濁流が押し寄せる。そこにたしかな、暴力の形を伴って。
シルヴィアが六つの子供のころから、エリューヌ川の名前をちらりとでも冠した記憶がよいものであったためしがなかった。いつもならくるぶしまでを濡らすだけの小川、さりとて山道の途中に大きく谷を作ってみせたその小川は、大雨の翌日にぐんと水位を上げるからだ。水のつぶてはときにふもとの農村まで流れ出し、人々が汗水を流して耕した畑を、一夜で水浸しにしてしまうことさえあるのだった。
領主の館から農村へと続く小道の途中にあるその支流を、仕事帰りのシルヴィアはそれでも渡らなければならなかった――週に一度の休日の前夜、農村へと続くながい坂道こそが、彼女のゆくべき帰路である以上は。そうでなくてもただでさえ気のはやる夜道、さらにその日は偶然帰りが遅くなったものだから、シルヴィアの頭は昨晩の雨のことからすっかり逸れてしまっていた。
ゆえに、橋を渡りきろうとした直後。布靴が滑ったのをあっと思う暇もない。
気付いたときにはシルヴィアの体は川の中にあった。必死で空気を求めたところで、口はにごった水を飲む。次第に意識は遠くなっていった。
――死ぬのだ、と思った。
聞けば、死の直前には走馬灯を見るという。けれどもそのときシルヴィアの目の前をよぎったものは、ただよどみなく流れる水と、顔を撫ぜる水草、栗色の髪を留めていた赤いリボンばかりだった。
ああこんなにもあっけなく、死は自分という命をつみ取っていくのだ。誰に気付かれることもなく、誰にも助けを呼べないままで。塗りつぶされていく視界のなかでそう思ったとき、ぷつりと途切れかけたシルヴィアの意識は、ふいの大声に繋がれた。
「――!」
シルヴィアを担ぎあげた青年が、腕の中の彼女になにごとか語りかけている。
はじめ、それを聞きとることができなかったのは、自分の頭が混乱しているからなのだろうとシルヴィアは考えていた。なにしろ自分の身に何が起こっていたのかさえも、当の彼女にはよく理解できていなかったのだ。
しかし川から引き上げられてしばらく経っても、彼の言葉は一向に意味を取ってくれないままだった。「あの」と、なおも懸命に紡がれる青年のことばを、シルヴィアは一抹の申し訳なさに苛まれながら遮る。
蜂蜜をとろりとこぼしたような、くせのついた金髪。その下から夏栗鼠の毛皮の色をした瞳がシルヴィアをのぞきこんだ。きょとんとした表情は、精悍な顔立ちにわずかな親しみやすさを添えている。ついそれに見入ってしまってから、シルヴィアははっと我に返った。
「あ、ありがとうございます。ほんとうに……なにかお礼を」
それに応えて、彼が曖昧に笑ったことだけは理解できた。しかし青年の口から吐き出されるのは、村育ちのシルヴィアでは聞いたこともない異国の言葉だ。
「ええと、あの」
せめて礼を、と両手を上下させるシルヴィアを、青年はぎこちなく笑んだままで見下ろしている。シルヴィアがいたたまれなくなってきたころに、ざわりと木立をかき分ける音がした。
「シルヴィア……?」
顔をのぞかせた少年は、ずぶぬれのシルヴィアを認めてぎょっと目を剥いた。
「なんだよそれ。まさか、川に落ちたんじゃ」
「バジル、そうなの。それはいいんだけどね」
「よくないよ! なにをやってるんだ、いつもいつもそうやって――」
注意が散漫なんだ、なにもないところでつんのめるし、前を見なから木にぶつかるし、そのリボンだってすぐになくしかけるじゃないか、だいたいシルヴィアは。続く小言を片手で追い払って、シルヴィアは「いいから!」と声を張り上げる。
「確かに川には落ちたけど、こちらの方に助けていただいたの。でもことばが通じなくて」
「ことば?」
眉をひそめ、バジルは無遠慮に青年をねめつける。上から下までをじっとりと眺めたあと、彼が目に留めたのは青年の提げた剣の鞘だった。
この土地――ゴートルードの辺境、スェルタ領一帯が戦から離れてひさしい。身分を顕示したい貴族であったとて、佩剣して歩くような愚か者がいるはずもない。それも柄に繊細な彫り込みの入った飾り剣など、山道で傷でもつけようものなら大損害になる。
バジルは沈黙して、それから意を決したように息を吸った。
『ロマルタの方ですか』
聞き慣れない言葉の羅列に、シルヴィアが首を傾けたのもつかの間。青年はぱっと顔を輝かせ、子供のようにこくりとうなずいた。
『ロマルタの言葉が分かるのかい。よかった、先から彼女を怖がらせてはいないかと心配していたんだ。きみは彼女のご友人かな、それともご兄弟だろうか』
矢継ぎ早の問いかけに、バジルが渋面をみせる。
『ゆっくり喋ってもらえませんか。そう堪能でもないので』
『ああ、すまない。つい興奮してしまった』
『……まずは、友人を助けてくださってありがとうございます。だけど、ロマルタの方がどうしてこんなところまで?』
『ああ、それは』
青年が訥々と喋り出す。その切れ目を見はからって、シルヴィアはついとバジルの袖を引いた。
「なんの話をしているの」
「この人はロマルタから来ていて、スェルタ領伯に用事があるらしいってところまで聞いた」
ロマルタの名ならシルヴィアにも覚えがあった。ここゴートルードに接する隣国だ。とはいえスェルタに向けて国境を越えるともなれば、馬で数日の旅程を覚悟することになるのも事実である。
「お疲れでいらっしゃるんじゃないかしら」
「そんなの、僕たちが気にすることじゃないだろ。領主さまのお客さんなんだから」
「でも、助けていただいたんだし、お礼ぐらい」
「僕から伝えたからもういいよ」
バジルが青年を見上げ、早口でなにごとかを伝える。それが別れの挨拶であることはシルヴィアにも察された。最後ににこりと笑って山道に消えた青年を、追うに追えないままで見送るしかなかった。
続く、わずかな沈黙。シルヴィアはぽつりと呟いた。
「バジルのいじわる」
「はあ?」
「すこしぐらい、お話をさせてくれてもいいじゃない……」
面食らったように瞠目したバジルに向かって、シルヴィアはむうと唇をとがらせてみせる。この鈍感な幼馴染は、少女の胸に訪れた春のめばえさえも、慮ってはくれないのだ――わざわざ口にしてでもやらないかぎり! 気のしおれてしまったシルヴィアにはそれを伝えることさえはばかられ、結局力なく首を振ることになる。
「もういいわ。せっかくのお休みをいやな気持ちで過ごすだなんて馬鹿げてるもの」
「なんだよその言い草。ひとに通訳まがいのことをさせておいて」
「それは、助かったけど」
バジルが現れなければ、いまごろ。想像して、シルヴィアは舌の上に苦いものを覚える。立ちつくす自分の姿が目の前に浮かぶようだった。そうならなかっただけ幸いだったのだ。
「……ううん、ありがとう。あなたが来てくれてよかったわ。わざわざ迎えに来てくれたの?」
「マーシュさんたちに、めんどうを見るよう頼まれているからね」
シルヴィア・マーシュ。それがシルヴィアのフルネームだ。しかしバジルが口にする場合、そのほとんどが彼女の父親を指している。ふうん、と気のない相槌を打ったシルヴィアに対し、バジルは深くため息をついた。
「いつまで待っても帰ってこないし、なにかあったのかと思って出てきたんだ。そうしたら川に溺れていたっていうんだから」
「お勉強、切り上げてきたの?」
シルヴィアは立ち止まり、きゅっと眉を寄せる。
バジルの父親は代書人だ。文字の読み書きに疎い人々の代わりに、文書を仕立て上げることを生業としている。バジルもまた父親の職を継ぐべく日々学習に励んでいるのだった。
その邪魔になるようなことだけはあってはならない、と、バジルがペンを握り始めたころから、シルヴィアは心に決めている。さっと顔を青くした少女に、バジルは首を振った。
「切り上げるもなにも、時間が空いたときにやっているんだからいいんだ、あれは。それより」くるりとふりむいて、シルヴィアの頭をこつりと叩く。「ずいぶん落ち込んでいたところ悪いけど、さっきの人、領主さまの館に厄介になるって言っていただろう。休み明けにまた会うことになるんじゃない」
あっと叫んで口元に手をやる。シルヴィアの頬には微かに赤みが差した。その場の機会を逃したことにばかり気が向いて、自分の勤め先のことを忘れ去っていたのだ。
シルヴィアが使用人として領主の娘クローディアに仕えはじめて、今年で五年。十にも満たない女児が奉公に出されるのは、別段珍しい話でもない。むしろ同じ年ごろの少女たちに比べれば幾分か恵まれた環境であることを、シルヴィアもよくよく理解していた。
さらに、あの青年と、たとえ数日でもおなじ屋根の下で過ごすともなれば。
「お、お話する機会はあるかしら」
「さあね」
バジルの返事はそっけない。しかしシルヴィアはそれを意に介してもいなかった。
「とってもきれいな髪の色だったわ。お嬢様みたいな、きれいな金色。目なんかあの空ぐらいに深くて、でもやさしそうで。濡れた姿は、まるで朝露をはらんで輝く君の――」
「その文句」遮って、バジルは鼻を鳴らす。「昔読んだ詩集にあったな。女の人の形容詞だ。わけも知らずに引用すると恥をかくんじゃない」
「う、いいじゃない、ちょっとぐらい……」
「そんなことより、家。着いたよ。マーシュさんが待ってる」
カンテラを吊るした軒先に、ひとり立ちつくす男の姿がある。シルヴィアはそちらへ駆けて行こうとしながら、途中でバジルにふり向いた。
「今日はありがとう。また家に来てちょうだい、きっとお菓子を用意してあげるから」
「いいって。ちゃんと前を向いて歩きなよ、転ぶから」
「もう転ばないもの!」
おやすみバジル。最後にそう伝え、険しい顔の父親のもとへと走り寄る。
すぐに飛ばされた小言に落ち込みこそしたものの、それも長くは続かない。扉を開くなりたちこめたスープの香りに、シルヴィアはふわりとほほえんだ。