Chapter7 リバース
 雑踏の足音は波の音に似ていた。ひとつひとつの歩みを聞き分けるには、音の群れはあまりにも雑然としすぎている。かれらは暴力じみたノイズと化して、エイトの鼓膜を執拗に叩いては過ぎ去っていく。
 それに押し流されていくことを、かつてのエイトは束の間の安らぎと見做していた。都市は自分の存在をものともせずに回り続けること、自分がもの言わぬ大衆のひとりに過ぎないことにひどく安心し、そのまま揉まれて消え失せてしまうことを望んでさえいた。逃げ出すようにして家を出て、そして行くあてもなくさまよい続けるだけの日々を送っていたのもそのせいだ。流されるまま歩き続ければ、きっとどこでもない場所にたどり着けるだろうと――そんなことを考えて、歩んで、けれども最後の最後に二つの足は、予定調和のごとく家への帰路を選ぶのだった。
 逃げ場などないと決めつけた幼い日、確か頭上に広がっていたのは、天という名の深い穴だった。絶望を知った気になって、淀んだ瞳に青の都市を映したところで、いったいそこになにが見えたというのだろう。
 幼かった、と振り返る。いくばくかの羞恥を苦笑にこめて。自分が目を向けるべきだったのは、もっと違うものだった。
 たとえば足元の海。漏れ出した光。
 あの頃も変わらず、澄んで美しかったはずの水底――。



 鈴を転がすような少女たちの笑声が、空いたままの耳に響いてくる。授業終わりの学びの庭、人目を離れた校舎の脇で、エイトは耳に携帯端末を押し当てていた。
「うん、だから、今度はふたりで。そう、また会いに行くから……そんな理由じゃないって、ただ話をする機会でもあればと思っただけで」
 端末を通して伝わってくるのは、相も変わらず頑なな父親の声だ。エイトは絶えず苦笑を漏らしながら、かつてよりずっと楽になった彼との対話に臨んでいた。
 下層市民の上層移住から一週間ほどが過ぎようとしている。それぞれに仮の住まいを得た下層市民たちは、いまだ怯えるようにして日々を送っていた。時折起こる小競り合いには幾度となく警察の出動が行われたものの、幸い死傷者が出るほどの暴力沙汰に発展するような事態は起こっていないという。下層の排水が済むまでの間、膠着した現状を軟化させることが課題とされていた。
「俺は……前とほとんど変わらないよ。学校にも行かせてもらっているし、これで文句なんか言ったら罰当たりだ」
『毎日毎日見張られているんだろう。ただ働きまでさせられて。首輪を付けられたようなもんじゃねえか』
「檻に入れられるよりずっと幸せだと思うけど。仕事も俺が望んでしていることで……見張られるって言っても、学校の行き帰りに付き添われているだけだし。むしろ毎日車で迎えに来てもらっているんだから、こっちとしてはありがたいくらいだよ」
 地面に向けられていたエイトの目に、長い影が飛び込んでくる。顔を上げた先に男が一人立っているのを認めると、エイトは彼に小さく会釈をした。
「時間みたいだ。それじゃあ」
『おい、エイト』
「また連絡するよ。心配しなくても、こっちは元気でやっているから……」
 言いきることも許されないまま、一方的に通話が切られる。誰が心配なんかと怒鳴り声を上げているのが目に見えるようだった。エイトは肩をすくめ、端末の画面を落とすと、それをポケットに差し入れた。
 黙って待っていた男――レイシを見上げ、もう一度目礼する。
「警視がいらっしゃるとは思いませんでした。いつもの方は?」
「今日は非番だ。……俺も非番だが」
 もののついでだと添えて先に立つ。レイシがエイトを導いたのは、高等学校の駐車場に停められた小さな警察車両の前だった。二人を乗せて、車は都市の道路へと進み出す。
 夕空を背景に、ビル群は大小の影を落としている。窓硝子に映り込んだ茜色のまだらを眺めるだけの時間がしばらく続き、エイトはちらりと運転席のレイシを見やった。行く先に視線を定めているように見せて、彼の目ははるか彼方に向けられている。そもそも自動操縦の車は彼の手など必要としていないのだ。
 揃いも揃って口下手な家族だ、とエイトは胸中でため息をつく。両親のことを考えればあながち他人事とも言いきれなかった。
「もののついでというのは?」
 仕方なしに助け舟を出す。レイシは渋る気配を見せたものの、ややあって重い口を開いた。
「……イチカの様子はどうだ」
「様子と言われても。署に報告が入れられているはずでは?」
「俺のもとには回ってこない。担当部署と上層部の間で処理されて終わりだ」
 なるほどと相槌を打って、エイトは運転席の後頭部を見つめる。妹の無事を伺うため、エイトの監視を担う警官に無理を通させたのだろう。規律に厳しいようでいて横暴を働くのがレイシという男であるらしい、と気付かされたのは、何もここ数日のことではない。
 かといって妹と直に連絡を取るような真似もできなかったのだ。そこに至って漏れかけた微笑みを押し隠し、エイトは平然とした顔を保つことに専念する。
「元気ですよ。都市中枢に布団から何から運び込んで、すっかり自分の部屋にしてしまって」
「不満は」
「なさそうだ、とは言えませんが……あと一週間もすれば外出できる程度には落ち着くようで、それまでは頑張るそうです」
「そうか」
 自分で尋ねておいて、興味の一端も示していないふりをする。それが彼だと悟ってしまえば責める気力も怒らなかった。エイトは窓外の景色に顔を向けて、流れゆく街並みを眺めやった。
 初めて上層を訪れた日から、変わらないままの景色がそこにある。群衆は依然波のようにそぞろ歩き、エイトの目を攪乱した。外殻を取り巻く人々は、自らの足元に蠢いていた都市の心臓が形を変えたことも――それどころか都市に心臓が存在していたことさえも、決して知ることのないままで地を踏みつけてゆくのだろう。
 夕景から顔を逸らし、エイトは瞑目する。段差を乗り越えた車が小さく揺れた。
 かつてアクエスと呼ばれた人工生命が役目を譲ったのが一週間前のこと。その波紋は、上層下層を問わずに起こった一斉停電となって現れた。上層議会によって原因のうやむやにされた停電の陰、都市は新たな管理者のもとで、システムの再起動を行っていたのだ。
 都市の中枢機能の管理権限は、今やひとりの少女に受け継がれている。しかし彼女はそれを自分ひとりで抱え込むことをよしとしなかった。生まれ変わった都市アクエスは、今度こそ人の手に託されるべきだと判断したのだ。膨大な都市機構を、上下層の技師に委任する形で分割していく終わりの見えない作業――その果てに、彼らを分かつ境界を取り払う。彼女が選び取ったのはそんな未来だった。
 エイトは目蓋を開く。途端、洪水のような光が目を焼いた。
 都市の“かたち”は変わらない。しかしそこに宿った”意味“は、海の奥底で密かに抱かれていた願いは、確かに変わっていこうとしていた。かれらはやがて”かたち“さえも淘汰して、都市のすべてを変貌させていくのだろう。

 ――アクエス。再び目覚めた青い都市。呼吸を選んだひとびとの世界。
 この都市は、少しだけ住みにくくなった。