色の違う石畳をひとつ、またひとつと踏みつけては、鈍る歩みに喝を入れる。
裾のフリルを揺らす貴婦人が、日傘の下からクロエを一瞥していった。彼女などはまだいい方で、上等なベストをまとった少年に至っては、奇妙なものを見つけたとでも言いたげににやついてこちらを見つめていた。部屋を飛び出す前、握った櫛が削れるほどに髪を梳いてはいたけれど、生まれ持った貧相さはなかなかぬぐえないらしかった。
恥じ入って道の端を歩いたところで、注がれる関心が失せるわけでもない。うつむいたままで歩き続ければ、正面の男には邪魔だよと追いやられた。
胸が重い。目眩がする。人の足音に、呑みこまれてしまいそうだった。
思い立って宿房を抜け出したまでは良かった。アルヘナは疑いを知らない相手であったし、クロエを引き留める者は誰もいなかった。気鬱でいるだろうハルミヤに、せめて精の出る食事を。そう固めた意志は固いはずだった。
「……はあ」
十字路に立ちつくす。食費にと預けられている銅貨が、懐で擦れ合って音を立てた。
(何をしに来たんだろう)
食材をと考えていたことは覚えている。事実、数日前に買いこんだ菜物や塩は底を尽きかけており、今日明日にでも買い出しに行かなければならないことは確かだった。
しかし、それが目的であったなら、なにもアルヘナに嘘をついてまで街に出る必要はなかったのだ。むしろ彼女を伴っていたほうが、荷運びははかどっていたはずだ。
なのに、何故。悩む必要もなかった。
(ひとりになりたかったんだ)
誰もいないところへ。風の音と草の匂いがするだけの、しかしそれも感覚を研ぎ澄まさねば感じ取れないような。人の目も、声もない、どこか遠い場所へ行きたかったのだ。
しかし門を潜り抜けた途端に思い知った。王都ではそれが叶わない。どんなに目抜き通りを突き進んでいっても、目の前にはやはり煉瓦の敷き詰められた道が途方もなく続いている。果てなく開けた視界に反して、胸には閉塞感ばかりが募っていった。
結局、どこにも行けない。行くつもりもない。帰ろうという思いもまた見つからないままだった。
(私は)
私は、ただ。
すん、と鼻を鳴らして、クロエは踵を返す。そのまま元来た道を一直線に戻り始めた。長く歩き続けたせいだろう、足は疲れを訴えている。故郷に暮らしていた頃はこの程度で音を上げる体ではなかったはずだが、することもない王都暮らしのせいか、早くも体力が衰え始めているらしい。重い足を引きずり引きずり行けば、街の風景は、やがてその流れを緩慢なものに変えていった。
(このままずぶずぶになって、動けなくなったら……何も考えなくてよくなるのかな)
泥濘に足を取られているかのようだった。懸命に腕を振っていないと、座り込んでしまいそうになる。
帰って、どうするというのだろう。食事を作り、それが冷えていくのを待ち続けて。何も知らされぬまま、苦悩の表情で帰ってくるハルミヤを迎えるだけの日々は、いつまで続くのだろう。あと何度、彼女が怯えながら眠りに就くのを見守ればいいのだろう。
終わるまで待ってくれ。そう彼女は言った。巡礼者のような声で、救いを待ち望んでいるかのように。
(終わるまでって、なに)
一度火のついた蝋燭は、燃え尽きるか吹き消されるのを待つだけだ。閃光が弾けて消える光景をまなうらに思い描き、クロエは底知れぬ沈鬱に唇を震わせる。
(そのときあなたは)
本当にそこにいてくれるの。
足が止まる。石畳に縫いつけられたかのように、指一本も動かすことができなくなった。一縷の望みをかけて視線を投げた先には、まだ延々と並木道が連なっている。拒絶された気になって、視線を下げる。――下げようとした。
刹那、視界の端に銀が煌めく。太陽を透かした薄雲のような、冷然と瞬く星のような、銀が。
「……え?」
こぼれ落ちた光がさざめき、揺れる。木の葉の中にちらつく木漏れ日のように、微かに、しめやかに。そのひと房を几帳面にフードの中に仕舞い込んで、少女は街角を曲がっていく。その背格好、体格は、鏡中のハルミヤをそのまま外へと引きずりだしたかのようだった。
――銀髪が珍しいわけでもないだろう。
無意識に首を振っていた。鉛と化していた足が、ひとりでに動き出す。少女が消えていった通りへ、裏道へ。息せき切って走っても追いつけなかった。
クロエが彼方の影を追い続けるうちに、空気の質はがらりと変貌する。嫌味なほどに澄みわたった風が、苔と土埃の香りを運んでくる。通りすがる人々の気配も、華やかな中心街とは対照的に、虚ろな影を潜ませたものへと色を変えていった。
(ここ、は)
靴音が消える。地面の石畳が忽然と消え失せたのだ。代わりにクロエの足を受け止めるようになったのは湿った大地であり、背の低い野草であった。
建造物の気配はない。ただ点々と瓦礫が並んでいるだけだ。石造りであったらしい建物の残骸に、件の少女は体を寄せていく。名残に指を這わせ、いとおしむように撫でてから、音もなく頭上のフードを下ろす。波打ち広がった銀の奔流に、クロエは呼吸も忘れて見入っていた。
硝子玉に似た瞳が、空を映す。雲を溶かしこんで、流れるように背後へと向けられる。その紺青に自分の姿が映り込んでいることに、始めは気付かなかった。
「どなたです」
「えっ、あ」
大急ぎで物陰から飛び出す。このままでは尾けてきたも同然だ。
どうにか釈明をしようと試みるが、焦る頭は言葉を生みださない。困り果てて、あなたに、と顔を上げた。
「あなたに、話があって」
柳眉が歪められる。怪訝そうな表情を形どっても、均整のとれた顔立ちは崩れない。透けるような肌、娘らしくほんのりと色づいた頬、その中にはめ込まれた蒼い宝石。それぞれを取り上げても比類のない部位たちが、小さな輪郭の中に調和をもって並べられていた。
似ている、どころではない。同じだった。顔立ち、体格、どこを取り上げても、ハルミヤのそれと何ひとつ変わらない。
彼女はクロエを上から下まで眺めて、胡乱げに目を細めた。眼差しは硝子の切先のようだ。突き刺されるような心地に一時はおののいたが、指先を握りこんで、自らを叱咤する。
「エツィラ。……エツィラ、ディルカ。ハルミヤの、妹?」
冷然を宿した瞳がぎらつく。まるで氷越しに月光を見たかのようだった。思わず唾を飲み込みながら、クロエは自分の疑念に確信を得る。
「ねえ、どうしてこんなところにいるの。どうしてハルの傍にいてくれないの」
「どうして、とは」
他人事のような言いように、熱がせり上がるのを感じた。ずいと詰め寄って、頭一つは高い位置にある無表情を仰ぎ見る。
「あなたじゃないといけないのに。ハルの寂しさを埋めてあげられるのは、あなただけなのに……!」
羨ましかった。同時に憎かったのだ。
ハルミヤの瞳、稚い者を慈しむあの優しさが、自分に向けられたものでないことには初めから気付いていた。どれだけ彼女の名を呼んだところで、彼女が自分の名を呼ぶことは無かったのだから。クロエ、クロエ、と響く声の裏側に、彼女はいつだって遠い誰かの面影を探していた。
気付いてしまった。無知なままでと願ったのは、真実が二人を断ち切ったから。無垢なままでと望んだのは、妹が変わり果ててしまったからだ。氷越しの月のような眼前の瞳はその証になった。
「あなたはどうして、ハルを棄てていったの」
純潔の少女が、透明な眼差しでクロエを見下ろす。縋りついた先の法衣には、汚れひとつ見つからなかった。そのことが無性に悔しくなって、白布を握った手に力を込める。
「ハルミヤ・ディルカ」
無機質な声だった。読み上げるかのような響きにぞっとする。ふらつきながら一歩を後ずされば、エツィラはクロエを透かしてその背後を見つめていた。
「……長く、探していました。感謝します」
問い返す間すら与えられなかった。
捕らえなさい、と鋭く放たれた命に従い、クロエの背後に気配が立つ。ふり返ることも許されず、片腕が捻りあげられた。直後に衝撃を受けて、意識は急速に落下する。
(いやだ)
寂しい。心細い。怖い。彼女のいないところで、こんなふうに眠るだなんて。
いつからか、ひとりでないことに慣れてしまっていたのだ。空いた隣に誰かが座ること、共に食事を囲むこと、言葉を交わすこと、その温もりに浸りきっていた。かつては受け入れていたはずの孤独が、こんなにも冷たいのはそのせいだ。
目蓋が落ちる。朦朧とした思考で、闇に銀が輝くことを願っていた。