奇跡の名前
 雑然と、馬蹄を嵌めた馬の足音が天に轟く。青銅の鎧をまとった兵たちは一心に眼前の旗を見つめ、列をなして石畳を踏みしめる。馬が一歩を踏み下ろすたびに、彼らの腰に吊り下げられた剣の鞘が耳障りな音を立てた。ある者は槍を、ある者は弩を。整えられた列に足並みの乱れは見られない。
 第一陣の最後尾が通り過ぎるのを見はからって、ソニアは通りを横切った。第二陣が同じ道にさしかかるのも時間の問題だろう。次々とヴィーネゲルンを出立する軍勢の総力がどれだけのものか、ソニアに見当はつかない。だがひとつだけ明白なのは、アーシャラフトにはそれを防ぎきるほどの戦力が無いということだ。
 走り、辿りついた屋敷の前で、ソニアは荒い息を整えようと深呼吸をくり返す。目の前に屹立する屋敷は、ヴィーネゲルンには珍しい庭園を有している。周囲を見渡しても、立派さでその屋敷に匹敵するような建物は存在しなかった。
 間違いない、ここだ。自らを奮起させ、鋭く息を吐きだした。
 開け放たれたままの門を過ぎ、早足で庭を抜ける。黒塗りの扉を叩くと、やや間をおいて内側から鍵が開けられた。顔をのぞかせた年若い使用人が訝しげにソニアを見やる。
「あの、エリーザベトさんはいらっしゃいますか」
 のんびりしている暇はない。問いかけは前のめりになった。使用人はソニアの服装に不審なものを感じたのか、眉間にうすくしわを寄せる。
「失礼ですが、どちらさまでしょう?」
「ミ――いいえ、ソニアです。どうかエリーザベトさんを呼んでいただけませんか。ソニアの名を出せば、必ず伝わります」
 彼の顔つきが険しくなる。信用に値するかと考えこんでいるのだろうが、それを待っている余裕はソニアにはなかった。お願いしますと頭を下げる。
「時間が無いんです、エリーザベトさんを」
「……お嬢様は、」
「エリーゼに用かい?」
 使用人の言葉を遮るように、ふいに背後から声がかけられた。ぎょっとしてふり返った先には一人の青年がいる。灰の色の髪、瞳、がっしりとした体つき。浮かべる表情に穏やかな色が無ければ、レオンハルトと見間違えても不思議ではないほどによく似ていた。
 親、ではあるまい。弟と呼ぶほど若くもない。彼女たちの兄だろうとあたりをつけた。ソニアがうなずくと、青年は「なるほど」と言ってあごに指を添わせる。
「ならば貴女が例の花嫁殿か。なるほど、確かにお若い。お急ぎでなければお茶などご一緒したいところだが」
「ヘルムート様。持ち場はどうなされたのです」
 低い声で使用人が口を挟む。青年は眉をひそめた。
「おまえは口うるさいなフリッツ。親父に似たのか? 今に禿げるぞ」
「余計なお世話です。それで」
「なに、所用を思い出しただけだ。すぐに戻る。……それと、花嫁殿。残念ながら、エリーゼなら屋敷にはいないぞ」
 えっ、と声を上げると、ヘルムートは肩をすくめた。
「それどころか、もう二度と戻っては来ないだろう。あいつは先ほど家出したばかりだ」
「は、いっ、家出、ですか?」
 聞き違えたかとも思ったが、彼は簡単にうなずいてしまう。
 どうやらレオンハルトやエリーゼの生真面目さは、兄妹全員にあてはまるものではないらしい。一家の一員が家を出て、怒るでも焦るでもなく平然とした顔をしているのでは。
「どこに行ったか、俺には見当もつかないが……まあなんにせよ、貴女はこんなところに居るべきじゃない」
「……それは、どういうことですか?」
「もう事は起こっているということだ」
 ふと厳しい顔をして、ヘルムートは背後の空を見る。つられてソニアが視線を上げると、そこにはもうもうと煙が立ちあがっていた。続いて鼻に入った焦げ臭さに顔をしかめる。小火かと結論付けて戻そうとした視界のうちで、ひとつ、またひとつと、煙の本数は増えていく。
 放火だ。それもひとりによるものではない。顔を右に向ければ、遠くにも火の手が上がっているのが見て取れた。
「あれは……」
「反乱の手だろう。それも、極めて大々的な」
 真っ青な顔で空を見つめる使用人をよそに、ヘルムートはげんなりとした表情で剣の柄に手を置いていた。
 チェルハはメリアンツに武人を輩出する家だ。その一員でありながらヘルムートがヴィーネゲルンに留まっているのは、町への駐留の任を負っているためだろう。国の戦力を注いで遠征をおこなう手前、手薄になった本国に攻め入られては元も子もない。
「まったく、本当に大事を起こしてくれる」
 ヘルムートは嘆息し、ソニアに向き直った。
「今一度言おう。花嫁殿、貴女は修道院にお戻りなさい。この状況下であらぬ疑いがかけられては困る。……貴女も、チェルハもだ」
 ソニアは逡巡した後に首肯する。残してきた子供たち全員の安否が胸にのしかかっていた。次々と立ちあがる煙が、次にいつ修道院から昇るかも知れたものではない。ヘルムートは「よろしい」と口だけで笑う。
「最後に一つ。……誓って言おう。エリーゼは、決して貴女を裏切らない。あれは愚直な女だ。あまりに誠実すぎて、この国では生きにくかったほどに」
 なにを、と問うことは許されなかった。立ち位置を入れ替わるようにして、通り過ぎざまにヘルムートがソニアの肩を押したからだ。
「出来の悪い妹を頼むよ、お嬢さん」
 彼は背中越しにひらひらと片手を振りながら、使用人を伴って屋敷のなかに消えていく。ぎいと扉が閉められる音でソニアは我に返った。
 踵を返して門を抜ける。煙が目にしみるのをこらえ、石畳を蹴った。
 アーシャラフトへ向かう兵軍はすでにヴィーネゲルンを出たのか、もう馬蹄の音は聞こえない。町中を駆けるソニアの耳に入るのは、火花のはじける音と町民たちのどよめきだ。がなりたてる巡回兵がソニアと逆方向に走り去る。
 やけに放火の手際がいいのは、誰かが指揮を取っているためだろう。ここは反乱因子に事欠かない国だ。小さな火花さえあれば一斉に燃え上がる。だからこそ厳しい監視の目が張り巡らされているのだ。きっかけとなり得る被征服民たちも、男性は鉱山へ、女性たちは農作業へと引き立てられ、反抗の芽が起こらないほどの条件下で働かされている。
 一体、誰が。何のために。
 心当たりがないわけではない。だからこそ恐ろしかった。そのしっぺ返しが向けられるのは、力ない者たちだ。
 ばくばくと高鳴る胸を抑えて、開かれていた修道院の扉に手をかける。出るときには閉めてきたはず、と血の気の引く思いがした。
「――みんな!」
 中に踏み入れた瞬間、息を呑む。
 礼拝堂の中心に、ひとり佇む青年の姿。金色の髪とその背格好には覚えがあった。しかしその右手に握られているのは小型の剣だ。見慣れた姿の見慣れない出で立ちに、ソニアは続く言葉を失う。彼はぐるりとふり返り、ああ、と見当はずれな声を上げた。
「遅かったな」
「みんなは……子供たちはどこなの」
 薄い剣の刃に汚れはない。それだけで遠のきそうになった意識をなんとか強く保った。カミルは無言で首を左右させる。
「これから探すところだ。たち、って言うからには、前に連れてた子供だけじゃないみたいだな?」
 そりゃ結構、と呟いて、今度は修道院に置かれた調度のひとつひとつを注視する。子供たちの気配がしないのは、修道院に入りこんできたカミルの姿に危機を感じて隠れたからだろう。
 ソニアが修道院にロルフとヘレナを残してきたのは、それまでしてきたように子供たちに指示を出させるためだった。それが功を奏したのか、考えうる限りの最悪の状況は免れているらしい。
「……なにをするつもり?」
 慎重に問う。カミルは視線の動きを止めることもないままで答えた。
「今ヴィーネゲルンに何が起きているかぐらい、あんたにも分かるだろ? 反乱の主力は被征服民だ。ここにいる子供の親父やお袋がいるかもしれない。……いなかったらいなかったで構わないけどな」
「子供たちを、人質にするつもりなの」
 そこに至ってカミルは肩をすくめた。ソニアの目を見据え、首を振る。
「人質、じゃないよ。見せしめだ」
 ソニアの呼吸が止まる。彼の持つ剣の刃がぎらりと光った気がした。言うべきことは言ったとばかりに、カミルはかつんと修道院の床を踏む。
 誰に対して使えるかもわからない人質を用いるより、反乱の気力をそぐ方がよほど有効だと判断したのだ。戦場に出た皇帝が反乱に気付くには早すぎる、ならばそれを思いついたのは、他でもない彼自身。
「カミル、どうして」
「どうして? ……あのさあ」深いため息のあとに、カミルはふたたびソニアに顔を向ける。「お前は、これ以上どうしようっていうんだ。身を削って、世話をして、そのあとは? いつかこいつらが働いて、あんたのために金を稼いでくれるのか? それまでに何年かかる? ……あんたが救おうとしているのは、生きる意味もない奴らなんだ。放っておけばのたれ死ぬ、それが早いか遅いか、それだけのことじゃないか」
 ぶっきらぼうなもの言いに嘲笑と焦燥が混じった。なだめすかす形を取りながら、その実、彼の言葉は空を切る。行き場を失って宙ぶらりんになった嘲りが向かう先は彼自身だ。緊張に揺らぐ視界を意志で保ち、ソニアは皇帝の別れ際の言葉を思い出す。
 ――それの母親は、息子がアーシャにはなれぬと知るや命を絶った。
 かつてアーシャラフトに産み落とされたのは、アーシャであることだけを望まれた命だった。歳の離れたアーシャを愛することもなくメリアンツへと渡った花嫁が、せめてもの願いをかけるようにして異国の地で育てた子供。彼が次代のアーシャとなることは、生まれながらに決まっていた。
 遠縁にいたはずのラクスが、天の耳と盲目をその身に宿すまでは。
(カミルも、同じだ)
 生を望まれぬ赤子。意味を失くした命。やがて理由を探すことも諦めた、一人のこども。凝り固まった諦めは、身にこびりついたままでいつまでも離れない。
 ならば。だからこそ。彼に子供たちを、殺させてはいけない。
 なぜなら、その子たちは。
「……生きる意味なんて、いらないの。いらなかったのよ」
 カミルが目を瞠る。
 女神など信じていない。そう少年は言った。誰も救ってはくれなかったからと。その小さな命は、女神を必要としなかった。
(わたしたちが女神さまを求めるのは――負けてしまいそうな自分を、託すため)
 ソニアには無かったもの。カミルには見つからなかったもの。その答えを、彼らは、彼女らは、探すまでもなく抱えていた。抱えて生きた。這いずってでも生きようとした。過去を怨んでも、未来を見ずとも、ただひたすらに生き続けてきた。
 彼らの名は、希望。
 託されずとも、握りしめたこどもたち。
「――その子たちは生きていく。誰にも邪魔をされずに、生きていくのよ、カミル!」
 瞬間、耳を殴るような音が轟いた。