週に一度の休息日といえども、シルヴィアに身の休まるときはない。ためこんだ洗濯ものを桶に抱えてエリューヌ川まで運び、洗濯をするところから彼女の休日は始まった。
 麦の収穫を控えた夏のはじめ、シルヴィアの両親はこと畑の様子に神経をとがらせている。おろそかになりがちな家事を一手に引き受けるのも、一人娘たるシルヴィアの役割だ。川から水をくみ取ると、洗濯板に衣服を乗せて、渾身の力で擦りつける。山のような洗濯ものを、シルヴィアは端から片付けていった。
「朝から精が出るわね」
「シルヴィア、ひさしぶり。今日はお休みかしら」
 洗濯桶を抱えた少女がふたり、シルヴィアを認めるなり声をかける。ジゼル、パメラ、と名前を呼んで、シルヴィアはおおきくうなずいた。少女たちは横に並び、それぞれに洗濯物を広げはじめる。
「昨日は川も荒れたらしいじゃない。帰り道はあぶなくなかった?」
「それがね、橋ですべって川に落ちちゃって」
 あぜんと手を止めた少女たちに、シルヴィアはふふと笑ってみせた。
「ロマルタからいらした騎士さまに助けていただいたの。川はずいぶん水かさが上がっていたのに、濡れることも厭わずに……領主さまのお客さまだから、きっとご立派な方でいらっしゃるんだわ。気高いお心でわたしを救ってくださったのね」
「あら、もしかして一目惚れ?」
「隣国の騎士さまとの恋! すてきねえ。詩なんか作っちゃおうかしら」
「茶化さないの、もう」
 シルヴィアは唇をすぼめたけれど、火照った頬の赤さはどうしても消えない。そのようすを眺めて、ふたりの少女はまた笑うのだった。
「それなら今年の収穫祭のお相手は決まりね。とびきりの花冠を編むんでしょう?」
「ううん、でもあの方はここの習慣なんてご存じないはずだし」
 指の間に衣服をからませて、シルヴィアは身を縮めた。
 村の収穫祭は、夏のはじめ、麦の収穫に合わせて大々的にとりおこなわれる。普段であれば口にできないような麦だけのパンを焼き、そのときのために育てた鶏や豚をさばいて、大いに騒ぎあかす一日だ。少女たちの胸を躍らせるのは、それに伴う花冠の伝統だった。
 はじまりは些細なことであったという。一組の男女が花冠を取り交わして恋心を告げ、めでたく祝言を上げたのがその村だったというだけのことだ。けれどもその逸話は慣例として根付き、今では収穫祭は思いあう二人が花冠を贈り合う一日と見なされている。
「すてきな花冠を作ればお国柄なんて関係ないわ。シルヴィアは器用だもの、きっとだいじょうぶよ」
「お渡しすることだけでも意味があると思うけれど、どう?」
 そうかしらとつぶやくシルヴィアに、少女たちはうんうんとうなずく。河原の石が転がって、闖入者の現れを告げたのはそのときだった。
 三人連れの少年たちの年ごろは、シルヴィアたちとそう変わらない。畑への道中であったのか、くたびれた服には土の汚れがこびりついていた。
「シルヴィア。頼みごとがあるんだけど」
「なに?」
 問いを返しても、少年たちはにやにやと笑いあうばかりだ。横で見守っていたジゼルが、それを見上げて瞳に険をよぎらせた。
「もしかして、シルヴィアに頼んで、クローディアお嬢様に取り入ろうっていうんじゃないでしょうね」
「お、お前には関係ないだろ」
「どうやら図星みたいね。だめよ、この子は伝書鳩じゃないんだから。ねえシルヴィア」
 シルヴィアは領主からの言いつけを思い出す。言葉にして禁じられた記憶はないが、そう誉められたことではないのだろう。曖昧にうなずくと、ジゼルはほおら見なさいと声を張った。
「ほかの男どもにも言っておきなさいよ。シルヴィアを利用するつもりなら、うちの兄貴が黙っていないんだからね」
 暴れ牛をひとりで抑えつけたとさえ噂される青年の名を出された途端、少年たちはいっそ哀れなほどに震えあがる。その姿をさらす恥に耐えきれなかったのか、もう頼まねえよ、ばあか、と走り去っていった。
「ジゼルは厳しいんだから」
 パメラがくすくすと笑う。ジゼルはいいのよと言って鼻を鳴らした。
「ちゃんと断ってやらなきゃ。シルヴィアがひとりのときに言い寄られたらたまらないもの」
「男の子はみんな、お嬢様のことが好きなのね」
 ぽそりと感心したシルヴィアに、少女たちは顔を見合わせる。
「なあに、気付いていなかったの? ほとんど屋敷から下りてこない深窓のお嬢様、それも噂にたがわぬ美人で、優しくて、賢い方だもの。私たちでもあこがれるんだから、あいつらが好きになるのも当然よね」
「シルヴィアがお嬢様にお仕えするって決まったとき、男の子たちはみんなで集会を開いたらしいわよ。誰がいちばんにシルヴィアに声をかけるか、ってね」
「ふうん」
 初耳だった。目を丸くしたシルヴィアを、ふたりはそれぞれに小突く。
「当人がこの調子なんだもの。あのときだって私たちで脅してやったのよ。どうやらまだ残党がいたみたいだけど!」
「もう、ジゼルったら」
 ふたたび笑いあう少女たちを尻目に、シルヴィアは少年たちが去っていった方向をじっと見つめていた。しばらくそうしてから、「もしかして、バジルも」とつぶやいた。
「……バジルもお嬢様が好きなのかしら。私、あの子からそういう話を聞いたことがなくて」
 顔を合わせればちいさな口げんかをするような幼馴染だ。話題になったとしてもシルヴィアのことばかりで、バジルは聞き役に徹するか、彼女の話に茶々を入れるのが常だった。ジゼルはぱちぱちと目をしばたかせる。
「バジルねえ。あの本の虫に恋をするような心があるかどうかは知らないけれど」そこで言葉を切って、彼女はにっと唇をつりあげた。「お嬢様にあこがれない男なんていないわ。だからこその高根の花よ」
「そう、よね」
 シルヴィアにクローディアの評判を否定するつもりはない。下働きをするようになって五年を経たいまでさえ、彼女の欠点はどこにも見つからないままなのだった。
 そこに自分の名前を呼ぶ声があって、シルヴィアは腰を浮かせる。昼餉の用意をすませた母親が娘を呼びにくるところだった。長話に花を咲かせていたことに恥じ入って、あわてて洗濯物をかき集める。
「それじゃあ。ジゼル、パメラ、また」
「ええ、またね」
「収穫祭を楽しみにしているから」
 一月後の祭を前に、人は畑仕事に精を出す。道の脇を通りすぎる馬車の足音に耳を傾けていれば、鼻にはあちこちから漂う昼食のパンの香りがもぐりこむ。せつなく鳴いた腹をたしなめながら、シルヴィアはよいしょと洗濯桶を抱え上げた。

 夕食の片づけを終え、台所の蝋燭を吹き消して、シルヴィアに心の休まる時間が訪れるのはそれからだ。二階の小部屋に身を落ちつけると、ふうと息をつく。民謡の一節を口ずさみながら、シルヴィアは窓から外を眺めていた。そうして夕陽が沈みきるのを見送るひとときこそ、シルヴィアがいっとう好きな時間だった。
 髪をまとめていたリボンをほどく。差し込むあかがね色を透かして、なんの変哲もない栗色の髪も、うっすらときらめいたような気がした。クローディアの元に勤めてからというもの、彼女の髪色にあこがれたことも一度や二度ではない。知らず髪を指に絡めている自分に気づいて、シルヴィアは苦い思いでつばを飲む。夕日はどことなくくすんで見えた。
 比べてしまうのは恥じる自分がいるからだ。異国の青年に何ひとつ伝えられなかったことを思い出して、唇からは自然と溜息が漏れる。長引きかけたそれを止めたのは、眼下を横切った人影だった。
「バジル?」
 カンテラを片手に、少年は早足で歩いていく。シルヴィアは彼を目で追って、向かう先が領主の屋敷であることに気がついた。
 迷って、けっきょく立ち上がる。両親に悟られないように家を抜け出すと、バジルのあとを追いかけた。
 うっそうと生い茂る森の中に、シルヴィアの足元を照らす光源は見当たらない。日が沈みきるや否や、彼女の視界は急激に閉ざされていった。探り探りで橋を渡り、ゆるやかに傾斜を帯びる道をのぼっていく。やっとのことで森を抜けだしたとき、さやかな月の光はシルヴィアの両目を刺した。
 乾いた風にカンテラが揺れる。少年は今まさに踵を返そうとするところだった。
「シルヴィア?」
 バジルはいたく驚いたようすで目をしばたかせた。けれどもそれもつかの間、はっとして背中になにかをかばう。それが手紙であることにも、シルヴィアはすでに気がついていた。
「クローディアお嬢様にご用があったんでしょう」
 すました声で問いかけると、バジルは眉をひそめる。
「だったらなんだよ」
「お嬢様にお手紙を届けて、それで」
「だから……」
「お近づきになりたいって、そう思っているんでしょう」
 バジルの顔を見ることもできなかった。高鳴る心臓を押さえつけようと、シルヴィアは胸元にてのひらを寄せる。血液は耳元でかっと熱を持ち、木々のざわめきさえも遠ざけているようだった。
「私が届けてあげる」
 爪先を握りこんで、シルヴィアは言った。
「ほかの男の子のお願いはみんな断るわ。バジルの言葉と手紙だけをお嬢様に届ける。だから」区切り、自分を奮い立たせるように顔をあげる。「わたしの代わりに手紙を書いてほしいの。昨日わたしを助けてくださったあの方に。……わたしとあなた、共犯者になるのよ」
 小ずるい取引であることは、シルヴィア自身がよくよく自覚していた。しかしそれ以外には青年に言葉を伝える方法が思いつかなかったのだ。夜霧のような瞳をした少年の視線から逃れるように、シルヴィアはゆるゆるとうつむいた。
「おねがい、バジル。あなたにしか頼めないの……」
 呼吸の一つも満足にできないまま、シルヴィアはきゅっとまぶたを閉じる。体全体の感覚は、いつからか舌のそれよりもずっと鋭敏になっているように思われた。
「……シルヴィア。僕は」
 バジルの呼びかけを受けて、シルヴィアは握ったてのひらに力を込める。しかし胸の奥を震えさせるだけの時間が経っても、バジルはただ、かすかな溜息をこぼすだけだった。
「バジル、」
 縋るように読んだ名前に、
「いいよ」
 と少年は、吐息まじりに答えた。
 シルヴィアは弾かれたように顔をあげる。そのとき、バジルの手元に揺れていた炎がにわかにふくれあがった。手紙に燃え移った火は封筒を蝕み、それをみるみるうちに灰に変えて、バジルの指先から振り落とす。散り散りに風に巻き上げられた手紙の残骸を、シルヴィアは呆然と見送っていた。
「これは秘密だ。そうだろう? 僕とシルヴィアだけの秘密。お嬢さまにも、誰にも言わないこと。ぜったいに」
「も、もちろん」
 流れる雲に、月の形は覆い隠される。とろけるようなカンテラの炎だけが、あたりに光をばらまいていた。
「……約束」
 ひとつ、こぼれたシルヴィアの言葉が夜に溶ける。途端くしゃりと歪んだバジルの口元に、本人さえも気付くことはない。
 祈るように秘密をかわした。そのむなしさを、一度として顧みることもしないまま。互いの声に耳を傾けて、心臓の音さえも聞きとろうとするかのように、ただ、ふたりは胸に静寂を飼いならしていた。