「いなかったよ」
 しじまの先に、ハルミヤはぽろりと呟いた。
「最初から、存在しなかったんだ。お前たちが信じたイシュティア・ディルカは、作りものでしかなかった」
 返事はない。ハルミヤは探るように続きを吐き出した。
「私はハルミヤだ。それ以上にも、それ以下にも、それ以外にもなれなかった。……私は」唾を飲み込む。「お前たちを、騙していたんだ」
 ハルミヤは奥歯の噛みあわせを確かめながら、早く、と心に囁いていた。――責めるなら、早く。最も自分を苛むものが、無言であることは明らかだった。
 耐えきれなくなったところで、は、と息を吐く。唇は無意識にわなないた。
「どうした、どうして黙り込む必要がある? イシュティアは偽物だったんだ。裏切りだと責め立てればいい、口汚く罵ればいいんだ。お前にはそうする権利がある。小賢しく小汚い娘を、卑しいディルカを踏みにじる権利がな」
「……ディルカ」
「そうだディルカだ、神殿の拾い子、生まれも親も知れない娘だ! 学院にいること、生きることすら分不相応だったとそう言えばいい、もの知らずだと笑えばいい!」
 安い挑発だった。自覚もしていた。しかしそうでもしていなければ、自分の在り処を悟られてしまう。唇を引き結んだままのセルジュに、ハルミヤはくり返し願いをかけていた。どうか責めてくれと。嘲ってくれと。この身を奮い立たせるのは、怒りでなければならないのだから。
 セルジュが唇を開く。
 さざ波のような表情から放たれる言葉が、侮蔑であるはずもなかった。
「お前、ずっとそうやってきたのか」
 問いかけひとつ。ハルミヤの舌を止めるにはそれで十分だった。
「……だったら馬鹿だよ。本当に嫌われたいなら、あのとき、俺たちのことなんか助けなきゃよかったんだ」
「助け、」
「憶えていないならいいさ。でも俺は、いいや俺だけじゃない、ダヴィドも、コレットもだ。お前に救われたことを忘れない。忘れてやらない」
 言っていなかった、と添えて、セルジュは肩をすくめる。
「ありがとう、イシュティア。……ハルミヤ。俺たちを助けたのは、お前だよ」
 握りしめていた掌から力が抜ける。指先は椅子の上に落ち、呆けた口が開閉した。その裏側で、頭の端に残った意地が理屈を探ろうとする。リディが姿を消したと知り飛び出したコレット、彼女を追ったセルジュとダヴィド。自分にとっては通過点に過ぎないはずの彼らを、なぜ救い出そうなどと考えたのか。けれども答えは見つからない。
(……ただ)
 ただ、放ってはおけなかった。それだけだった。
 ひくりと動いたハルミヤの頬に、セルジュが何を悟ったとも知れない。しかし彼がひとたび相好を崩せば、学院生であったころのセルジュ・フェネオンが戻ってくる。
「俺たちはお前をディルカだなんて呼んだか? 馬鹿にして、罵ったことがあったか」
 首を振る。声を出さなかったのはせめてもの矜持だった。
 セルジュは微かに笑い、言葉に力を込める。
「俺はお前自身と友達になった。皆もきっとそのつもりでいた。なあハルミヤ、あそこにいたのは、本当にお前じゃなかったのか」
 ハルミヤであった頃と、同じように。そう望んでいたことを覚えている。誰にも干渉せず、干渉されず、孤立した一学生としての態度を貫くつもりでいたのだ。
 殻を切り開いたのがセルジュであったなら、声を投げかけ続けたのもまたセルジュだった。
 自身は何も変わらなかった。学院に立ち続けたのはハルミヤ・ディルカ以外の何者でもなかったのだ。ハルミヤが唇を噛んだ頃、セルジュは言葉を継いだ。
「だからいいんだ。イシュティアでも、ハルミヤでもよかった。学院で一緒に過ごしたのも、俺たちを助け出してくれたのも、お前だったんだからさ」
「……そんなことを、言うのは、お前ぐらいだ」
 セルジュは目を丸くして、そうかなあとそらを見る。ハルミヤがそれとなく目を逸らしたのに気付かないはずもないだろう。ややあって、「まあ」と前置きがされた。
「ハルミヤが神殿に捕えられたって聞いて、それがイシュティアと同じ人間だったと知れたのもそうあとじゃなかった。最初に腹を立てたのはコレットだったな。リディが故郷に帰った上に、お前までいなくなるのかって。最近聞いたけど、あいつの部屋の鍵、端からものを投げつけたせいで使い物にならなくなったらしくて」
「そういうことを言っているんじゃ」
「挙句、今度は王家に連れて行かれたって話だろう? もう騒ぎ散らしたのなんのって。直接引っ張り出してやるって学院を飛び出したのを、俺とダヴィドでどうにか止めたんだ。暴れて大変だったんだぞ。ほら、そのときのひっかき傷」
 袖からのぞいた手の甲には、長さも太さもまばらなみみず腫れができている。気の強い彼女がものに当たり散らす様子を想像するのは容易だった。リディが姿を消して数日は消沈していたようだが、どうやら苛立ちだけは腹の中に溜まり続けていたらしい。
「ダヴィドもダヴィドで、惜しかった惜しかったってうるさくてな。一度でもいいからお前の顔を、……って、これは本人に言うことじゃないか」
「……いや」
「そんなときだよ、ブランさんが学院に来たのは」
 ハルミヤが王宮に引き取られてからというもの、神学院には何度となく神殿の調査が入っていた。図書室のラケイユ・ブランがディルカメネスの王太子であることも、その頃には学院中に知れ渡っていたという。ほとぼりの冷めた頃、彼は法衣を身にまとい、ふらりと学院に姿を現した。
 混乱の中でセルジュらを見つけ出した彼は、いつもの人を食った表情をしていたという。
「俺と、ダヴィドと、コレット。俺たちのうちのひとりだけ、お前に会わせてやるって。そのための時間と場所を用意してくれるって言ったんだ。あの人」
「その結果がこれか」
「随分揉めたよ。でもダヴィドもコレットも、会ったところで会話にならないだろうし。ま、この調子だと、誰がここに来たところで同じことを言っただろうけどな」
 セルジュは喉の奥で笑い、視線を通りの先に走らせる。そろそろかと呟いたのは、そこに人影を見たからだろう。おもむろに法衣の留め具に手をかけ、一つ二つと外していく。訝しむハルミヤの前で器用にそれを脱ぎ、折りたたんでいった。
 中に着こまれていたのは、小ざっぱりとしたシャツとズボンだけだ。彼はせいせいしたとでも言うように胸元を煽ぐ。
「ブランさんと約束をしていたんだ」
 ん、と差し出された法衣に、ハルミヤは手を伸ばすことができないでいた。セルジュは構うこともせず、膝上にそれを押し付ける。
「迷いはしたけどさ、これが縁になると思えば悪くない。……ああ、譲るわけじゃないぞ、貸すだけだ」
「貸す、って、お前、これが何か」
「俺の六年」それから、と間を置いて、「お前の五年だ」と続ける。「どっちも無にしていいものじゃない。することが済んだら、ちゃんと返しに来てくれ。コレットの機嫌を取って、ダヴィドの頼みを聞いてやってくれ。約束だ」
 膝の上に乗った法衣の重みを思う。構造そのものは学院の法衣と同じでも、生地と刺繍には何倍もの手間が掛けられているのだろう。片手で触れれば、滑らかな手触りが指先を押し返した。それを縁と名付けた理由にも心当たりがある。
(帰って来い、と)
 そして生きろと。まるで行き場をなくしたハルミヤを、人に繋ぎとめるかのように。心臓を雁字搦めにしていた戒めが解けたような心地がして、口元がじわりと緩む。
「約束しよう」
 無にも等しい自分の価値が、誰かによって注がれるのであれば、ようやく地面に足をつくことができる。それを知ったなら、もう生きる理由を探さずとも良いのだ。
 セルジュは頷きを返し、それじゃあと顔を上げる。彼が顔を向けた先には焼き菓子の包みを抱えたラケイユが立っていた。そこからひとつを受け取ると、セルジュは元来た道を走り去っていく。
「時間は足りたかな」
 ラケイユはそう問いながら、握りこぶし大の焼き菓子をハルミヤに手渡した。バターが惜しまずに使われているのだろう、狐色の焼き目のついたそれは、紙袋から取り出しただけでやわらかな香りを漂わせ始める。
「十分だ」
 欠片を落とさないように口に運ぶ。じわりと溶け出た甘みを、いつまでも舌の上で転がしていた。