長雨の夜 2
 噎せ返るような、花の匂いがする。



 鼓膜を責め立てる雨音。目を覚ましたとき、灯りの類はどこにも見当たらなかった。外にはただざあざあと雨が降っていて、むき出しの肩先には刺すような冷えを感じている。首元に残ったみみず腫れを掻く、その、ひりつくばかりの痛み。知らずこぼした溜息の熱。相反して、胸の芯から凍り付いてしまったような無心があった。てのひらに籠めた蝶の羽をむしってしまったときのばつの悪さに似ていた。
 傍らで寝息を立てている娘の顔も、ほとんどが闇に覆われてしまっている。涙の跡さえそれと見極めることはできなかった。上下する胸先の布団をしばらく見下ろして、私はわずかに腰を上げる。
 彼女の白く細い首の喉元に、両の親指を添える。脈が蠢くのに合わせ指先が震えた。そうして何度の心音を聞いただろう、終いまで指に力を込めることのないままで、私は腕を引くことになった。
 シャツを纏う。布のつめたさに身をすくめながら釦を留めて、布団の中から抜け出した。取り残された娘の顔は、ふり返らないようにしていた。



 風はない。代わりに冷えた空気が肌に侵食していくような感覚があり、邸の外に出た途端、体はおのずからぶるりと震えた。大粒の雨は平等に注いでいる――邸の屋根にも、私の脳天にも。庇護のもとを飛び出せばたちまち濡れ鼠になった。
 雨の帝都をそぞろ歩く。邸を出たことそのものが目的であり、赴く宛てがあるわけではなかった。水を吸った服は重く、私の視線を下へ、下へと追いやっていく。視界が安定しないゆえの小さな一歩ばかりを繰り返しながら、私は、自分の行動などいつもそうだったと考えているのだった。
 なにがしたいわけでもない。なにを求めているわけでもない。
 背を押すものはいつだって、眼前の苦しみへの忌避感だった――。
 足任せに泥濘を踏んでいるうちに、いつしかほおずき通りにまで行き着いていたらしい。以前は“血種”の溜まり場であったはずのそこも、露払いと名乗る女による騒ぎがあったせいだろう、すっかり人通りが減っていた。雨降りの深夜ともなればなおのことだ。
 そこに「もし」と鼓膜を震わせる音があり、私は勢いよく顔を跳ね上げた。人の声。それも若い女の声だ。雨宿りをする女の姿を認めて、ひどく混乱することになる。
「昨日の……」
「またお会いしましたね、同じ血の方。この真夜中に、どちらまで行かれます」
「そっくりそのままあなたに返すよ。それもこんな雨の日に」
「私はこれがお役目です」
 どうやら彼女は、今しがたその家から出てきたばかりであるらしい。その傍らに身を寄せ、ちらりと家に目を向けてみれば、窓には彼女と私との動向を見守る視線がある――“血種”の男だ。
「なにか企みごとでも」
「なぜそう思われます」
「小さな家だもの。仮に家主が人間だとして、“血種”をふたりも飼うような資産持ちには見えない。だから密会でもしているものかと考えたけど」
 違うの、と問う。女は困ったように首を振った。
「仰る通りです。とはいえ、こちらの家主は実質“血種”の方ですが」
「実質?」
「戸籍上はあくまで人のものですので」
 相手が相手であれば聞き流してはもらえなかっただろうことを、女は躊躇う様子もなく告げる。私は顔をしかめながらも「そう」と相槌を打った。春の夕時、同じ場所で巻き起こったことが思い起こされる。
「それは、……“血種”が徒党を組もうとしていることに関係があるの」
 女は探るような目を私に寄越して、なるほど、と一言。傘を開いて、私のほうに差しかける。
「お気にかかるのであれば、共にいらっしゃってはいかがです。あなたの捜し物が見つかるかもしれませんよ。あるいはそのための手段が」
「表に出せないような話を聞かせておいて?」
「それならあなたは、この夜中に蘇芳のお邸を抜け出しておいて、行き場ならば他にあると仰る?」
 眉間に皺が寄るのを自覚する。――やはり、という、諦めにも似た気持ちに襲われた。彼女は端から、蘇芳の邸の“血種”が相手だと知ったうえで私に声をかけたのだ。そこに利用価値を求めたのも、いつぞやの常盤と名乗った男と同じこと。
 違いがあるとすれば、それは私の胸中だったのかもしれない。訝るような言い方をしたことを一言謝って、私は頷いた。
「行くよ。雨宿りがしたかったんだ」
「それでは道中の傘をお貸しいたしましょう。二人で入ることになりますから、少しは濡れてしまうかもしれませんけれど」
「構わない、ないよりずっとマシだもの」
 けして大きくはない傘の下、二人並んで雨道を行く。どうやら背格好が同じほどであるらしいということ、彼女が私の側に傘を寄せているということを悟っても、私はそれを指摘しないでいた。むしろ気にかかったのは、最悪と言っていいほどの視界の悪さの中で、彼女が踏み出す足に迷いの見られないところだった。
 水たまりを踏んで、びしゃり、と汚水を跳ね上げる。足が濡れても彼女はそ知らぬふりだ。
「危なっかしいな……」
 小声で呟けば、娘はすまなそうに歩みを緩めた。
「恥ずかしながら、片目が利かないもので……あなたへの配慮が足りませんでしたね」
「目が? そうは見えないけど」
「ありがとうございます」ささやかにはにかんで、娘はひとつふたつまばたきをしてみせた。「見目のことなら、左目は義眼です。元の色より赤みを帯びている」
 雨が傘の布を打ち、ぱらぱらと音を立てている。圧し掛かるようであった先に比べれば、幾らかの弱まりを見せているらしい。明日の祝言には止むだろうと考えていたとき、隣の娘が同じように虚空を眺めているのに気が付いた。
「雨の夜はいいですね。髪の色も、目の色も誤魔化してくれるから」
「……そうかな」
「お嫌いですか?」
 問いを受けて初めて、どうだろう、と考える。
 幼い日、爺と暮らしていたころなどは、帝都の雨は恵みに違いなかった。狗の小便などが流れているとも知れない川よりもずっと安心して口に入れられる水だ。けれども人に拾われた後に訪れたのは、少しでも服を濡らせばどんな叱責が飛ぶかわからないような生活だった。そのくせ主は私を雨中の庭に放りたがるのだから是非もない。
 主が変わってからは、と思いを巡らせて、私はそこでふり返るのをやめる。過ぎたばかりの夜のことが、火花のようにまなうらをよぎっていった。
「……ちょうど嫌いになったところだよ」
 吐き捨てるように言って、言葉を続けることはしない。勘ぐることに意味を見出さなかったのだろう、娘はそうですかと告げたきり、以降は唇を動かさなかった。
 彼女はひとつの邸の前で足を止め、手早く門の鍵を開けると、奥へと私を促した。蘇芳のものには及ばないとはいえども、豪奢な邸であることに変わりはない。庭木や花、切り揃えられた芝生に至るまで、日々の手入れの伺える庭が広がっている。
 邸の大扉を前にしたところで、私は一度ふり返った。
「まだ訊いていない、一体誰の……」
 尋ねごとを口にするまでもない。きい、と扉が音を立て、中から娘が顔を覗かせる。
「遅かったじゃないの、美澄みすみ
 不満も露わに言いやった彼女こそが、邸の令嬢であるのだろう。こざっぱりと切り揃えられた髪が揺れる。見るからに強情そうな瞳をこちらに向けて、あらと一声驚いてみせた。
「あなたも一緒だったのね」
 ええ、いいわ、お入りなさいな。それまでの不機嫌はどこへやら、両目を三日月のごとく細めて、娘が扉の奥に消える。
 ――堺さん、
 蝉時雨の中、そう困ったように呼んだ声が、私の頭にこだました気がした。