沈黙せよ、とは師の教えだった。
 言葉は太刀筋を読ませ、刃の通りを鈍らせる。ゆえに剣を握るとき、あなたは風でなければならない。身を躍らせ、腕を振るいながら、そこにいることを決して悟られてはならない。風のようにおなりなさい、殿下。あなたは――
 ひび割れた老人の声を反芻するたび、ヴィルは彼の背中にこびりついた、ぞっとするような死の臭いを思い出す。それは鼻腔をくすぐるものでなければ、鼻頭をつんと痛ませるようなものでもない。まるで身に従う影――否、まさに現れては過ぎ去っていく風のようなものだ。老いた師ルクレールの存在は、いつ何時も死と共にあった。
 おぼろげに記憶するばかりであった父と母のおもかげ、足早に冬道を抜ける人々、雪に閉ざされた宮殿や暗雲に覆われた王都の景色が、彼の死をきっかけに手繰るように思い出されたのも、ならばやむないことであったのだろう。なんのことはない、ヴィルにとっての過去はみな、死した記憶として胸の奥にわだかまったままでいたということ。
 それだけのことだった。



「殿下」
 ラナの鋭い一喝に、ヴィルははっと我に返る。直後眼前を走っていった剣の軌跡への対処が遅れ、足を滑らせて尻もちをついた。
 季節は夏の初め。整然と並ぶ庭先の木々からは珠のような木漏れ日が降り注いでいる。足元にはよく手入れされた芝が生えそろっているものの、派手に転べば痛むことに変わりはない。腰をさすったヴィルを見下ろし、ラナは大仰にため息をついた。
「物思いにふけるのであれば稽古のあとになさっては。模擬剣とはいえ、当たれば昏倒してもおかしくありませんよ」
「……すこしぐらい手加減をしてくれてもいいだろう」
「手を抜いた娘からもぎ取る勝利で、殿下が満足されるのであれば」
 ラナの手を受け入れて、ヴィルは立ち上がる。年頃の娘の例に漏れず、ラナの指先はささくれだって荒れている。町娘との違いをひとつ上げるとすれば、彼女の掌の皮が男のように硬化していることだった。
「殿下」
「あ、ああ、ごめん」
 いつまでも手を握っていたことを不審がられたのだ。慌てて距離を取り、そのついでに剣を取り上げた。手首を裏に表にと返し、刃の光を見つめるヴィルに、ラナは呆れ顔で首を傾ける。短い茶の髪がさらりと揺れた。
「身の入らない稽古に意味はありません、殿下。体の重心も、身の処し方も、まるでなっていませんでした。昨日よりも酷いほどです」
「仕方がないだろう、あんなことがあったあとで……」
「心と剣は別の場所に置くことです。これと共にあるのは」言い、ラナは刃を顔の前に構える。「志だけでいい」
 悟ったような口ぶりが癇に障った。ヴィルは唇を吊り下げる。
「無茶を言わないでくれ、知人の生き死にの話だぞ。おまえのような心なしにはなれない」
「ならば上達は諦めることですね」
 ヴィルは渋面でそっぽを向く。小言と文句の行き来の最中、ラナは常通りの無表情を崩しもしなかった。
 師の孫娘であるところの彼女に剣術の手ほどきを受けるようになってから、はや幾年が過ぎようとしている。続く勝利を誇りもしない、ヴィルを憐れみもしない、感情の起伏の見えない彼女のことがヴィルは苦手だ。まるで動く案山子を相手に剣を振るっているような気分になる。
「悲しくないのか、ラナ。亡くなったのはお前の祖父だろう」
 意趣返しに、と思ったところがなかったとは言いきれない。模擬剣を鞘にしまい、ヴィルは手元をじっと見下ろす――彼女の顔を見ることが、どうしてもできなかった。生ぬるい風が頬を撫ぜていくことさえ不愉快で、ヴィルの瞳はいっそう曇る。
 しかしラナの息遣いが滞ることは一度としてないままだった。
「あなたに剣を教えよと、私は祖父より言い遣っています。ならばほかならぬ祖父の死で、それが妨げられるようなことがあってはならないでしょう」
 鍛錬の終わりを示すように一礼を行い、ラナは颯爽と歩き去る。ぶれるところのない後ろ姿を見送って、ヴィルはひとつ息をついた。



 イ・マルセルーー北方語で“見棄てられた地”と呼ばれる土地。ヴィルの生まれ故郷はそこにあった。秋口から春の初めに至るまで止むことのない吹雪、伴って急降下していく気温のために、およそ人の住む場所ではないとされている。便宜上は大陸北部の大国エスマルタの領土と定められているものの、イ・マルセルを終の棲家に選ぶような世捨て人はいなかった。
「ここからイ・マルセルまで、馬で一月……か」
 その夜、爪先のような細い月が昇るころ、ヴィルは机上の地図を指でなぞっていた。
 エスマルタ王都に移り住んでからというもの、同じことを何度繰り返したとも知れなかった。掠れてしまったインクの文字を読み取ることはもはや難しくなっていたが、ヴィルにとってその地図だけが、ただ一つ、彼の故郷の言葉を記した書物であることに変わりはない。
 十年前のエスマルタの北征を受けて生き残った現地の住人は、身分の差を問わずに北方語を植え付けられていった。厳しい言語統制は単語や文法のみにとどまらない。彼らの慣れ親しんだ地名から人名に至るまで、すべてが新たな文字列に書き換えられたのだ。
 イ・マルセルとだけ呼ばれる土地に古くからの名前があったことを、吹雪の中に息づいていた王国の存在を、もう誰も覚えてはいない。なおも過去からの声に執着するというのであれば、それは女々しい郷愁に過ぎないのだ。くだらないことだと唾棄しようとして、ヴィルの口元は自嘲に歪む。
「愁うような故郷くになんか、もうどこにもないんじゃないか」
 ランプの炎がちらついて、地図の上に転がった耳飾りの緋の石に、とろけるような光を灯す。朱に、金に、と彩りを移ろわせる影を見つめるうち、ヴィルの呼吸は少しずつ静かなものに変わっていった。
(……一月)
 部屋の扉に目を向ける。邸の人々はすっかり寝静まっているころだ。
 師ルクレールのつてでヴィルやラナを養っているだけの彼らに、旅費までを強請るわけにはいかない。そもそも成人前の子供の遠出が許されるはずがないだろう。
 ――だが、資金を得る手段ならばひとつだけ。
 ふんぎりをつけるように、短い呼気をひとつ。ヴィルは机上の耳飾りを拾い上げると、古びた椅子から腰を浮かせた。



「どちらへ?」
 しかしヴィルの一念発起は、邸の門を飛び出したところで腰を折られた。
 濃霧のような闇がたちこめる庭先から、古ぼけたカンテラの光が漏れてくる。思わず身をすくませたヴィルに、カンテラの主――ラナは眉をひそめた。
 ヴィルは荷の肩紐を握りしめる。日々の寝所と食事の対価として、夜番を初めとした警護の一端をラナが手伝っていることは知っていた。だがまさにヴィルが邸を飛び出そうというその時になって、彼女と鉢合わせるとは思わなかったのだ。
「ラナ……頼む、見逃してくれないか」
「どちらへ、と伺いました。外出許可の如何はそのあとです」
 ラナはカンテラを左手に持ち直す。彼女の腰元に下げられた鞘を一瞥し、隠し通すことはできない、とヴィルは悟った。観念して首を振る。
「北に」
「北?」
「……故郷に行こうと思ったんだ。イ・マルセル、俺の生まれた場所に」
 ラナの沈黙が孕む空気は鉛より重い。理由を問いただされるか、あるいは一も二もなく却下されるのだろうと踏んだヴィルであったが、彼女は考えこむようにそらを見上げたきり、それをしようとはしなかった。
「旅費はどうなさるおつもりですか」
「父さんの耳飾りを売って、金に換えようと思って」
「旅程は」
「地図を持っている。昔、先生に道を訊いたこともあるし。だから平気だ、ちゃんと帰ってこられる」
 懸命の説得も、夜に吸い込まれて消えていくかのようだった。力なくラナを見下ろしたところで、彼女は顔色ひとつ変える気配がない。
「お願いだ、ラナ。邸の人たちには書き置きを残してきた。帰る日の算段も立ててある、あとはお前さえ納得してくれればいいんだ」
「……剣は、お持ちでないのですね」
 え、とラナの目を辿る。彼女の視線はヴィルの腰へとまっすぐに注がれていた。ヴィルは荷物の中身を頭に並べ、おずおずと「ナイフなら一本あるけど」と口にする。ラナが首を振った。
「それなら出立は明晩になさってください」
 おもむろにカンテラの火が吹き消される。その蓋を元の通りに閉めると、ラナはヴィルの背を押すようにして邸の中に連れ戻した。文句をつけようと踏みとどまったヴィルから、荷のひとつを軽々と取り上げてしまう。
「私が同行します。あなたの剣の代わりとして」
 彼女の一言は、ヴィルを凍りつかせるには十分だった。
 そのまま廊下を抜けていくラナを、ヴィルは我に返って追いかける。どういうことだ、と声を殺して問いかければ、ラナは荷を物影に隠して振り返った。
「旅費は祖父の遺品から捻出します。私に気を配っていただく必要はございません。ただの剣、荷物と同様に見なしてくだされば結構です」
「おい、ラナ」
「そうでなければ、ここで旦那様と奥様をお呼びしますが」
 よろしいのですか、と脅すラナの瞳に揺らぎはない。反対したが最後、彼女は躊躇もなしに声を張り上げるだろう。そうなれば一夜の思い付きは水の泡だ。
「……わかったよ」
 師の孫娘はそうやって、自分の気概を折り取っていくのだ。ヴィルが渋々了承を示すころには、彼女への反骨心も何もかも、跡形もなく崩れ落ちてしまっていた。



 思い起こせば、崩壊の始まりは父王の即位から十年と時間を置いていなかった。
 過去、故国は冬を知らない国であったという。一柱の神龍、龍と盟約を交わした神子、そしてそれを信ずる者たちの祈りにより、氷雪は都や町々を避け、平原ばかりを白く染め上げていた。
 しかし終わりの訪れない永遠がないように、平穏も長くは続かない。ヴィルの祖父の治世末期、龍は汚れた神子の陰謀により、ついに命を遂げることになる。代わりに国を守護するようになったのは、新たな龍を従えた神子――すなわち父の妃であり、ヴィルの母親でもあった女性だった。
 かれらに吹雪を止めるまでの力はなかった。国王の代替わりを経た後、故国は厳しい冬を乗り越えるため、それまで関係を断っていた他国に協力を仰ぐこととなる。その様子が民に売国を想起させたのだろうと語ったのはルクレールだ。
 王弟が主戦論を唱え、民の協力で国王を幽閉したのが十と二年前。ヴィルが五歳の頃だった。いくつもの戦の果て、困窮した都から王弟は逃亡を図る。ヴィルの父親が再び王位に戻ったとき、すでに国には未来がなかった。
「お逃げください、殿下、私と共に」
 そう告げたルクレールの背に、ヴィルはやはり死の影を見ていた。それが彼のものであったのか、それとも滅びゆく国のものであったのか、今ではもう思い出すこともかなわない。
 ただ耳について離れないのは、亡命の道中に聞いた龍の雄叫び。
 ――ヴィルに故郷の崩落を報せた、あの、世界の終わりのような叫び声だけだった。



 同じ宿を借りた誰かの一室から、悲哀を帯びた歌声が響いてくる。それに添えられているのは星々を繋ぎ合わせていくかのような弦の音色で、どうやら楽団の一員が明日の公演に備えて練習を行っているらしい。
 それまでまんじりともせずに宵の口を過ごしていたヴィルだ。一度体を起こしてしまったきり、あとはぼんやりとその音に耳をすましているよりほかにすることもなかった。

 ――いつか ここには龍が棲み 人が棲み 安らぎがかれらを結んでいた
 ――夢咲く大地 白百合の花 幸福は青く空を満たした

 大陸北部に深く根付いていた龍信仰も、とうの昔に廃れてしまった。現代に龍への賛美を口にする者があれば、かれは狂徒と謗られ石を投げられ、足を引きずって逃げ回ることになるだろう。イ・マルセルの双龍が立て続けに失われた今、力の代名詞であった龍の名を耳にするのは伽語りの中だけで十分だと人が判断したのだ。
 ならばすべて夢だったのかもしれない、とヴィルは目蓋を下ろす。イ・マルセルではなかったあの場所で生まれ育ったこと、見聞きしたもののすべて、汀の泡のようにはじけ飛んでしまうような幻であったのかもしれないと――夢想したきり、深く息を吐き出した。そうであったら、どんなによかったか。
「殿下」
 掠れた声に呼ばれた。ついと体を返せば、隣の寝台にはうっすらと目を開けたラナの姿がある。
 物音を立てた記憶も、灯りを付けた記憶もなかった。だとすれば窓から漏れる薄明かりがヴィルの影を揺らしていたのだろう。夜更かしを弁解すべく口を開いても、言葉を吐き出すだけの気力は起こらなかった。
 歌声はいつまでもやまず、ヴィルの胸をささくれ立たせてゆく。ほんのひとときでも懐かしさを感じてしまった自分を、自分で許すことができなかった。唇を結んだヴィルを、ラナは訝しげに見上げる。
「お体に障ります。明日も出発は早いのですから……」
「……いつまで」
「殿下?」
 ヴィルは緩慢な動作でラナの側の床に足を下ろす。寝台に腰かける形で、横たわる彼女を見下ろした。
「いつまで俺は、“殿下”でいなきゃならない?」
 薄雲に月が飲まれる。部屋に下りた光の紗も、瞬く間に陰っていった。
 口にしてしまったと後悔したのはラナが両目を見開いたときで、撤回がかなわないと悟ったのは沈黙を身に感じたときだった。それまで眠りについていたかのように静かだった心臓が、途端に強く脈打ち始める。
 胸を内側から殴りつけるような拍動に、耐え続けることまではかなわなかった。ヴィルは目を逸らし、彼女に背を向けて、早々に襤褸の毛布の中へと潜り込む。あとはただきつく目蓋を閉ざして、意識が早く溶け落ちるのを願っていた。
 きいと寝台が鳴く。ラナが身を起こしたのだと、未だ外気に敏感なままの耳が伝えた。早く、早く、と急かしても、ヴィルの思考は冴えるばかりで一向に眩む気配がない。そうしているうちに背後で息をつく気配があった。ヴィルは苦い諦めをもってそれを受け入れる。
「私が、あなたを追いつめていたのですか――?」
 悔いが胸を引きつらせる。
 親を探す子供のような声が、聞きたかったわけではなかった。



 北方の故国を殺しつくしたのは、大挙した兵団でも、吹き付けた雪風でもない。大陸地図に上書きされた“イ・マルセル見棄てられた地”、その名が彼の地を荒野に変えたのだ。旅先の道々、ヴィルが北へ向かうと告げれば人々はみな怪訝な目をしたが、ふたりの子供連れになにを感じ取ったとも知れない、彼らを簡潔な祈りの言葉で送り出してくれた。
 王都から船で大河を上り、さらに沿岸をゆく交易船を乗り継いで北西へ。大陸最北の港からは馬で旅程をゆくことになる。さらに北東へと向かってたどり着いた集落が、イ・マルセルに残る数少ない集落のうちでは最北のものだった。しかしヴィルの目的地は、その集落よりなおも北上を続けた先にある。
「やめておきな、あそこには何もないよ」
 そう首を振った麻織りの老婆、
「物好きは早く治しておいた方がいいぜ、小僧ども」
 そう肩をすくめた農夫、
「世をはかなむには若すぎるのではないかしら」
 そうため息をこぼした金具売りの娘の、誰の言うことも間違っていなかったのだろう。
 ヴィルは昨日発ったばかりの集落を顧みる。地平の彼方に残してきた集落の住民はみな、心根の優しい人々だった。歳若い旅人を哀れんであれこれと積み荷を持たせてくれた。季節が冬であったなら、彼らは殴ってでもヴィルを止めにかかっていたのだろう。
 今が夏でよかった。響いてきた潮騒を耳にして、ヴィルはそう思う。
 馬を下り、手綱を引いてなお歩みを進める。道中ぽつぽつと草葉を伸ばしていたはずの平原も、そのころにはまったくの裸を晒していた。急くように前へ前へと進めていた足は、やがてその頻度を緩め、たどたどしいものに変わった末に、ぴたりと動きを止めた。ヴィルの腹の底から吐き出したため息は、乾いた潮風に吹かれていく。
 途絶えた大地の先には、茫漠と広がる海がある。そこが最果てだ。蹴落とした小石は、断崖を転がって飛沫に消えていった。
 ――夏でよかった。ヴィルは心からそう思う。
 そこに何もないことが、雪景色ではわからなかった。
 馬の手綱がヴィルの掌をすり抜けた。膝から力が抜けて、その場にかっくりと崩れ落ちる。吐き出した息ひとつ、震わせずにはいられなかった。
「殿下」
 ラナの声に、振り向くこともしない。眼下の波音は繰り返しヴィルの胸をさざめかせ、そうして体ごと打ち砕いていこうとする。
「……ないんだよ」首を振る。「ここにはもう何もないんだ。……こんなこと、邸を出る前から分かっていたのに」
 甲斐を求めていたのだ。一月の旅路に見合うだけの意味を。報酬の見えた旅ではなかったから、やみくもに一歩を踏み出した。そんな向こう見ずが痛い目にあった――それだけのことだ。
 結果、与えられたものは甲斐でも意味でも報酬でもない。ただ沈黙を保つばかりの虚ろでしか。むしろそれをこそ、ヴィルは求めていたのかもしれなかった。
「ディルカメネスは死んだ。もうここはイ・マルセルで、あの国は誰からも忘れられてしまったんだ。そうだろうラナ、そうだって言ってくれ。もう思い出すことなんかやめてしまえって」
「殿下、」
「――誰が殿下だっていうんだよ!」
 地を睨んだまま叫んだ。ラナの足音は途絶え、細い影ばかりがヴィルに差し掛かる。
 長旅を越えてきたのは、夢の終わりを探すためだった。過去の残滓を捨てられない自分を荼毘に付してしまうため。背中に憑りついたままの亡霊を引き剥がすために、ヴィルは最果ての地を目指してきたのだ。
 切り捨てられれば楽になれる。だというのに、誰もかれもが忘れ去ることを許してくれない。後ろ髪を引いて、耳に張り付いて、ヴィルに過去を引きずらせようとする。そうしているうちに、背負うべきものはまたいくつも増えていく。
 もう何もかも、うんざりだった。
「帰る国もない、故郷もない、親も先生も死んだ。なのにどうして自由になれない。ヴィルトラーゼ・ルイ・ブランシャール・ド・ディライ、この名前のせいか。それとも体に流れる血のせいか。なあラナ、俺はいつになったら許されるんだ。いったいどこへ行けば、」
 問う言葉は喉につかえた。
 背後から差し伸べられたラナの片腕が、座り込んだヴィルを抱きしめていた。添えられた体温が滲み出すより早く、ヴィルの目の前の地面には一振りの剣が突き立てられる。それは師ルクレールの遺した剣――護衛にと願い出たラナが、長い道中、しかし一度として引き抜くことのなかった真剣だった。
「ラナ」
 呼んだヴィルに、
「殺してください」
 彼女は乞うた。
 潮風の香りに気付かされた。それは胃の奥底に積み重なり、血の流れを滞らせていくような重ったるさを含んでいる。ぬるい大気の中では思考ごとうずめられてしまいそうで、ヴィルは意識して息を吐き出した。よく磨かれた剣の刃には、瞑目したラナの横顔が映り込んでいる。
 殿下、と。
 ラナの声が震えるのを、初めて耳にした。
「ここから逃げ出した日のことを憶えておいでですか。あのときはあなたも私もまだ幼くて、故郷で何が起こったのかも、なぜ逃げなければならないのかも、きっとよく理解してはいなかった。でも……そう、平原を半ばまで横切ったころのことです。耳を切り裂くような叫び声が、王都の方角から聞こえてきた。あれは龍の声で、あなたはそのときに悟ってしまったのでしょう。国の死と、国王陛下、妃殿下の死を――故郷ディルカメネスと、あなたのご両親の死を」
 ヴィルがひとつまばたきをする。思い返す必要もない、それは血の染みのように耳にこびりついて、拭いきれないままにある断末魔だ。龍に命を縛られた母親が時を同じくして死んだこと、そして父親もまた戦場で果てたのだということを、幼い胸に刻み込むには十分だった。
「あなたは振り返り、地面に座り込んで、しばらく動かずにいた。もう見えなくなっていたはずの王都をじっと見つめていた。……そうして立ち上がったのです、涙の一滴もこぼさず、嗚咽のひとつも漏らさずに。『行こう』とだけ唇を動かして」
 ラナの吐息がヴィルの首筋を滑り落ちていく。先よりわずかに力の込められた彼女の指先は、縋りつくようにヴィルの肩を捕らえていた。
「あなたから声を奪ったのは私たちです。騒げば追手に気取られるかもしれなかったあの状況で、あなたに沈黙を押し付けてしまった」
「……ラナ」
「だから、殿下。私はせめて、あなたの剣になりたかった。あなたの意志と在りたかった。心をひとりで飲み込んでしまったあなたの過去を、共に背負えればと思っていた。……それもあなたの重荷に過ぎなかったのであれば、どうか殿下、私を殺してしまってください。あなたが過去を捨て去るというなら、私はあなたの重荷にしかなれない」
 断ち落として、ゆけ、と言う。剣を捨てた平穏へ向かえと。
 ヴィルは刃に目を走らせる。ルクレールの剣は、決して刈り取った首の数を語らない。けれどもかれが剣としてある限り、そこには否応なく血と死の記憶がつきまとう。そうして逆境の中に凛と立った人々の背と歩みとを浮き彫りにしていくのだ。
 ならばおよそ、沈黙は閉口を示さない。ヴィルのことばを殺すこともない。
 血が人のかたちを描き付けるように、死が生のすがたを映し出すように。人の手に握られた剣はむしろ、書物よりも雄弁に過去を編んでゆく。主の紡いだ記憶の束を、刀身に飲んで黙り込む。
 ヴィルは剣に手を伸ばした。刃は陰り、ラナのまなざしはその中に消え去っていく。柄を掌に収めたとき、薄らぎかけていた師の声色が耳に反響した。

 ――沈黙なさい、殿下。
 ――剣を力に変えたくば。

 振り上げた刃を自らの影に突き立てる。深く、大地に傷跡を残すようにして。確かな痛みを胸の奥に感じながら、剣を杖に立ち上がった。
 殿下、と口の中で呟いたラナに、ヴィルは空いたままの片手を差し出す。かける言葉に迷った末、ぽつりと問いかけた。
「ディルカメネスはなくなっていないのか。お前の中でも、まだ息をしているのか」
 ラナがうなずくまでに、わずかな間も空かなかった。――救いだ、とヴィルは目を細める。少女が手を握り、地を踏みしめて立ち上がるのを、黙り込んだまま見つめていた。
 日が中天を横切っていく。沈みゆく太陽への恐れは、いつからか砂粒と化して崩れ去ってしまったようだった。なよやかな風に髪を任せれば、汗ばんだ首筋にも涼やかな心地を覚える。
 求めたものは帰る場所であったのか、それとも行くべき場所であったのか――そのどちらかを失ってしまったとき、歩みは容易に阻まれてしまうものか。きっと答えは否だろう、とヴィルは剣を引き抜いた。地に突き立てる剣が一本、たった一本そこにあれば、立ち上がる意志も共に備わる。
「ラナ。お前には何が見える」
 荒れ果てたばかりの平原、人の気配の消え去った土地に。
 ヴィルが何もないと称した空白を指して彼女は、
「始まりが見えます」
 そう言って、ぎこちなく笑った。