友、いかなるものか 1
 開け放しの窓から吹き込んだ風が、すでに夏の気配を連れていた。
 部屋は薄暗い。そこにあって光源になり得るものは、カーテン越しに照らす薄明かりぐらいのものだった。いまが日中であるのをいいことに、邸じゅうが一切の照明を落としてしまっているためだ。そのくせこの二階の一室には日光を嫌う主がいるせいで、カーテンは締め切られ、哀れ風に遊ばれて、絨毯にまだらの影を躍らせている。
「窓ぐらい閉めればいいのに」
 呟いて溜息。半端に開いた瞳孔を反射光が刺してくる。おかげでちかちかと視界が眩んでたまらなかった。風で手元が狂うこともあり、私としては本心から文句をつけたつもりであったのだが、詩織には堪える様子もない。口に手をやってくすくすと笑うばかりだ。
「中に熱がこもってしまうわ、ただでさえ暑いのに」
「こっちの手間が増えるって話。年中厚着なんだし、それぐらい我慢したら」
「いやよ。千春は小器用だもの、手間だなんて、“それぐらい”朝飯前でしょう」
 ああ言えばこう言うとはこのことだ。これには少しばかり頭に来て、手元にあった髪筋を一房、強めに引っ張ってやる。痛い、と抗議の声を上げた詩織も、しかしすぐに笑い声を響かせてしまうときたら、どうやら効果のほどは薄いらしい。私は諦めて櫛を握り直し、手元を離れた彼女の遅れ毛を持ち上げた。
 ――髪を結ってほしい、と頼まれたのは、その日の朝餉の席だった。
 今日は詩織の休日だ。学校は当然、手習いにも珍しく空きができた日で、彼女には丸一日の休息が許されているはずだった。とはいえ朝食の時間は決まっている、私は眠い目をこすりこすり、別の誰かに頼むようあしらった。器用な下女なら邸にはいくらでもいるだろう。
 けれども相手は頑固者の一人娘だ。私の訴えが届くはずもない。
 食事が終わるや私の手を引き、部屋に引きずり込んだ挙句、自分はさっさと椅子に座って私に背中を向けてくる。私がやむなく櫛を取ったのは、そのようすがあまりにも子供じみていたからだ。
 天下の蘇芳の令嬢も、こと自分の部屋においてはあどけない。
「我儘を言うなら、それこそ、使用人に頼めばよかったでしょう。素人に髪を扱わせてなにになるわけ」
「お手伝いの方はこんなに一生懸命になってくれないもの」
「誰がむきになっているって」
「そうやって、いつもいつも言葉を悪く取るのだから……」眉を上下させつつも、詩織が気にしたふうはない。ひらりと手で首筋を仰いで続けた。「あまり、ね、人に髪を触られるのは、好きではなくて」
 私はふっと短く息を吐く。
「私なんかに触らせておいて、どの口が言うんだか」
「千春だからだとは毛ほども思ってくれないのだもの。いいわよ、意地悪」
 目に見えてわかるような膨れ面をした詩織に、思うわけがないでしょう、とは口にしないでおく。腹を立てた挙句に背をふり返られてはかなわなかった。
 先より幾分静かになった室内で、私は手元の編み物を進めていく。見ても触れても、羨望すら湧かなくなるような髪だった。肩先を優に過ぎる長さを持ちながら、付け根から毛先にまで櫛を通しても、一度として絡まり合うことがない。生来癖がない髪質なのだろうが、天上のもののような艶と手触りは日々の手入れの賜物だ。素直に感心する。
 耳よりも高いところにある髪をいくつかの束に分け、それぞれを三つに編み込んで、付け根の位置でひとつにしたあたりで、こつん、こつん、と硬質な音を聞いた。私は詩織の手元を覗く。それまで袖口に隠していたのか、彼女は見慣れない玉のかんざしを爪で弾いていた。
「それ貸して」
「え?」
「使うんじゃないの」
 詩織は呆けた顔で私を見つめ、続いて自分の膝上に目を向ける。そこにものがあったことに初めて気付いたかのように、長々と簪を見下ろしていた。
 ――あ、と小さな声をこぼしてから、しずしずと首を振る。
「違うの。これは、違う」
「そう」
 ならばいつものもので十分だ。前もって託されていたべっこうの簪を差してやれば、髪は容易くまとまってくれる。
 詩織は手元の簪を袂にしまい込みながら、睫毛の下から、一度だけ私に視線を投げる。自分が隠したものごとに、触れて欲しそうにする目――一抹の期待。誑かすように。
 厭らしい目だ。
 私はそれに見ないふりをして背の窓を閉める。夏の空気は気だるげに滞り、部屋の内側を満たしていった。
 部屋の主は黙り込んでいた。残した後ろ髪の切れ間から、頼りないうなじが見える。熱気に汗をにじませ、うっすらと上気しているのが伺えた。
「髪、いつまで伸ばすの」
 望まれた問いではなかっただろう。詩織は部屋の扉を一心に見つめたまま、さあ、と答える。
「これといって理由があるわけではないの。いつ切ってもいいし、このままでもいいと思って」
「夏のあいだは邪魔でしょう。いちいち結うのも面倒そうだし」
「…………千春は」
 短いほうがすきなの。
 囁きのような声を、拾い上げてしまった自分の耳に辟易した。
「べつに」
 幸い逃げ道は封じられていない。そっぽを向いて答える。
 重く、詩織が漏らした吐息は、あるいは嘆息であったのかもしれない。「そう」と彼女は舌先で相槌を打つ。後ろ髪が流れた。
「それならまだ伸ばしているわ。切ることならいつでもできるもの。“皇”さまがどちらをお気に召すのかわからないし、それまでは」
 そうしてまた沈黙。
 朝のひとときは溶けゆくように終わり、蝉は雌を呼ばんと喚き始める。カーテンの隙間から覗く庭では、若い緑葉が疲れたように揺れていた。暴力じみた熱線が、今も、空気を焦がしているのだろうと思った。喉が渇くのはそのせいだ。
 そのとき、りいんと呼び鈴が鳴る。邸の二階にあたるこの部屋にはその余響が届いただけだったが、詩織は耳ざとく聞きつけて立ち上がった。
「友達だわ。遊びに来てくれるように言っていたの」
「友達?」
 いたんだ、と続けてしまうのは、蘇芳の邸に暮らして二月と半分、そうした気配が一度たりとも彼女について回らなかったからだ。「失礼ね」と詩織はそれでも弾んだ声で言って、くるりと身を翻す。
「昨日学校で約束をしたの。一緒にお茶をして、お菓子を食べて、ご本の話や先生の話ができたら素敵ねって」
「だから髪なんか結わせたの、休みの日ぐらい一人でいればいいのに」
「それでは寂しいじゃない。そうだわ、あなたのことも紹介しましょうか。この髪を立派に整えてくれた、歳若い髪結い職人としてね」
 私は胸中に納得を得る。わざわざ髪結いに呼びつけたのは、つまるところ、私の存在を手元に置くためなのだ。特注の時計や毛並みの良い猫を人前に携えたがるのと同じ。そこに違いがあるとすれば、私がさほどの価値を持つ存在ではないということだ。
 ――仕返しをしよう、と思ったわけではなかったけれど。
「結構だよ。あんたにとっては友達かもしれないけど、私にとってはそうじゃない」
「生まれながらに友達同士でいる人間なんかいないわ」
「“血種”は生まれながらの奴隷なのに?」
 そう言ってやったときに、息を詰まらせる彼女のことは好きだった。知ったような口ぶり、無意識に支えられた笑顔が一瞬きのうちに崩れ落ちて、代わりにとびきり傷つけられたかのような顔で私を見るから。
「……怒っているの?」
「どうして?」
 顔色を窺われるとき、同じ目で見つめ合っているような心地がする。屈託なく彼女に笑いかけてやれるのはそのときだけだ。
「はやく行ってあげたら。暑いのに待たせちゃ悪いでしょう」
 詩織は眉を伏せ、着物の裾を握りしめて、ええ、と背を見せた。小走りで扉に手をかけて、そこで立ち止まる。
 小首を傾げた私に、わずかだけ顔を向けて言った。
「千春のそういう言い方、私、……あまり、好きではないわ」
「そう」
 私を残して扉が閉まる。
 嫌いを口にできない彼女の、精一杯の反抗が、ほんの少しだけ夏の暑さを忘れさせてくれる気がした。