かえして、かえしてよ。
 子供の声が反響する。右から左、左から右へと、揺りかごのように。同じ軌道を描いて、焼き菓子が空を飛んでいく。手から手へ、胸から胸へ、幾人もの子供たちの頭上を渡っていくうちに、包み紙からはいくつもの菓子の欠片がこぼれていった。
 必死で追いかける子供はひとり。銀色の髪をふり乱して、自分より背の高い少年たちへと手を伸ばす。
 かえして、かえしてったら、ねえ!
 少年たちはそれを、鬱陶しそうに、けれども愉悦を浮かべた表情で見下ろしている。自分に敵わないものを踏みにじる快感を、彼らは幼いながらに知っていた。
 神学院、表向きには万人を才能という名の秤で平等に受け入れる学術機関。しかしその実、生徒の大半は貴族の子息によって構成されていた。それも当然のこと、貧民の子供にどれだけの才覚が備わっていたところで、環境に磨かれなければ屑石も同じなのだから。研磨されるどころか、埋められた原石は誰にも見つからぬままで路傍に果てていくのが宿命である。
 菓子を投げ渡す子供たちの頬はつやつやと輝き、学徒に支給される法衣のどこにも汚れは見当たらない。それに引き比べ、彼らを追う子供の髪には櫛を通した形跡すらなく、法衣にもあちこちにしわが寄っていた。子供が大きく跳ねるたびに、埃のようにふけが舞う。それを周囲の少年たちは、汚い汚いと言って笑う――その、くり返し。反復が終わりを見せたのは、菓子を掴んだ少年が、足元の小石に蹴躓いたときだった。
 傾いだ体に目標を定めて、子供が掌を振りかざす。その体が折れ曲がって、弾きとばされた。唐突な足蹴を受け、地面を転がった子供を見下ろして、少年たちはまた笑う。
 ディルカ、ディルカ、ただのディルカ。
 嘲りは呪いのように耳をつんざく。声変わりを待つ少年たちの声は、金属を引っ掻く音に似ていた。
 それを払い飛ばしたのは、ひときわ高く響いた子供の声だ。散り散りに逃げていく子供たちの手から、焼き菓子が落ちて砕け散った。
 それをあーあと眺めて、少女がふり返る。転がったままの子供を、見下ろす。
 ややあって、手が差し伸べられた。細い指先は少しだけ土に汚れていた。さんざめく光の粒が、銀の髪からこぼれて煌めく。淀みない青の瞳に映った子供は、そのせいで、自分がひと際汚れて映ることに気付いてしまう。
 遠巻きに、数人の少女が二人を見つめていた。近付きもせず、遠ざかりもせず、逃げていった少年たちを追うことも、大人を呼ぶこともできないままで、青い瞳を揺らしている。そこに浮かんでいるのが嫌悪の色だと悟ったとき、子供は表情を取り落とした。
 いいよ。もういい。
 放り捨てるような声を、少女は目をしばたかせて聞いていた。それが眼下の子供から漏れたなどと、夢にも思わなかったのだろう。なあに、と首を傾げた彼女に、子供は初めて敵意を投げる。
 もういい。近寄るな。きらいだ。おまえなんか。
 呆然と、少女が口を開ける。彷徨った掌から目を逸らして、子供はひとりで立ち上がる。早足で去っていく背中を追いかける影は無かった。代わりに少女には、周囲の少女たちが駆け寄っていく。小鳥のさえずりに似た非難の声を、子供はしかし、聞き流すこともできないでいた。
 いらない、と、捨てた、あの日のこと。断ち切った昼下がり。
 あれと自分は同じだった。同じ、同じなのに、――こんなにも違うから、嫌いだった。

     *

 ねえ。もしも、もしもだよ、私が神子に選ばれたら――。
(あれは)
 吐き出した息が白色を帯びた。地を押そうとした手は、存外に柔らかい雪に掬われる。体勢を崩して無様に転がれば、衝撃に押されて血痰が飛びだした。
(戯言では、なかったのか)
 見透かしたような瞳、諦めを宿した沈鬱。奪い返すと告げた後に見せた、光が差したかのようなほほ笑み。あれは自分の知り得ぬことを知っていたのか、いつから騙されていたのかと、ハルミヤは必死で思考を巡らせる。無理にでも頭を動かしていなければ、吹きつける雪風に意識すらも飛ばされそうになるからだ。
 布靴に潜り込んだ淡雪は、見る見るうちに足先から熱を奪っていった。刺すような痛みを気にしている余裕はない。進めど、止まれど、視界を埋めつくすのは曇天と鈍色の雪のみだ。広大な雪原に引き比べれば、ハルミヤの一歩など無に等しいものだった。
 王都は、遠い。
 大陸北部に広がる雪原地帯、ディルカメネスが国土として擁するその一帯にあって、冬季の横断は不可能となる。主な移動手段として用いられる馬車も雪の中では役に立たず、歩いて渡ろうものなら瞬く間に方向感覚を狂わされる。
 惰性で足を動かしたところで、行く先に何が見えるわけでもない。荒い息の合間には心臓が破れんばかりの鼓動を刻み、突き刺さったままのナイフからは絶えず血がしたたり落ちていく。
 どれだけ進んだところで、果ては見えない。疲れ果てて倒れるのを待つだけだ。
(分かっている)
 それでも、足を、止めるわけにはいかなかった。
 膝下までが雪に覆われ、勢い余って倒れ込む。咳き込んだ反動で雪を吸った。内外からの冷気に、生理的な涙がこぼれ落ちる。なおも進もうと地に立てた指先からは、とうの昔に感覚が失われていた。そのくせ痛覚だけは鋭敏に、剥き出しの肌を苛み続ける。
「……ける、な」
 奥歯を軋ませる。睨み据えた先で、地平線が眩んでいた。
 片割れは知らされていたのだ。神子候補の一柱であったハルミヤは何者かの襲撃を受け、偶然命を落とす――神殿の描いた、そんな筋書きを。
 ならば。ならば何故、神殿は自分を狙うのか。エツィラ本人が口にした通り、初めから彼女を神子として召し上げれば良いものを、ここまでまわりくどい手段を取る必要がどこにある。宿房を空にし、刺客として護神兵を放つような大掛かりなからくりを、たかが子供一人を殺すために用いる理由とは何だ。
 分からない。何も。知らされていなかった。気付きもしなかった。――奪われる、そのときまで。
「ふざ、けるな」
 きつく、きつく、掌に爪を食い込ませる。ちり、とよぎった痛みは、まるでその一箇所だけに火がともったかのように鋭い。
 死ねない。こんなところで、何も為せず、何も持たず、何も知らずに、死んでたまるか。
 激情は今にも胸を悔い破ろうとするのに、体は一向に前へと進まない。たまらずに叫んだ。しかし喉を突くものは、もはや掠れた悲鳴でしかなかった。
「――ふざけるな……!」
 一声、啼いたのが最後だった。
 雪原を這いずる腕はついにぴくりとも動かなくなり、重力を受けて地に落ちる。背に降り積もる雪が急に質量を増したように感ぜられた。初めこそ赤い花を咲かせた血染めの法衣も、やがて何事もなかったかのように覆い隠されていく。
 ころり、と、意識が転がり落ちた。――風を切る羽音を聞いたのは、目蓋が沈みきる直前だ。
 地に触れた腹に振動が伝わる。銀糸から雪が降り落とされて、そこでハルミヤは顔を上げた。世界から音がかき消えたかのような感覚に、目を見開かずにはいられなかった。
「懐かしい匂いがするかと思ったが」
 声がする。ぼやけた視界に、ただただ銀の光だけが眩い。
「人間の娘か。おかしなものを見る」
 驚愕を呑み込むハルミヤの目の前で、ゆるやかに、景色が意味を持つ。
 拒絶と鮮烈をひとところに集めたような輝きは、鱗の色なのだとようやく気付く。地を踏みしめた四足には粗削りな爪が揃い、節くれだった頭頂部からは二本の角が伸びている。ぎらつく瞳に反し、家ほどの大きさを持つ体躯は艶をまとってすべらかだ。淡い光を照り返す鱗は、鍛錬したばかりの剣を思わせた。
 同じ名を持つ生き物を、ハルミヤが目にしたことはない。けれど知っていた。知らずにいられるわけがなかった。ディルカメネスに生を紡いでこの方、自分の名と同じほどに耳にしてきた、高潔なその種族の名を。
「……龍、」
 耳鳴りがする。
 口をついた驚きは、凍りついた喉をようやく震わせた。