人飼いの娘 3
 耳の裏がかっと熱くなった。知られていたのだ、と悟り、今にも逃げ出したくなる衝動の背後に、なにを今更と囁く声がある。あれだけ顔を合わせていたのだから気付かれないはずもないだろう。彼女は“血種”の娘をあげつらうために、わざわざみずから声をかけたのだ。
「……“血種”?」
 しかし返る客人の声音は、不快や侮蔑とはまた別の色を帯びている。恐る恐る顔を上げた私を、彼は鷲のような瞳で見つめ返した。
 しじまを断ち切ったのは忙しない足音だ。今まさに廊の影から現れた邸の主人が、輪を描いた私たちを視界に認めるや否や、さっと顔を青くした。硬直した彼の足は、近寄るべきか、遠ざかるべきか、と迷っているようにも見える。
 逡巡の後、逃避の側に揺らいだ彼の判断を、しかし客人はけして許さなかった。「三郷の」と、打ち水のごとき声をもって邸の主人を凍りつかせる。
 私が異変を感じ取ったのはそのときだ。いっそ哀れなほどに怯えきった小太りの男を、かの傲慢な主人と重ね合わせることが困難だった。不安を覚えたのは詩織も同じことであったのだろう、私の傍らに身を寄せ、放り出していた指先を握っていった。
 客人が主人を振り返る――それを待つ数秒さえ、気の詰まるような時間だった。
「あなたの私財について、“血種”所持の申請は通されていないはずだ。担当が私ゆえ、まかり間違っても見まごうことはない。厳罰の対象になり得ることを、知らずした、だなどとは、よもや仰らないでしょうな」
 “血種”の存在は、名実ともに家禽の類に位置付けられる。
 その証左として、私たちを特別財と見なし、その所持にあたり官の認許を受けさせる法の存在があった。認可を受けて国の名簿に記された“血種”には莫大な資産税がかけられるようになるため、申請を渋る者も珍しくはない。市街に住み着いた“血種”らが野放しにされる理由でもあった。
 主人はひくりひくりと唇を痙攣させる。
「なにを仰っているのか、見当もつきませんが……」
 千春、と呼ばう声に力がないことは、私の耳にも明らかだった。続き、「千春」と苛立ちを込めて。主人に従おうとした私の手を、詩織は自分のもとから離さなかった。小さく首を振ってみせる。
 私は彼女を一瞥、しまいには腕を振り払って、主人のもとへと戻っていく。彼はそのことでわずかに虚勢を取り戻したらしい、ほう、と息をつき、唇の端を引き上げた。
「蘇芳のご主人は早とちりをしていらっしゃる。私がこれを迎えたのは三日と前のことではありません。申請の期限はいつまででしたか」
「可及的速やかに。日数にして七日を目途に、とする裁決が出ているはず」
「そう! ゆえに私が未申請のままでこれを手元に置いていても、なんらおかしなことはない」
 道化のように声を張り上げて、主人は私の肩を掴む。肉ごとえぐられるような痛みを受け、私はひそかに眉を寄せた。詩織が一心に自分を見つめているのに気づいて、ついと顔を逸らす。
 しかしそれを、詩織は放り置いてはくれなかった。
「いいえおかしいわ、三郷の旦那さま。だって私、先ほど彼女から、もう何年もここで働いていると聞いたばかりですもの」
 大人が一様に目を剝いたのを、彼女は意にも介さない。一歩、まるで舞台役者のように踏み出して、小さく首を振ってみせた。
「私、嘘は嫌いよ。人を傷つける嘘はもっと嫌い。いっとう愚かな過ちだわ」
 詩織の軽蔑が時を動かした。相模、と唐突に客人が呼びつけた名は、どうやら彼の付き人の名であったらしい。ほどなく長身の男が現れた。彼に近寄られるにあたり、主人は縋るような目を私に向ける。
 ――嘘だったと、告げろ、とその目が言っていた。
 前言を撤回し、令嬢の“誤解”を解くこと。それが暗黙の命だ。家畜も同然の私にとり、言いつけは神の言葉にも等しいものだった。信仰を持ったことのない私にも、その権威だけなら理解ができた。“血種”の下仕えが唇を結ぶのを見て、主人が勝ち誇ったように笑う。
 ためらいはない。私は彼に、「ざまあみろ」とだけ言い捨てた。
 主人の激昂は一秒を待たなかった。大ぶりに振りかぶった握りこぶしで、私の頬を強かに打つ。頭が揺らされた瞬間、意識は確かに霞んでいただろう。なおも私に掴みかかろうとした彼を、客人の付き人が羽交い絞めにする。
 私は唇から血を流し、口の中に鉄の味を感じながらも、主人から目を離さなかった。喉の奥から笑い声が漏れる。苦役からの解放が嬉しかったのではない、この男を自分のてのひらで突き落としてやったこと、侮りでも苛立ちでもない表情を浮かべさせてやったこと、そればかりが面白くてたまらなかった。
 主人は自分の邸から連れ出されていった。窓の向こうの向こうから、廊下の曲がり角の陰から、幾人もの使用人が私を見ているのが分かる。
 しかし私はどんなに多数の瞳よりも、まず、詩織の瞳ふたつを受け止めるのに神経を裂かねばならなかった。あわれみと、かなしみと。そして秋の露とを溶かし込んだようなまなざしが、私のどぶのような眼には、なによりも尊いものに見えた。
 着物が地を擦るのも構わず、詩織は私の前に両膝をつく。私の頬に指を添えて、ぽつり、「かわいそうに」とつぶやいた。
 客人は娘をしばらく眺めたすえ、皺の刻まれた目蓋を下ろした。
「所持申請の出されていなかった“血種”は、実質、誰のものでもない財だ。おまえの好きなようになさい」
 詩織は痛ましげに――その内心になにを思っていたのか、私には最後まで理解がつかないままだったのだが――目を伏せた。そののち、指先を自らの膝に添える。歪むところのない正座。そうして私を真正面から見据えた。
「あなたが選んで、千春」
「…………私が?」
 この娘は、ばかなのだろうか、と思った。
 考えるまでもない。この邸は首を落とした花も同じ、地に根を張っている限り花がなくとも永らえていくだろう。やがて主が放免されたとき、そこにみずからを陥れた“血種”が留まっていたとしたらどうだ。
 彼女は私の生涯を左右する立場にありながら、愚かしくもその権利を私に放り投げてみせるのだ。彼女の精神が幼いことは、それまでの言動のおかげでよくわかっていた。蝶よ花よと育てられて、何ひとつの不自由もなく今に至ったのだろう。そうした環境が、誰にも与えられて当然のものだと思っている。
 選択の余地のない選択を、真摯なふりで差し出すことにもためらいがない。
 私はうなずいた。それでも足りない顔をされたので、「一緒に行く」と言葉を足す。
 あなたに仕える、の一言は、どうにも似合わない気がしていた。詩織は花がほころぶように笑って、私のてのひらを両手で握る。切りそろえられた爪の薄桃色を、私は黙って見つめていた。――いつまでも、いつまでも、見つめていた。