とぷり、と。意識を体から振り落とすとき、イチカは水面に潜り込む光景を思い浮かべる。真白の部屋から濃紺の世界へと落下する恐怖を、いかにコントロールするかと考えた末にたどり着いた術だ。事実、そうしてのぞき込んだ都市情報の数々は、日を宿した泡のように、いくつもの光の群れとなってイチカの前に立ち現れてくるのだった。
沈みながら、探す――複雑に絡み合った都市機能の、どれを削ぎ落として分け与えることができるのか。都市そのものに悪影響を与えることのないように、巨大な結び目を手探りでほどいていく行程は、ひどく地道で途方もない。けれどもいつか訪れる終わりを見据えて、イチカはアクエスに向かっていく。
――イチカ。
(うん?)
声の反響が来客を伝えたので、イチカは手に取った都市の欠片をひとまず残し、水面へと浮かび上がっていく。本来泳ぎ方を知らないイチカであるが、アクエスの内側、こと白い部屋から潜る水底において、彼女の意識は自由だった。
「珍しい。早いじゃない」
椅子に腰かけたREBの体に戻り、目を開くなり声をかける。視界に飛び込んできたものは、まず白塗りの壁と天井、床、続いて部屋の中央に立っていたエイトの姿。さらに小型のベッドや簡易な衣類入れ、机――その上に放られている端末は、夜七時の十分前を報せるアラームを鳴らしていた。以前は壁に囲われたのみの空間に過ぎなかった一部屋も、今やイチカの私物であふれかえっている。
長くアクエスに潜っていたためだろう、喉にはべたつく感覚があった。エイトの差し出した水を口に含み、イチカは背もたれから体を起こす。
「いつもなら七時ちょうどに来るのに。なにかあったの」
「お迎えの人がいつもと違ったんです。いつになく話が弾んで、急がないと間に合わないなと思っていたら、逆に早く来すぎてしまって」
「ふうん。……女の人?」
それとなく差し向けた不安も、軽々と見抜かれてしまっているに違いなかった。エイトは「いいえ」と笑う。
「男の人ですよ。とびきり家族思いの。今度紹介します、気が合うだろうから」
「いいわよ、別に……」
企みごとをしているときの彼は、いっそ不自然なほどに涼やかな笑顔を見せるのだった。イチカは立ち上がり、端末を手に取ると、エイトの荷物に顔を向ける。「それで」とつれない声を装った。
「今日のお役目は?」
「はい、今用意します」
透明な袋に詰め込まれた皿の山を、エイトがひとつひとつ机に並べていく。そのうちのひとつを指してイチカは目をしばたかせた。野菜や貝類の混じった米であることには見当がついても、米そのものがうっすらと赤みを帯びているのは不可解だ。
どうぞ、と勧められるので、スプーンですくって口に投げ込む。甘みののち、やわらかな酸味が舌の上で広がった。ほうと息をついてしまってから、イチカは慌てて口の中のものを飲み込む。エイトはその姿をにこやかに見つめていた。
「野菜単体で出したときに酸っぱい顔をされたから、いっそ米と一緒に炒めてみようと思ったんです。それ単体で味があるし、卵なんかで包んでみてもおいしいかもしれない」
「……い、いいんじゃない」
「今度試してみます」
着々とスプーンを動かすイチカの傍らで、エイトは机に頬杖をついて微笑んでいる。皿の上の料理が空になったころ、彼は部屋を見渡して問いかけた。
「まだイチカが手を離すには時間がかかりそうですか」
スプーンを置いて、イチカは「そうね」と息をつく。
「上下層の関係も関わってくるから、単純に都市機能を山分けしていけばいいってわけじゃないの。都市そのものがこんがらがっているっていうのに、人同士でまた絡み合っているんだから。父さんも相変わらず頑固だし」
「そう簡単にはいかない、か……」
エイトは皿を集めながら重々しく呟く。その声がいつになく暗いものをはらんでいるので、イチカは思わず身を縮めた。
上層での誘拐騒ぎに関与したうえ、上層議員の恐喝行為を行った下層のテロリスト。それがエイトの背負わされた肩書だった。自分の反論が“大樹”の人間の前では力を持たなかったことを、イチカは苦々しく思い出す。
通常であれば禁固刑に処されるところであるが、彼に表立って刑罰を与えようものなら、上層の抱えた事情が浮き彫りになる。彼らは悩んだ末、エイトを手元で働かせることを選んだ。都市を預かるイチカの心身を併せた健康状態の管理、平たく言えば食事の給仕――すなわち警察官の厳重な監視のもと、イチカの日々の食事を届ける役割を与えたのだ。
「ごめんなさい、毎日毎日。学校もあるのに大変でしょう」
謝ってしまった途端、エイトの顔が見られなくなる。胸に染みついた臆病心は、どうやら行き場を失ったままであるらしかった。
エイトは小さく息をついて、片付けの手を止める。
「俺がここにいるのは、俺が望んだからです。学校に行くことも、上層で働くことも、最後に決めたのは俺自身でした。いったいどうして謝られる必要があるんです? イチカの傍にいられることが、俺にとって何より幸せなことなのに」
「し……あわせ、って。そんな、大げさな」
「どうとでも受け取ってください、嘘は言っていないつもりだから」
ぐ、と言葉を詰まらせて、イチカはついと目を逸らす。
もてあそぶような嘘の数々がなりを潜めた一方で、しかしエイトは臆面もなく、同じ言葉を本心から口にするようになったのだ。イチカもイチカで彼の想いを一度受け止めてしまった以上、もはや嘘だ出まかせだと聞かぬふりを通すこともできない。
(前より性質が悪いじゃない……)
イチカはむうと唇を尖らせる。懸命に頭を働かせて、方向転換の手段を探り出した。
「アクエスはどうしたの。昨日あなたにひっついて、外を見に行ったみたいだけど?」
「鬱陶しかったから上層に置いてきました。俺の端末までのっとって、イチカに会いたいと騒いだので」
「……邪険にするわね、あなたも」
「優しくできるほうがおかしいんですよ。イチカの体を奪おうとした相手なのに」
そうかしら、とイチカは首を傾ける。
蝶の形を手に入れた人工知能は、願ったものではない体にもそこそこの満足を得ているようだった。小回りが効くと言って飛び回ってはエイトをからかい、イチカに縋り付いては、自由気ままに都市と中枢を行き来する生活を送っている。
イチカは机から身を離すと、ううんと曖昧に笑ってみせた。
「あの子の寂しさも、分かるような気がするからかもしれない。……もしくは単に話し相手になってくれるのが嬉しいからかもしれないわね。私よりもずっと長く生きているのに、無邪気に懐いてくれるんだもの。子供ってこんな感じなのかもって」
「子供……」
「そう、子供。あまり接したことがないから」
「――欲しいなら、」
そう、エイトが呟くのが聞こえた。しかしイチカが聞き返す間もなく、彼はすぐに首を振って自分の言葉を打ち消す。ごまかすように笑って言った。
「さすがに早かったですね。その場の勢いで話すことでもないし」
「なに、どういうこと」
「もう少し待っていてください、ってことです」
空になった皿を袋に詰め直して、エイトはおもむろに立ち上がる。ちょっと、なにが言いたかったの、と追いすがったイチカに、彼はしばらく考え込む様子を見せたのち、思い出したふうを装って口を開いた。
「この役目のほかに、もうひとつ仕事を渡してもらえているんです。“大樹”の雑用で、そちらからは一応お金を頂けていて」
「話をそらさないで。それとこれとに何の関係があるの」
「だから、……何年後になるかわからないけど、渡したいものがあるので。それまではこの話も保留にしておいてください」
以降は口をつぐんでしまう。なおも顔面に不満を浮かべたままのイチカを見下ろし、エイトは仕方ないとばかりに首を振った。ずい、と前触れもなく一歩を踏み出して、うろたえたイチカの頬に手を添える。
露わにされた額に、かすめるように、熱。
遠のく彼の唇を、イチカは呼吸を止めて見送った。
「今日のところは勘弁してください。ね、イチカ」
「なん……っ」
イチカの端末が、八時を指して鳴り響く。見ればエイトの足元は波紋のように揺らいでいた。一日のうち朝に一時間、夜に一時間が、“大樹”からふたりに与えられたひとときだ。
言葉にならない声を漏らすイチカから、エイトはあっさりと身を引いた。
「大丈夫ですよ。明日も、明後日も、俺はここにいます。今を積み重ねていけば、きっとすぐにそのときは来るから」
――だから待っていて、と言い残す。
約束の先にある未来を――と。
かき消えるように部屋を去ったエイトを、イチカは何も言えないままで見送った。そうしてようやく、遅れて冷静さを取り戻した思考は、少しずつ彼の言葉に意味を与えていく。足を支えていられるだけの力も失って、ふらりとその場にしゃがみ込んだ。
子供。渡したいもの。保留――反芻し、イチカは膝に顔をうずめる。あとからやってくる熱が、耳に首筋にと滞ってやまなかった。
わなわなと肩を震わせ、呟く。
「……だいっきらいよ。ばか」
どこからか、ここにはいない彼女の笑声を聞いた気がした。イチカは唸り声をあげて身を揺する。混濁した意識では、アクエスの中に戻っていくこともできそうになかった。きつく目蓋を閉じてしまっても、額をよぎった熱の痕跡ばかりが蘇る。
そうしてひとつ、渡せない、と思う。
都市にも、別の誰かにも。この熱だけは渡せない。
眼裏に空を、広がる海を、思い描いては抱きしめる。空と海の間に建つ都市こそイチカの在り処――どこにも行けなかった子供たちが、作り替えていく未来の足元だ。
水上都市アクエス。それは果てない願いを抱いた地。
空を臨んだ青の中に、イチカはいる。