長雨の夜 3
「堺さん……の、下仕えでもしているの」
 傘を畳む娘、美澄に声をかける。彼女は少し考えるふりをした後、いいえ、と首を振った。
「私の主は別に。今は事情があり、堺家のご令嬢のお世話になっています」
「事情」
「それも後ほどお話しいたしますよ」
 そう言ったきり、勝手知ったるようすで、美澄はさっさと邸に上がり込んでしまう。
 玄関ホールのシャンデリアは闇の中に佇んでおり、否が応にも足元も見えない暗闇の中を行くことになった。使用人を含めた家の者はみな寝静まっているのだろう、床が濡れたところで文句を言う人間はいない。とはいえそれも令嬢の部屋の前までのことで、自分の部屋の扉に手をかけたところで、彼女はようやく思い至ったというように顔をしかめたのだった。
「そこを動かないでちょうだい。……嫌ね、“血種”を入れるとこれだもの」
「お手数おかけいたします」
「まったくだわ」
 体を拭う布を取りに引き返していった彼女を、美澄はひらひらと手を振って見送る。あまりに気安い――その姿を見れば、なるほど彼女らが直に主従の間柄にないということは見て取れた。
「美澄さん。ここに仕えているわけじゃないって言っていたけど」
「美澄で構いませんよ。ええ、おそらくはお察しの通り、私は伝令の役を仰せつかっています。先のように“血種”らに情報を流し、帝都に散らばる彼ら同士を結び付けて、時にはこのように、人のもとにも」
「それが腑に落ちないんだ。“血種”は“皇”を討つために力を集めているって聞いた、昔のように“血種”が治める邦を取り戻したいんだって。あんたたちの最終目的がそこにあるのだとしたら、わざわざ手を貸す人間なんかいるはずがない」
「さて、どうでしょうか。たとえば私が“血種”の間を駆け回っているのは主命によるものですが、その主はあくまで人の側に属する御方ですよ」
「“皇”を厭う人間がいるということ?」
「利害が絡めば、好悪ばかりでは判断がしきれませんね。少なくとも私の主は、“皇”陛下を愛していらっしゃいますから」
 説明を受けた体ではぐらかされた気がしてならない。美澄も罪悪感に駆られたのか、うっすらと苦笑を見せた。
「事態は“皇”と人、そして“血種”の対立にはとどまらないということです。より複雑なように見えて」美澄はそこで、痛みを堪えるように一度唇を噛む。「あるいはずっと、単純なのかもしれない」
 それ以上は美澄に問いを放ることができなかった。彼女が会話を続けようとする意志を見せなかったということ以上に、ちょうど戻って来た娘によって、一抱えの布を放られてしまったためである。ぐちぐちと小言を浴びせられながら部屋に入る、その傍らで、美澄は先の問答などなかったかのように平然とした表情を取り戻していた。
 堺の令嬢の自室。壁際にずらりと並ぶ本棚の群れはまるで書斎だ。その合間に箪笥や机といった調度が設えられているものの、あくまでほんのついでに過ぎないのだろう。湿気を嫌うのも当然だ。人の部屋に文句でも、と私をひと睨みした彼女に、べつに、と返してやるものの、動揺は表に出ていたに違いなかった。
「あなたの言いたいことはよくわかってよ」彼女は自身の椅子に座り、二人の“血種”を流し見る。「帝都の女の教養が実を結ぶことはない。けれどそれを可能にするだけの力を得られるならどうかしら。それが認められる場所へ行けるなら? “血種”ふぜいではご存知ないかもしれないけれど、“皇”陛下の祖国には、女でも地位を得られる環境が整っているという話よ」
「皇国の……」
「まったく学がないというわけではないのね。ええ、結構」
 西国。俗に皇国。帝都にはほとんど情報の出回らない、第一の“皇”のふるさとだ。“皇”の地位が血族によって継がれてきた以上、現在の“皇”にとってもそこは祖国であるといって過言はない。イカルガに敷かれた厳しい外交統制は他国との関わりを完全に断ち切ったため、かの国を訪れることの許された人間はいないという。
 神の国だと誰かが言った。《那》であったこの国を圧倒するだけの文明が栄える、我らには手の届かない理想郷。そうとでも考えなければ、帝都の閉塞感に堪えられなかったためか。なににせよ“血種”には縁遠い話だった。
「私は皇国へ行きたいの。もちろん容易に叶うとは思っていないわ、帝都を変えるだけの覚悟がなくては駄目。けれど私が役目を果たせたなら、あの方は望みを聞き届けてくださると仰った」
「あの方?」
「私の主です」
 美澄が一言、口を挟む。私はいよいよ理解が追い付かなくなり、首を振って降参を示した。
「“血種”の目的に協力的な、それでいて帝都を転覆するだけの権力を持った、風変わりな人間がいるって? ……疑わしい話だけど、わかったよ、そんな誰かがいると仮定する。それであんたらはなにをしようっていうの。“皇”を殺しに行く? それとも帝都を乗っ取るとでも? あんまり馬鹿げた話じゃないか」
「そうね、“皇”陛下の暗殺だなんて愚かな考えだわ。あの方はけして衆目にお姿をさらさないもの、“血種”が徒党を組んだところで乗り込めはしない。露払い様の元にすらたどり着けずに殲滅されるのが目に見えている」
 いささか肩透かしを食らった気になる。口をひん曲げた私を、令嬢はせせら笑った。
「これは前にもお話ししたわね。帝都に堺の名を知らぬ者はいないと。国一番の財閥を上げるなら、この堺以外にはあり得ないの。これは純然たる事実なのよ。そうでしょう、美澄」
「ええ、確かに」
「“皇”陛下が奥方を選ばれるなら、もちろん私にお話が来るはずだった。だというのに、蘇芳? それこそ馬鹿げている、こんな笑い話はないわ。小金持ちに過ぎない“血種”管理の娘ですって」
「……あんた、なにが言いたいの」
「物わかりが悪いわね。この婚約には裏があるということよ。……いいえ、単なる間違いに過ぎなかろうと関係ないわ。婚儀をひとつご破算にすれば、次に白羽の矢が立つのは堺の娘、この私に違いない」
 腹を殴られたような衝撃を受けて、令嬢を見つめ返した。彼女は変わらず余裕に満ちた表情で私を眺めている。
 まるで人に餌を求める鯉を、高みから見下ろすかのように。
「詩織を殺すの」
「“皇”陛下よりはずっと脆い的だわ」
「そんなことを私に話して、まさか、了承するだなんて」
 令嬢は耐え切れなかったように吹き出し、私に笑声を浴びせかけた。
「あなた、なあに、それ――まるで生娘のようなことを言うのね! 祝言前夜に蘇芳の邸を飛び出して、そんな言い草が通るとでも思っているのかしら」
 そう言って彼女は立ち上がり、無造作に一歩を踏み出す。対応の遅れた私の首に、ずいと指先を差し込んだ。首を絞められるよりもずっと呼吸を詰まらせる沈黙。荒れたところのない指の腹が、そこにある傷をなぞる。
「――女のにおいがするわね」
 臓腑へと、短刀を差し込まれるような一言だった。