特務課
 小さな体が軽々と投げ飛ばされ、地面に叩きつけられるたび、鞭打たれるような音と共に木張りの床がぐらりと揺れる。その反復は早朝から続いており、休憩を取ろうとする他の警官たちは、休みなく動き続ける彼女たちをしげしげと眺めては顔をしかめた。
 稽古と呼ぶにはあまりに一方的な試合だ。飛びかかっては投げ飛ばされ、蹴られ、ときには勢いをいなされ転がされる。投げられる側の少女がやっとのことで受け身を覚えたのもここ数日のことだった。
「もう一度お願いします!」
 叫んで、再び少女が立ち上がる。向かう相手は特務課所属のナタリー・ハイン。警察学校の卒業試験を、体術を始めとした戦闘技術のみで乗り切った女性警官である。新人潰しと名高い教官にものの数分で白旗を上げさせて以来、その名は警察署本部に広く知れ渡るようになったという。――同僚曰く、教官潰しのナタリー。外見からは女性らしさが抜けないゆえに性質が悪い。
 そうした才能に偏りのある奇人変人が集められる特務課が、奇異と畏怖の目で見られることこそあれ、尊敬の念を向けられることなど無きに等しいのは当然であった。おおらかな性格の課長のもとで黙認されているのは、おのおのの構成員を取りまとめる班長たちの“機動力”をたてまえとした自由横暴だ。
 そして彼らの中でもとりわけ悪名を響きわたらせるのが、一班班長、特務課の一番槍。
「やってるな、感心感心」
 運動服を纏う人々の中、制服姿で訓練場に現れた青年、レナード・ヘルツである。
 彼の声を耳ざとく聞きつけたナタリーがはっと顔を上げた。少女を片手間に放り投げると、「班長!」と鋭く声を上げる。予想外の軌道で床に衝突する羽目になった少女はぎゃっと悲鳴を上げ、周囲から憐れみの視線を受けることになる。
 しかし投げ捨てた側のナタリーは彼女のことなどお構いなしだった。ふたりを遠巻きに見つめていたレナードに、ずいと詰め寄っている。
「どういうことですかこれ、聞いてませんよ! 完全に時間外労働です! 給料の割り増しを請求します!」
 朝からよく通る声だった。それを間近で聞かされたレナードは、片耳を叩きながら顔をしかめる。
「俺はちゃんと説明したはずだ。その子を預けるから鍛えてやれ、方法はお前に任せる――了承したのはそっちだろう」
「毎日毎日朝から晩まで相手してるんですよこっちは!?」
「お前は知的労働ができないんだから仕方ないじゃないか」
「知ってて特務課に引っこ抜いたのは班長です!」
 騒ぎ立てるふたりから離れた場所では、少女がよろけながら立ち上がっていた。袖の短い上衣から伸びた腕にはいくつもの青あざと切り傷が刻まれている。どれもがここ一週間続いた組み手によって作られた跡だ。彼女は新たに作られた頭のたんこぶを撫でさすりながら、恨みのこもった目でレナードを見る。
「邪魔しないでください、レナードさん」
「束の間の休憩を満喫したらどうだ」
「いりません。……それより何ですか。野次馬なら帰ってもらえませんか」
 堂々と不遜な口を利く。訓練場の警官たちははらはらしながらそれに聞き耳を立てていた。
 少女がこの訓練場に入り浸るようになったのは一週間前。特務課の管理下で連れて来られた一般人だというのが、彼らに伝達された情報であった。何らかの事件に関わる重要参考人として保護しているのだとはもっぱらの噂だが、それにしても日々危機迫る表情でナタリーと組み手を行っているのは不可解だ。
 特務課のレナードがまた厄介事を背負いこんできたのだと、皆気にはしながらも近づこうとはしなかった。自ら進んで火傷をしたい者などいないのだ。
 少女の棘のある口調に、しかしレナードは気分を害する様子もない。軽く首を振って、訓練所の外を顎で指し示した。
「お仕事だ、お仕事。ニール君が防衛機器の点検に向かうから、同行しておいで」
 途端に少女の顔が明るくなる。「いいんですか」と期待をにじませる姿は年相応のものだった。
「礼はちゃんと言っておけ。邪魔はするなよ」
「分かってます、それじゃ――」飛び出しかけた少女だが、その場で足踏みをしてナタリーへと振り返る。そのまま勢いよく頭を下げた。「ナタリーさん、今日はありがとうございました。失礼します!」叫んだきり、返事を聞かずに今度こそ訓練場から走り去っていく。嵐のような彼女の背中に、ナタリーはひらひらと手を振った。
「はいはい、行っておいで。…………なにを笑ってるんですか、班長」
「いや、活気があることだなと。どうだ、アネットは」
 しばらくの間があった。ナタリーはむくれた顔で少女が去っていった扉の方向を見つめ続けている。その目は、やがてゆるやかに細められていった。
「見ての通りですよ、てんで素人。一応下地はあるみたいですけど、毛が生えた程度でした。覚えが特別いいわけでもないですし。……ただ」
「ただ?」
「あの子、よく見えてます。どう動けばいいかよくわかってる。一直線に私の隙を見ているものだから、どきっとする瞬間が何度もありました。まあ、自分の体が付いていけてない時点で意味が無いんですけどね」
 中心で起こっていた騒ぎが止んだのを契機としてか、訓練場がにわかに活気立つ。昼どきまでの少ない時間をもうひと踏ん張りの訓練に充てようとする者たちが、彼方では威勢よく組み手を始め、此方では棒を用いた打ち合いを始める。
 異彩を放っているのは、制服をまとうレナードだけだ。ふむ、と考えこんだ彼の表情は、少女の行く末を案じているようでもあった。