カミルが勢いをつけて蹴りつけたのは、小型の飾り棚だった。ガラスで作られた扉が割れ、怯えきった表情の子供がひとり、這いだすようにして逃げ出そうとする。その首元に振り下ろされた刃には寸分の狂いも生じない。いけない、と思う前に体が動いた。
 カミルの背に当て身を食らわせる。刃先がぶれたのは肌に触れる直前だった。よろけた彼が体勢を立て直す前にと剣を握った右手に掴みかかる。目元を赤くした少年が、口もとを震わせて後ずさった。彼の足が小刻みに震えているのは見て取れたが、言葉を選ぶ余裕はなかった。
「逃げなさい! 早く!」
 叫ぶソニアの前で、痛烈な舌打ちが鳴らされる。カミルは体の一振りで乱暴にソニアをふり払うと、先の子供が遠ざかったのを確認して荒く息を吐く。そうして床に倒れ込んだ彼女に切っ先を向けた。
 剣に宿った光と彼の瞳に輝く光は、同じ色。
 呆然と見上げるソニアへと、研ぎ澄まされた刃が振り下ろされ、そして。
「……っ!」
 無意識のうちに息を詰める。しかしいつまでたっても痛みは訪れない。閉じてしまっていた目蓋を、ソニアは恐る恐る開いていく。
 あ、と、小さな声が漏れた。
 青年の背に、右腕に、左腕に。数人の子供たちがしがみつき、動きを封じていた。その中にはロルフとヘレナの姿がある。体の大きな子供たち全員をふり払うには至らないのか、カミルは剣を握りしめたまま、緩慢な動作で腕を振ろうとしていた。
「くそっ、離せガキども! おい!」
「逃げ……っ、逃げて、お姉さん! こんなところで死んじゃ駄目!」
 カミルの声に負けじと、ヘレナがきつく目を閉じたままで叫ぶ。
「何やってんだ姉ちゃん、早く!」
 右腕を押しとどめるロルフが、彼にしがみついた両腕に力を込める。
「……あ、あ」
 選択を迫られた頭が揺れる。
 その命は、守られなければならない命だ。散らしてはいけない命だ。たったひとりのためだけに、失われていいものじゃない。分かりきっているはずだった、けれど彼らによって生を留められたソニアの命は、その意志を無駄にするなと叫び続ける。
 生きろ、生きろ、生きろ。心臓が脈うつたびに、残された生がソニアを急かす。
 動くことも選ぶこともできず、くしゃりと歪んだソニアの顔に、大粒の滴が落ちた。
「………………え、」
 ひたり。こぼれる涙はソニアのものではない。導かれるように見上げた先で、冬空の色の瞳が滴を落としていた。
 甲高い音を立てて、力を失った手から剣が落ちる。はっとしてそれに手を伸ばしたヘレナは、ソニアの表情を見て動きを止めた。迷う様子を見せた彼女にソニアはゆるゆると首を振る。持ち主にそれを拾うだけの力が無いことは、誰の目にも明らかだった。
 子供たちが戸惑いを浮かべながら腕を離す。もうひとりで立つことのできないカミルの体は、支えを失い、ソニアの目の前に膝から崩れ落ちた。
「なん、なんだよ、お前らはさあ……っ」
 赤子のように体を丸め、とめどなく流れる涙をぬぐうこともせず。
 カミルはうなるように、誰へともない問いかけを続ける。
「なにが……なにが違うんだよ。俺とラクス、俺とそいつらの、なにが違うっていうんだ」
「……カミル」
「誰もが生きていけるっていうなら……どうして母さんは、死んだんだよ」
 子供に望みをかけた花嫁は、絶たれた望みに命を散らした。残した怨嗟と無念が残したしこりは、カミルの生を否定した。選ばれなかった子供は、望まれなかった子供は、やがて諦めにその身を浸す。ソニアのように捨ててしまうことも、ロルフたちのように生きることも選べずに。
 遠くから響く、手綱を引かれた馬のいななき。その足音は徐々に近づいてくる。駆ける馬の背から飛び降りたかのように石畳を踏み、灰の髪を揺らして、修道院に闖入者が現れた。磨かれた内壁に手をつくや否や、彼女は目の色を変える。
「ソニア様!?」
 その声に顔を上げなかったのはカミルだけだった。
 散乱する飾り窓と、うずくまるソニアの姿。そして床に落ちた剣。一瞬で事態を把握したらしいエリーゼが、腰の剣を抜き払って言った。
「お下がりください。奴は私が」
「待って、エリーゼ!」
 歩み寄るエリーゼの目には怒りがぎらついていた。腕を掴んで引き止めながら、ソニアはかばうようにカミルの前に立つ。何故、と問う彼女に首を振った。
「お願いします、エリーゼ。……彼には、もう、なにもできないから」
「ソニア様」
 エリーゼは呼びかけ、何ごとか言いかけたが、苛む言葉は声にならなかった。行き場を失くした苛立ちのままに、叩きつけるように剣を鞘へ納める。
 呆然と床を見つめ続けるカミルは、時々思い出したように涙の滴を落とす。その口からはもう恨み言も吐きだされない。きつく噛みしめた唇の端は白く染まっていた。
(望む答えは、あげられない)
 理不尽に声を荒げても、不平等の闇は音もなくそれを呑みこむだろう。無力な人間が立ち向かわなければならないものを、彼はかつて国と呼び、歴史と呼んだ。ソニアがそれを女神のせいにしたように。誰にも変えることの叶わないものであれば、幼い心は慰められたから。
 カミルの前に膝をつく。誰かが息を呑んだ。投げ出されたままの剣は、飾り窓の光を照り返してまだそこにある。
「……身勝手な願いかもしれない。でも、生きて」
 放りだした命に、どうか名前をつけて。
「あなたがあなたでいられる場所を探して……また、笑って」
 虚ろな瞳に光が降った。ゆっくりと目を伏せるカミルを見下ろしたまま、ソニアは立ち上がる。そうしてぐるりと向き直り、剣の柄に手を添えたエリーゼを仰いだ。ソニアの無言の問いかけに答えるべく彼女が口を開く。
「反乱の芽を動かしました。皇帝が不在であるとはいえ、ヴィーネゲルンが揺らぐのはわずかな間でしょう。駐在兵の手が回る前にと、ソニア様をお迎えに……」
 エリーゼはちらと視線を外し、言い淀む。続きは聞かずとも理解できた。
 なりゆきを見守っている子供たちのうち、状況を呑みこめている者は半分といないだろう。修道院に残しておけばふたたび命を狙われないとも限らない。しかし逃げるように言い聞かせたところで、彼らを保護してくれる場所などヴィーネゲルンには存在しないのだ。
 決断を促すように、エリーゼの瞳が向けられる。ソニアは小さく首を振った。
「……わたしはここに、」
「行けよ、姉ちゃん」
 言いきるか言いきらないか、というところで、ロルフが口を挟んだ。きょとんとするソニアに、口角を無理に吊りあげてみせる。
「大丈夫だって。誰かが入ってきたら、またみんなでかかるからさ」
「でも」
「姉ちゃんの居場所は、ここじゃないんだろ?」
 言葉を失うソニアに、ロルフが大きくうなずく。その横では、不安がる子供たちをヘレナがなだめて回っている。大丈夫、大丈夫だよ、と彼らは口々に言い、ソニアに笑いかけていた。
「俺たちはここでしか生きられない。けど、姉ちゃんは違う。それなら行かなきゃだめだ」
「ロル、フ」
 アーシャラフトとメリアンツ、その戦の結末は火を見るより明らかだ。それでも帝国の軍に立ち向かわんとするならば、騎士を率いるアーシャは無論、戦場の中心に立っているのだろう。教会の象徴、女神の守護者として、軍の並ぶ平原も目にすることはかなわないままで。
 ひとり立つことの寂しさを知っている。心許なさもまた。ぐらつく足が大地を踏みしめていられるのは、遠い空の下に必ず立っているだろう彼の姿が目に浮かぶからだった。
 暗闇のなかに産まれたひと。名はラクス。光を灯すひと。周りは光に満ちているのに、彼だけはその光に触れられない。呼ぶ声が無ければ、彼はいつまでも一人だ。
 その名を、呼ぶことができるのは。
「……わたし、は」
 エリーゼが姿勢を正す。強い眼差しが瞳を射抜いた。立つ場所がどこであろうとも、白銀の剣の刃は輝き、持ち手の意思を映すのだろう。
 ソニアはごくりとつばを飲み下し、うなずく。向かう場所はひとつだ。
「連れて行ってください、エリーゼ。ラクスのところへ」
 煙の昇る先には、冬空が待っている。