った。
「……こっちの都合も考えてほしいな」
 呟いて、自分が言えたことではない、とすぐに首を振る。
 柵に背を預けた途端に疲労が蘇った。寝所と食事は警察側から提供されているとはいえ、ここ数日間、満足に休憩を取れた試しがないのだ。人目を忍び屋上を見つけていなければ、今頃癇癪を起こしていたところだっただろう。ウィゼルは肩をほぐすようにひとつ伸びをして、快晴の空を見上げる。視界の隅には、王都を取り囲む外壁が映り込んだ。
 継力砲の雨をすんでのところで耐えきった防衛装置は、警察所属の技術者たちによって再整備が進められているらしい。襲撃当日の命令違反を理由に、ニールは助力として毎日のように駆り出されているという。一昨日にすれ違った彼は、不眠不休の体を鞭打って廊下を歩きながらも、ウィゼルの姿を見るやほっと息をついていた。
 命令を無視したもう一人は、一方で、特務課の課長と共に軍本部へと赴いては、責任の在り処をのらりくらりとはぐらかしているという。一週間前に別れたきり、顔も見ていなかった。
「ふあ」
 欠伸をして、目をしばたかせる。屋上の扉が再び開かれたのはその時だった。咄嗟に身を固くしたが、相手の気だるげな表情を目に留めるや、ウィゼルはすぐに肩の力を抜く。そこでは、件のレナードがひらひらと手を振っていた。
「やっぱりここか」
「……なんだよ。こんなところで油売ってていいわけ」
「休憩を入れないと身がもたないさ。きみとも話をしておきたかったし」
 そろそろ帰るんだろう。出し抜けに問われて、ウィゼルは眉を寄せる。ややあって首を縦に振った。
「ずっとこっちにいても、人がうるさいだけだ。やりたいことがあるわけじゃなし」
「実家は」
「三年前に売り払ってる。大した金額にはならなかったけど」
 姉のいない場所に帰るつもりはなかった。パーセル市長の手を借りて始末を終えたとき、やけに頭がすっきりしたのを覚えている。
 こっそりと増えていた貯金に、アネットは気付いていたのだろうか。ふと考え、どちらでもいいことだと振り払った。悟っていたとしても、見ないふりをしていたのだろう。暗黙で繋がっていた日々は、遥か彼方にあるように思えた。
「パーセルに帰れればいいんだ。あっちでも大変だろうけど、ここに残るよりずっといい」
「ずっといい。なるほど。それは誰にとってのことだ?」
 不快感は顔に出た。レナードがくつくつと笑うのを、苛立ちの最中に聞く。
「あんた、心底嫌な奴だよ」
「そりゃあどうも。それで?」
「アネットにとって、だよ。思い出も何もないユークシアに留まるよりは、パーセルで暮らしたほうがまだ刺激になるだろうから」
 襲撃の当日、継力砲を見たアネットは、ユークシアに連れ去られる以前の記憶を取り戻していた。《アネット》に脳内を占拠されても、微かな自我が彼女に残っていたとするならば――そんな薄い可能性も、一縷の望みをかけるには十分だった。
 レナードは何も言わずに鉄柵に歩み寄り、腕をかける。真横に並んだ彼を、ウィゼルは見上げることもしなかった。長い間を置いて、レナードは余所を見つめたまま口を上下させる。
「……彼女は」
「起きたよ」
 そうか、と、吐息混じりの相槌が帰る。
 アネットが目を覚ましたのは、ユークシアに帰りついてからだった。継力灯のまばゆさに条件反射で瞳をしばたかせ、以降は、一定の周期で目をつむり、また開くのみ。食事と排泄の方法は身に付けても、それ以外の自発的な行動は何ひとつとして取ろうとしなかった。
「いや、俺も散歩に出ているのは見かけたんだ。そうか、あれが」
 アネットの体がなまるのを防ぐため、日に一度は手を引いて歩きまわるようにしている。警察署から中央広場を回り、商店街を通って帰ってくるだけの散歩だ。レナードが目にしたのもその道中のことだろう。
 焦点の合わない瞳、促されるままに歩くだけの足。体温が残っていることさえかえって不自然な、少女の姿をした人形。初めて出会ったときと、何も変わらない彼女の姿だった。
「あの子の中身は本当に、きみのお姉さんそのものだったのか。……アネットが、アネットでいたことは?」
 言葉を選ばれたことが手に取るように分かった。ウィゼルは肩をすくめる。
「もしかしたらもとのアネットが帰ってくるかもしれないって? 僕を励まそうっていうの? やめてよ、気色悪い」
「……はいはい。揃って可愛くないな、きみたちは」
「あんたに言われなくても、諦めるつもりなんてないんだよ。ちゃんと約束したんだ」
 一緒に帰る。パーセルへ。ウィゼルが約束を交わしたのは、十年を共に過ごしたアネットだった。今の彼女を連れて帰ったところで、その約束が果たされることはない。
「そろそろ時間だから、行くよ」
 柵から体を浮かせて、一歩を踏み出す。ふり向きざまに、そうだ、と呟いて、高い位置にあるレナードの顔を見上げた。
「結局、あんたの言うとおりだったよ。僕には撃てなかった」
 憎しみにまみれて銃を握り、怒りに任せて引き金に指をかけた。しかし過去も未来も切り離してウォルター一人を撃ち抜くだけの覚悟は、最後まで固められないままだった。
 ウォルターは捕らえられ、それを対価にユークシアとヴァルガスとの間に立った波風は凪いでいった。襲撃の際に死人が出なかったのは僥倖であったのだろう。全ての騒動はウォルターの背に被せられ、ユークシアとヴァルガスの両軍部は、言葉巧みに罪のなすりつけを成し遂げた。
 そのいきさつを聞いても、ウィゼルの胸には微かな感慨も沸かなかった。残っていたのは、一刻も早くパーセルへ帰ろうとする思いだけだったのだ。
 レナードは地面に視線を走らせ、遅れてウィゼルの視線に応える。穏やかな呼吸が彼の口を開いた。
「きみの躊躇が、俺の過去を清算した」
 風に吹かれ、レナードの髪がたなびいて揺れる。日を透かしたそれが緋色を帯びた。
「ウィゼル・レイ。ユークシア警察の一員として、ウォルター・グライド逮捕への助力に感謝する」
 ウィゼルに向き合い、居ずまいを正すと、彼は片手を掲げる。指先は一直線に伸ばされ、背筋にも曲がるところが無かった。嫌味のない敬礼を、ウィゼルは苦い表情で受け止める。
「あんた、今度は役者にでもなったら」
「はは、考えておこうか」
 鉄の柵が光を照り返す。眩しさから目を逸らし、ウィゼルは今度こそレナードに背を向けた。