「その話、俺も聞かせてもらいたいな」

 花々の中空に満ちた無音を新たな足音が踏みにじる。はっとして背後を見ると、ウィゼルよりも頭一つは優に背の高い青年が立っていた。緊張と興奮のあいだに均衡を保った表情で、しゃがみ込んだままのふたりを見下ろす。胸の位置ほどに掲げられた手が握りこんでいるのは継力式の拳銃だ。
「……レナード、ヘルツ」
 ウィゼルが忌々しげに言い、立ち上がる。青年は肩をすくめた。
「はいはい、きみたちの嫌いなレナードさんだ」
 茶化すように笑うが、ウィゼルの心臓を狙った銃口は一度としてぶれない。身を固くしたウィゼルに対し、レナードは至って気楽な口調で語りかける。
「きみが何をするつもりなのか、そして何を知っているのか。その程度までは知らないが、どうやらそれは俺たちが求めていることに一致するらしい。ウィゼル・レイ、俺はその名前に聞き覚えがあるからな」
「ありふれた名前だろ」
「その通り、ありふれている。でもそれはここじゃない。俺の故郷、ユークシアでの話だ」
 当然だ、とアネットは思う。ふたりはもともとユークシアの生まれなのだから。両親が生粋のユークシア人であれば、ウィゼルが凡庸な名前をつけられてもおかしなことはない。むっとしたままウィゼルが言い返すのを待ったが、彼女の期待に反して彼は口を開こうとしなかった。その反応に何を見て取ったか、レナードは大げさに溜息をつく。
「まったく、俺の十年を返してほしいところだな。ユークシアじゅうを探しても尻尾すら掴めないと思ったら、まさかパーセルに逃げ込んでいるとはね。子供二人でよく頑張ったもんだ……と、まあ、おちょくるのもこのあたりにしておこうか」
 背筋を走った怖気に押され、アネットは飛びのくようにして立ち上がる。レナードは彼女からは興味を失っているのか、小さく鼻で笑うのみで牽制を入れることはしなかった。
「まずはきみが何をしようとしているのか、だ。十年前の事件、まさかきみと無関係だとは言わないな?」
「何をしようとしているのか、だって? そんなの決まってるじゃないか。……復讐だよ」
 銃口をにらみつけ、しかし怯えることもなく不遜な態度を見せる。その目は憎悪にぎらついていた。
 ぞくりとするほどの冷徹、そして激情。別人のようなその声にアネットは呆然として立ちすくむ。ウィゼルという皮一枚を隔てたその内側に、触れるものを誰彼構わず焼きつくさんとする炎が燃えたぎっているような錯覚を覚えた。
「逃がさない。ウォルター・グライド、あいつだけは。平和な牢獄なんかで、のうのうと暮らさせてたまるもんか。改心なんかさせない――殺すんだ。僕が、この手で」
 レナードはそれを聞くと鼻を鳴らす。呆れたように首を傾けた。
「そこにいるきみのお姉さんも子供だと思ったが、きみも大概だな」
「姉さんなんかじゃない」
「ふむ、なるほど? それでも……いや、だからこそ、きみは何も知らない彼女を置いていくわけだ。自分の抱えた災禍に巻きこみたくないからか? 平和なところで、なにも知らずに過ごせと言う。傲慢もいいところだ」
「……うるさい」
 ウィゼルの声が固くなる。小さく跳ねた彼の指先が自分の腰元に向かうのに、レナードが気付いていないはずもないだろう。しかし彼は眉を動かすのみで、ウィゼルを止めようとはしない。
「きみは優しいな。積もり積もった自分の怨嗟を果たそうとする癖に、自分の大切なものを壊されることには耐えられない。どうしても手放せないんだろう。自分の良心だけをそこに残しておけば、最後の一線だけは踏み越えずにいられると思っている。――だから甘いんだよ」
 断言しようか、とレナードは笑う。
「きみには殺せない。追い詰めたところでしくじるだけだ。恐ろしいなら復讐なんてやめておけ」
 かちゃり、という音がした。ウィゼルが継力銃を構え、安全装置を解除した音だ。銃身はぎらりと光り、持ち主の心を代弁してか微かに揺れていた。
「前に使った銃じゃないのは、僕を見くびったからか? ……甘いのはどっちだよ、お巡りさん」
 引き金が引かれる。ふり向いたアネットの視界を閃光が埋めつくし、息を飲む間もなく鼓膜に強い衝撃を受けた。三半規管を揺らされて体がふらつく。
 光に呑まれる直前に見たものは、叱られた子供のような顔をした少年だった。



「おーい、大丈夫か、起きろ」
 頬を叩かれている。それどころか思いつく端から打撃を加えられているようだった。肩、頭を二度ずつ叩いた掌がまた頬に戻ってきたところで、アネットは虫を払うようにしてそれを叩き返した。
 ぱちぱちと瞬きをくり返す。初めは眩んでいた視界も、少しずつ鮮明さを取り戻していった。継力銃によって意識を失わされていたのだろう、ウィゼルが引き金を引いた直後からの記憶が無い。とはいえ空の暗さを鑑みれば、気絶していたのもあまり長い時間ではないようだった。
 倒れ込んだらしいアネットの背は何者かによって抱えられていたが、下半身は花畑の上に投げ出されたままだ。耳鳴りが止むのを待って、首を動かして頭上を仰ぐ。反転したレナードの顔が目の前にあった。
「……な、ちょっと、離れてください!」
 がむしゃらに体を動かしたが、彼は突き飛ばされてよろめくどころか、面倒そうな顔で距離を取った。その胸に寄りかかっていた形のアネットは、ずるりと落とされて花畑に頭を打ち付けることになる。涙をにじませながら起き上がった彼女を見て、レナードは愉しそうに目を細めた。
「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたがここまで馬鹿か。さて、頭を打って正気に戻ったかな」
「うる、さい…………あっ」
 弾かれたように周囲を見回したが、そこには一面にナシュバの花が咲き誇っているばかりだ。自分とレナードの他に人の気配はない。
 ――今度こそ、本当に、ウィゼルはいなくなったのだ。
 すとんと胸に理解が落ちたが、不思議と衝撃は感じなかった。意識を失くす前に、度を超えた驚愕を与えられてしまったせいだ。凪いだ心で光の移ろいを眺めていたアネットに「おい」と無遠慮に声をかけるのは、やはりレナード以外に存在しなかった。
「俺はユークシアに戻るが」
 そこで言葉を切り、数秒後「きみはどうする」と問いかける。
 アネットは黙っていた。遠くを見ても、まだパーセルの家々に明かりは灯っていない。随分と長い間の出来事のように感じたが、中天にあった月はまだ山の端に沈んですらいなかった。家に戻って、いつものようにベッドにもぐりこんだなら、少々寝不足気味だとはいえ、何ごともなかったかのように新しい一日を迎えることができるのだろう。いつかは学校が始まり、忙しい日々が戻ってくる。
 けれどそこに、彼はいない。
 繋ぐものは無くなった。たぐり寄せる糸もまた。待っていても帰らないことが分かったのなら十分だ。
「ウィズを探します」
 そう、口に出していた。
「腹が立っているんです。何もかもわかったふうな顔で、自分ひとりで生きてきた気になって、言いたいことだけ言っていい気になってる。そんなの許さない」
 まるで懐かしむかのような顔でアネットを見た。それが何より腹立たしかった。
「自己完結なんかさせてやらない。帰ってくる気が無いなら、首根っこ引っ掴んででも連れ戻す」
 そうして教えてやらねばならない。彼の家がここにあることを。
「私は彼の――姉ですから」
 拳を固く握りしめたアネットは、レナードに強い視線を向ける。
 呆気に取られていた彼が、ついにこらえられなくなったとばかりに笑いだした。隠し持っていた手帳を開くと流れるようにサインを残し、そのページをちぎってアネットに手渡した。意外に整った字と彼を見比べたアネットに、にやりと口の端を吊り上げて見せる。
「その気があるなら、またユークシアへおいで。俺は思う存分きみを利用させてもらう。代わりに、きみも好きなだけ俺たちを利用すればいい」
 あえて酷薄な言葉を選んだ彼をねめつけて、アネットはその紙を握りこむ。――これは切符だ。しかしパーセルを捨てるためのものではない。探し人を見つけ、戻ってくるための往復券。
 ユークシアの警察という権力を用いれば、視界も、行動範囲も広がるだろう。手の届かない場所へと消えていく彼を負うならば、自分も相応の力を得なければならない。
「逃がさない」
 たとえ何日、何ヶ月、何年経とうとも。あなたを必ず、見つけだしてみせる。
 舞いあがったナシュバの花粉が、アネットの瞳に光を与えていた。