長雨の夜 1
 日暮れのころ。夕映えを覆い隠した薄雲、うっすらと光る白塗りの空が、雨の先触れであることに気付けなかった。針を一本落とすかのような糸雨に始まって、気付けば地面は真黒に染められている。常の通りに街角をうろついていた私が、閉めきられた店の軒先に追い込まれたのはそのせいだった。
 帝都の雨は重く冷たい。つられるようにして溜息を漏らしたとき、「失礼」と声を聞くことになる。私と同じように雨に降りこめられたらしい、桔梗の着物をまとった女が同じ屋根に逃げてくるところだった。私が端へと場所を譲れば、彼女はほっとした様子で壁に身を寄せる。
 小柄な女だ。頭巾をかぶっているおかげで顔色は窺いづらいものの、首元に流れた髪は確かに赤い色をしている。身なりこそ人並み・・・であるとて、“血種”であることには変わりがないようだった。
 彼女はふるりと身を震わせ、気遣わしげに空を見る。
「厭な雨ですね。めでたい日を明日にして」
 あいさつ代わりの世間話に違いなかった。しかし私は答えに窮し、しばらく黙りこむことになる。女はああと声を上げ、小さく目礼した。
「私たちには関わりのないことでしたね、同じ血の方。失礼を」
「…… “皇”の結婚は、あなたにとってめでたいことですか」
 問えば、女は曖昧な表情を見せる。
「少なくともわたくしにとっては。わたくしの主にとっては、いかがでしょうね。羨みこそすれ、喜ばしくはないことかと」
「私とは逆だ」
 女が視線を寄越す。けれどもこぼれ落ちるように呟いていたことに、最も驚いていたのは私自身だった。
 行きずりの相手であるから、と考えていたのが油断を生んだのかもしれない。言い分から推し測るに、彼女の主はイカルガに住む令嬢の何某なのだろう。あるいは蘇芳の娘を娶ろうとしていた、どこぞの貴族子息か。
 いずれにせよ、口を閉ざさずとも良い相手だと認識すれば、呼吸はわずかに軽くなる。髪から滴り落ちた水滴を見送って、私は目を伏せた。
「明日が終わればいい、と考えています。ずっと。明日の夜さえ越えてしまえば、諦めもつくだろうから」
「諦めですか」
「このイカルガで生きている“血種”に、最も必要とされる素養だと考えているけど」
 女は考え込んで、そうですね、と苦々しげに首肯した。“血種”として帝都に生まれた以上、誰にとっても思うところはあるだろう。探りを入れることはせず、私は壁から背を離す。
 雨はやまない。けれども幾分か、勢いを和らげてはいるようだった。雨避けの暇つぶしに付き合わせてしまったことを謝る意で、私は女に一礼した。そのまま外に出て行こうとしたところで、「あの」と呼び止められる。
 ふり返れば、女は眉を八の字にして微苦笑を浮かべていた。
「同じ邦に生きる身ですから、いずれまた、お会いすることがあるやもしれません。それまでの息災をお祈り申し上げます」
「……お互い“血種”でしょう。吹けば飛ぶような」
「捨てる神あれば、とも申します」
 強く否定することもできず、私は再びの会釈をしてから女に背を向けた。
 空の下に身を晒した途端、打ち付けるような水の粒に襲われる。私は髪、頬、肩をしとどに濡らし、小走りに蘇芳の邸へ向かいながら、果たして詩織は捨てる神であったのか、それとも、と考えているのだった。



 濡れ鼠の様相で邸にたどり着いた私を、使用人はぎょっとした顔で出迎えた。常日頃から蘇芳の仕着せであるシャツ姿でいるためだろう、彼らからは距離の置き方に戸惑われている節がある。敬語とも常体ともつかない言葉遣いで、早く着替えろ、体を拭け、廊下の中心を歩くな、という旨のことを伝えられ、気付けば着替えと手拭いとを押しつけられていた。
 ぱたり、と後ろ手に扉を閉める。寝室にと与えられている一間にたどり着いたとき、知らず息をついていた。
 人ひとりが落ち着くには広すぎる客室だ。半年をそこで暮らしても未だ慣れない。立ち尽くしているだけで、空っ風に吹かれているような気すらしてくる。照明も点けず、部屋の半ばまでを歩んだところで、崩れ落ちるようにして尻をついた。
 指先が感覚を取り戻し、体の震えが収まるにつれ、肌に張り付いたシャツの布地が存在を主張するようになる。外を走っていた折には凍えるばかりで気にする余裕もなかったのだった。手拭いをつまみ上げて、頭から拭いていく。
 扉が叩かれたのは、シャツの釦を外し終えたときだった。是と答えるより前に室内に入ってくる影があり、私は不機嫌も露わに彼女を見やる。
 難癖をつけるより先に、
「ごめんなさい」
 と詩織が早口に言った。
「あなたが帰ってきたと聞かされたものだから。千春、今朝は早くから邸を出ていたでしょう」
「気が向いただけだよ。特別に理由があったわけじゃない」
「私には、」虚を突くほどの大声を出してすぐ、詩織は恥じ入るように指先を握る。「特別な理由があるもの……」
 恨めしげな声色が癇に障る。言わんとすることは察せられても、それに従う気にはなれなかった。私は詩織に聞かせるように溜息をつく。小さく身を震わせる気配があって、憂さがわずかに晴れた気がした。
「明日祝言を挙げるのはあんたで、ここを出て行くのもあんただ。私には関わりのないことなんだから、散歩ぐらい好きにしてもいいでしょう」
 そう言いやり、詩織から目を離した。話は終わりだと伝えてやるつもりで。代わりに私はシャツの襟ぐりに手をかけ、背から脱ぎ落とす。外気に触れた背の皮膚は痺れるような痛みを発し、嫌が応にもそこに残ったものを思い出させた。
 かつての主のもとを去ってなお、消えないでいる火傷の跡。傷や痣の類は一月もせずに失せてしまったというのに、赤黒い痕跡だけが未だ背を這っている。女らしい丸みもない、しかして男に準ずるような筋肉もない、皮と骨ばかりのそこへと、忘れはすまいぞと植え付けられた怨嗟のように。乾いた着替えに手を伸ばしたきり、私はしばらく窓の外を眺めていた。
 ふいに、背にとがったものが触れる。――爪。のちに幾本かの指先が添えられた。特に肉の薄い肩甲骨のわきを、つ、となぞり、流れるように背骨へ向かう。拭いきれないままの水気を気にする素振りもない。
 私の胸にわいたものは、火の燻るようなこそばゆさ。次いで確かな不快感だった。
「……なに」
 背を夜風に晒したまま、はっきりと眉を寄せる。触らないでくれる、と言葉を継いだところで、詩織は指先の動きを止めるだけだ。てこでも身を離すつもりはないらしかった。
「あなたの背中に羽があったら――」
 連れ出してくれた、と問う声のか細さに、私は一度唇を噛んだ。
「逃げたいの」
「千春がいてくれるなら」
 体温の塊が背に押し付けられる。「前はこうじゃなかったのよ」と詩織がつぶやくに至って、それが彼女の額であることに気付いた。
「もっと聞き分けがよくて、従順だった。家の誉れと思って、笑って向こうに行けるはずだった。素直な娘でいられたはずなのに」
 押しつぶすような雨音。夜に沈んだ庭先を見つめたまま、病気だ、と考えていた。染みついてしまった性根はいっそ病だ。彼女は疑わない――人の足は必ずどこかに留まるもので、いつかは自分の側にもそんな人間が現れるなどと、馬鹿げた妄想を心の底から信じている。
 地に根を張った花ひとつ、連れ出したいのなら、首を狩るよりほかに道はないのに。
 お嬢様、と控えめな声が響き、「夕餉の準備が」と伝えられる。私は詩織を引き剥がすと、手早く体を拭ってシャツを羽織った。
「あんた、疲れているんだ。食事を取ったら早く寝た方が良いよ、明日は早いんだから」
 体を反転させる。ちはる、の形に動いた唇が、一直線に結ばれるところだった。詩織は苦いものを飲み込むように目を瞑る。首を背に向けて、使用人に言葉を放った。
「……今晩の食事は結構です。千春にお別れを言いたいの。お父さまとお母さまに、そうお伝えして」
「お嬢様、しかし……」
「お願い」
 扉の向こうの困惑は、目で見たかのように伝わってきた。引き返すか否かと迷う足音があって、終いにかれが歩み去るのを、詩織は無言のままで待っていた。そうして瞠目した私を見上げる。
「今夜だけは、ひとりきりになりたくないの」
 繊手が掲げられ、私の首の裏を、掠めるように指が撫ぜた。
 喉奥が引き攣る――これはきっと天性のものなのだ。ひとを絡めとる香であり、蔓だ。暴力や恐怖などよりもずっと執拗に、脳髄を我がものにして離さない。
「夜が嫌い。目を閉じてしまうのが怖い。なにも見えなくなった途端に、胸の奥がひどく冷たくなるの。空いてしまった穴に、潮風が吹き付けるみたいに」
「詩織、」
 震えた奥歯が小さな音を立てた。誘われたかのように、私のてのひらは彼女の腰を引き寄せる。彼女が微かに吐息を漏らした。

「――埋めて」

 そして、縋るような声が。