友、いかなるものか 6
 目を焼かんばかりの斜陽を彼方に眺め、街路の中央に突き立って、私はしばらく詩織の姿を見失っていた。馬車は細工屋の路傍に停められ、その横では御者の男が煙管を吹かしている。慌てるふうのない彼の様子から察するに、どうやら尋ね人は目の届く範囲にはいてくれているらしい。
 いくらかあたりを彷徨って、私は弧を描く橋の中ほどに娘の姿を認めた。木製の手すりに片手を預け、下流の側に身を寄せている。
 ほど近くに港を持つ帝都だ、その東のかたを流れる川は、浅くはあれど幅が広い。木板を踏みしめて傍らへ赴くまでに、彼女の横顔を盗み見る余裕があった。私はそうしてようやく、彼女の目が川を見ているのではないことに気が付いたのだった。
「秋津」
 紅の目をした蜻蛉とんぼが一匹、詩織の手元を離れていった。
 ふいに声をかけた私に、詩織はわずかばかり驚いた様子を見せた。その横に並び、努めて彼女の顔から目を逸らす。
「――っていうんでしょう。爺に名前を聞いた」
「そう、……」
 なにかを口にするための間と、なにも生み出されないままの沈黙と。水面にたゆたった光の粒を、私たちは揃って見下ろしていた。
「気に入っていた」
 問うて、それが問いの体を為さなかったことに後悔する。詩織はそうねとちいさく答え、思い出そうとするように目蓋を下ろした。
「可愛がってもらったのは、ええ、よく憶えている。私にとっては邸の中が世界のすべてだから、新しい誰かが飛び込んでくることに、淡く期待をしていたの。……優しい人よ。優しいふりのできる人だった」
「好きだった」
「ふふ、小さい頃のことだもの。お父様も好き、爺も好きだった。秋津のことも、そうね、きっと好きだったわ」
「初恋だった?」
 詩織が口をつぐむ。
 一度も訊かれずにいたのだろう、と思った。おそらくは邸の誰もが、気付きながらもそっと目を逸らしていたことだ。子供の胸の中にあったものがどんな色をしていたとしても、折り取られてしまった以上、決して元の形を取ることはないのだから。
 とうの昔になくした望みに縋ることの無意味さを、私でさえ痛いぐらいに知っている。けれども掘り起こさずにはいられなかった、確かめずにはいられなかったのだ。それが自分の抱えたものよりも、ずっといびつであるのをつまびらかにしないことには。
「わからない」
 ゆえに、詩織がそう答えたとき、ひそかな落胆を覚えていたのは確かだった。
 手すりに預けた手を力なく下ろして、詩織が体をこちらに向ける。幼子じみた屈託のなさはどこかに追いやってしまって、珠のような瞳で私を見た。傷つきやすそうな黒曜。それは白いかんばせの中で、ひときわ人の目を盗んで離さないものだ。
「秋津が邸を出ていった日は、ひどく泣いていたような気がする。今だって嘘は嫌いよ。でも、もう秋津の顔も、声も、よく憶えていないの。忘れてしまいたかったからかもしれないし、もうどうでもよくなってしまったのかもしれない」
「嘘」
「いいえ、本当」
 詩織は袂に手をやって、紅の簪を引き抜いた。金塗りの足を指先に遊ばせて、くるりくるりと円を描く。
「恋。やさしい言葉ね。そんなふうに呼べはしないわ。……報われなかったものを恋と呼ぶなんて、あまりに悲しくてたまらないもの」
 無造作に、詩織は簪を放り投げた。私があっと声を上げる間もなく、簪は閃きながら彼女の手を離れ、茜を弾いて、川の流れの中に消える。水音も立てずに飛沫を上げて、それきり一度として光を照り返すことはなかった。
「貰いものでしょう……」
 問えば、詩織は目を細めた。惜しむそぶりも見せなかった。代わりに私を見下ろして、ゆっくりと首を振ってみせた。
「もういいの、だって千春が」
 ――つらそうな顔をするでしょう。
 ざあ、と吹き付けた強風が、町人の足音も、川の水音も、一瞬のうちに攫っていった。
 詰めた呼吸に、ひとときだけイカルガの街から切り離されたような感覚に陥る。青々とした街路樹の葉が千切れ、眼前をよぎるに至ってもなお、私は詩織から目を逸らせないでいた。
 耳鳴りがする。咽喉のどが渇いて、切れたように痛んだ。悪言を吐くはずの舌先は、凍り付いたまま動かなかった。
 仕返しをされているのだ、と気付いたのはようやく息を吸ったときで、心臓はいつからか胸を殴りつけるように早鐘を打っていた。その衝撃は、自分の中にある淀みきった情念の存在を自覚させるには十分だった――とうに捻じくれてしまった感情の、たったひとつの行き場を私に理解させるには。私は薄い呼吸を繰り返し、やっとのことで、彼女の一言が仕返しなどといういとけない遊びに留まるものではないことを悟る。
 私たちはいつからか、互いを引き摺り込むための手段を探っていた。短い紐の両端をそれぞれに握って、けれどそれを引くでもなく、手放すでもなく、声をかけてやることすらしないままで、互いに互いを見つめていた。そうして相手が進んで踏み込んでくるのをずっと待っていたのだ。期待する素振りひとつ、おくびにも出したりはせずに。
 踏みとどまらなければならない。
 それはまるで、天命を受けたかのような、いっそ脅迫じみた閃きだった。
「馬鹿にされたものじゃない。私が子供みたいに拗ねているとでも」
 口の端を吊り上げてみせる。頬を張られでもしたかのような詩織の顔を見やり、その効果が覿面てきめんであることに安堵していた。
「堪えの利かない犬に見えた? ご主人様のご寵愛を頂けないから? それこそ馬鹿な話だよ、私はそんなこと、今まで人に望んだりなんかしなかった。あんたにだって」
「千春、私、そんなふうにあなたを見たことなんてないわ」
「その通りだよ、見下しているのは“私”じゃない。ただの“血種”。“血種”の娘だ。あんたは一度だって“私”を見ていたことなんかなかった」
 口にしながら、白々しい言い草だと笑っていた。身分や血、彼女の行く末、体よく名付けたそんな箱々に縋って、身動きの取れない理由のすべてを求められるなら、もっと単純に蹴りがつけられていたはずだ。そも、諦めることにももう慣れていた。彼女が誰のもとへ行こうと、誰のものであろうとも、鼻で笑うだけの興味しか持ち得ないはずだった。
 だから、そうではない。そうではないのだ。熱のこもった息を吐き出し、私は眩暈を払うように首を振った。
「誰でもよかったんだ。あんたにとって、じぶんを一番に選んでくれる相手なら。そうでしょう。友達だろうが、召使いだろうが、いっそ奴隷だろうが、名前や体面なんてどうでもよかった」
  ただ、じぶんの前に足を止めてくれさえすれば。
 片手を額に添えて、長く、長く、口をつぐみ続ける。胸の奥からせり上がった汚らしく苦い塊を、そうすれば飲み込める気がした。
 詩織はうつむき、顔を上げて、そうしてまた目を伏せて、小さく唇を震わせた。
「私、私はただ、千春と」
「……友達にだけは、なりたくなかったよ。私は」
 一言のもとに断ち切ろうとしながら、しまいには躊躇って踏みとどまってしまう。目を見開き、黒々と――元の色よりもなお黒く、渦を巻くような瞳を晒した彼女に、私はそれ以上何を告げることもできなかったのだった。
 風に吹かれた薄雲が、逃げ去るようにして流れていく。空の端は藍に染まり始めていた。一服を終えたらしい御者がおういと令嬢を呼び、詩織はそれで我に返ったかのように、着物の裾を絡げて私の横を通り過ぎる。
 間際にくゆった花の香は、咲き初めの桜のような、淡く頼りない色をしていた。