イヴリシア
 彼女の忌んだ骸はいない。屹立する白石の、どこを探しても。

 雪を知らない皇国に、しかし春風の気配は未だ遠い。霜の立つような早朝、暁光は刺すほどにまぶしく、ラウラの頬をうっすらと染めていく。
 祭日にあたる聖礼日にはすすり泣きに埋もれる共同墓地も、週半ばとなれば静寂に満たされている。修道女たちの気配は彼方にぽつぽつと立つのみで、誰ひとりとして墓前の娘を気に懸ける様子はない。重畳だ、とラウラは息をつく。そうでなければラウラが父の墓を訪うことなど、もとから許されるはずもないのだった。
 呆けた墓碑の頭をなぞる――指先に、ざらりとした手ごたえ。前にここを訪れたのはいつだったか、とそらに遊ばせた思考の切れ端に、どうやら答えは見つかりそうもない。繰り返し鎖骨を叩く首飾りを握りしめて、ラウラは地に膝をついた。そうしてしなびてしまった手土産を下ろす。彼の供花にと選んだものは、ほころびきらぬ花が数本。どれも道すがらに摘み取った、名も謂れもない野花ばかりだ。
「……父様」
 ラウラの父は騎士の位を戴いていた。剛健な性質に精悍な顔立ちの合致した、生真面目な男であったという。高潔さを倦まれることこそあれ、性根を憎まれることはなく、戦においては果敢に槍を振るい兵の支柱を果たした。そのくせ女人の前ではあえなく口をつぐんでしまうような青さがいつまでも抜けなかった、と――。  どれもみな、人づてに聞いた話でしかない。ラウラが世に産声を上げたときにはもう、父は死に続く石段を、一歩また一歩と踏みしめているところだったというのだから。
「――」
 風の音の狭間に男の声を聞いた。鼓膜が揺らされたことだけに反応し、ラウラは背後に首を向ける。眼下、丘のふもとからは、インクの滲みにも似た長い影が歩み寄ってくるのが見えた。
 ふいの突風。むき出しにされた耳の端を、冷気がしびれさせていく。彼の口をついた名が果たして誰のものであったのか、早々に思考を諦めたラウラには、とうとう判じることができないままだった。






 梔子を金糸に絡ませて、その日限りの髪飾りを拵える。白銀の縁取りが施された鎧、皇国の紋が縫い取られた手袋、刃の削がれた飾り剣に至るまで、みな式典のためにとあつらえた装いである。
 マルゴス国境に跋扈する異教徒の征伐の末、ラウラが皇都への凱旋を果たして幾日。この日の正午には、奮闘した騎士らに褒美を授けるための場が予定されていた。聞けば彼らはすでに広間に集い、皇女の訪れを待っているという。早くから結構なことだと呆れもしたが、儀礼を設えねば忠義は伴わない。幼いと称される年頃をようやく抜けたばかりのラウラでさえ、よくよく心得ていることだった。
 ラウラが共同墓地から皇宮へ帰り着いたとき、朝告げの鳥はまだ鳴き声を上げていなかった。厨房の暖炉に火が入れられたのも、彼女が身の支度を終えてからのことだ。厳重に人目を避けたうえ、目付け役のロレンツ――墓地までラウラを迎えに来た男だ――が彼女を急きたてた先は、皇族の寝所から隔離された一室だった。
「殿下」
 人の気のない廊下から、ラウラは部屋の主を呼ぶ。
 その部屋を宮殿へと繋ぐ廊下に灯りは存在しない。ぽつぽつと並ぶ小窓が気休め程度の光を振りまいているばかりだ。監視の目を置くまでもなく、薄暗く小汚い道程は、無言のうちに人の足を拒んでいるのであった。
 ラウラの求め人はその先にいる。嗄れた返事が戻ったのは、呼びかけから呼吸ひとつを待ったあとのことだった。
「ラウラ?」
「はい、殿下。失礼いたします」
 断り、扉を押し開く。
 廊とは打って変わって、室内は陽の光に満ちていた。窓際には寝台がひとつ、そこに横たわる娘がひとり。ほかに目につくものはといえば、飾り台に添えられた花と、幾十の書物が並ぶ棚程度のものだ。
 ラウラは紗の降りた寝台の傍に膝を折る。寝台の娘が首を振った。
「いいの、ラウラ。顔を上げて」
「ですが」
「綺麗な衣装がよく見えないもの。……ほら、あなたにぴったり。似合っているわ」
 くたびれた顔で、彼女はうっすらと笑ってみせた。胸が引き絞られるように痛むのを、ラウラは唇の裏を噛んで堪える。
 人形のよう、と自分が称されていることを、ラウラは知っている。作り物じみた顔立ちに表情らしい表情ひとつ浮かべぬ様が、侍従のささめきに花を添えるのであろう。しかしラウラを人形と例えるならば、寝台に身を置く娘は、木偶のような姿をもってそこにあった。
 眉から顎に至るまで、顔の全面を覆い尽くす大小の火ぶくれ。棒切れのような手足には木の肌じみた斑点、皮膚に走った断続的な深いひび割れ。唯一損なわれぬまま輝く紫紺の瞳も、ラウラの姿を映し込むや否や、濃い羨望の色を宿そうとしていた。それを隠すように、娘――第一皇女は目蓋を伏せる。
 ――大陸東部を治める皇国マルゴス。
 美妃フィロメアの胎より生まれ出でた、皇女イヴリシアは醜女であった。
 年を経るごとに顔は焼けただれ、声は嗄れて身は衰えた。娘の花開くころを迎えた今も、彼女の顔立ちは枯れた毒草そのものだ。幼少の頃から表舞台に立つことは禁じられ、秘められた部屋で寝たきりの生活を送ってきた。
 ゆえに皇女の素顔を知る者は国に二十と存在しない。国の父たる皇帝と彼女を産んだ正妃、彼らにかしずく重臣、その息がかかった侍女。そしてイヴリシアの“顔”を務めるラウラのみである。
 部屋に湿気がこもらぬようにと、窓は大きく開け放たれていた。生温い風がラウラの髪をなぶる。光を含んだ金色の髪を、イヴリシアはまぶしそうに見つめていた。
「わたくしのお友達はあなただけ。跪いたりしないで。ね?」
 いつもの悪癖だ。ラウラは首肯の代わりに微苦笑を見せた。
「お戯れを。私はあなたの顔に過ぎません。名も命もない、ただの仮面でしか」
「寂しいことを言わないでちょうだい。あなたのお父様の授けてくださった、大切な名前なのでしょう? きっと、今も主のお膝元であなたを見守っていらっしゃるわ。悲しませるようなことは……」
「殿下」
 ラウラはやんわりと遮った。無意識のうちに首元へ伸びていた指先を、それとなく握りこむ。強いて唇の端を持ち上げたものの、慣れきった笑みの真似事も、今は形にならなかった。
「時間が差し迫っております。ロレンツ様も広間でお待ちのはず。まずは騎士に与えるお言葉を、私にお授けくださいませんか」
「ラウラ」
 弱々しい追及は、部屋の温度に薄れて消える。イヴリシアは力なく吐息を漏らした。
 次いで彼女の唇から紡がれたのは、騎士への労いの言葉だった。ラウラはそれを繰り返して口にする。三度の復唱を終え、ラウラがひとりで諳んじてみせるのを確かめたあと、イヴリシアは窓へと目を向けた。
「ねえラウラ、たまにはあなた自身の口で喋ってみせてもいいんじゃないかしら」
「なにを仰います。私など」
「ばれたりしないわ。あなたは何度もわたくしの声を聞いてきたのだもの。同じように話して、同じように振る舞っていれば、誰も疑わない」
 わたくしが声など授けなくとも。言葉裏に含まれた虚を悟り、ラウラは顔を逸らす。
 その拍子、鎧の内側にからりと響く音があった。
 胸元をたぐって首飾りを引き出す。細い鎖に繋がれていたものは、砂粒ほどの大きさの文字を彫り込んだ鉄の板――今は亡き父親が、ただひとつ娘に残していったものだった。ラウラは鉄板のくぼみに一度だけ指を這わせ、それを枕の横に下ろす。イヴリシアが物音を察して振り返った。
「これは……お父様の形見なのではないの」
「すぐに戻ってまいります。あなたのお名前を、あなたにお返しするために。それまで“私”を、預かっていていただけますか」
「でも」
「あなたの“友達”のお願いです。どうか」
 押し付けるようにして寝台から身を離し、言葉少なに部屋を退く。背を気にしてはいたものの、イヴリシアに呼び止められるようなことはなかった。ラウラの靴音は廊に反響し、執拗に肌を苛み続ける。
「…………ままごとだ」
 そうひとりごちた途端、先まで首飾りに触れていた指先が、行き場を失くしてかじかんだ。
 滑稽なものだった。どんなに言葉を尽くしたところで、憐憫は救いにはなりえない。それは名もない少女にとっても、身のない娘にとっても同じことだ。慰めを交わす不毛さにはとうに気が付いている。
 けれどもそうあらねば耐えられなかった。きれいごとでは立っていられなかった。だからこそ互いに互いを踏みつけて、癒えない傷を舐めあって、やっとのことで生きてきたのだ。不完全なふたつの体に、たったひとつの名前を掲げて――。
 結い上げそこねた髪束が、しどけなく肩を滑り落ちていく。それを目で追いかけて初めて、ラウラは廊に立つ男に気が付いた。縮れた暗褐色の髪、こっくりと濃い漆黒の瞳が、少女の身を竦ませる。
 彼は鷹揚に顔を上げると、ねぶるようにラウラを眼差した。
「皇女殿下のご指示は」
「いただきました。……ロレンツ様」
 ロレンツ。皇帝の頭脳にして、三人の皇女の目付け役を務める男だ。ラウラをイヴリシアの顔、すなわち公の場での代役に推挙したのも、ほかならぬ彼であった。
 その思惑は知れない。だが憶測ならば可能だ。ロレンツの係累を辿れば、第二皇女アナスタシアの母、皇帝の第二妃に辿りつく。さしあたり障害となる皇女イヴリシアを亡き者とするには、彼女の“顔”を務めるラウラの首を狩ってみせれば良い。
 従順なラウラを用いれば、イヴリシアの名を殺すのも容易いことだろう。その時がいつ訪れるのか――数月後か、あるいは彼女の成人を待つこととなるのか、傀儡に過ぎないラウラに推し量ることまではかなわなかったが。
「随分時間をかけていたな。皇女殿下になにを吹き込んだ?」
「いいえ。私からはなにも」
 続く沈黙に耐え切れず、ラウラはロレンツの横を通り過ぎようとする。
 無駄なことを、と自身を詰っていた。いくら隠しだてをしたところで、歳若い少女の胸中など、彼の瞳はたちどころに暴きたててしまうに違いない。その上で浅はかなことだと嘲笑ってみせるのだ。さながら、猫が鼠をいたぶるかのように。
「責を果たせよ、“イヴリシア”」
 応えはない。ただ足音が、惑うように響いていた。
 ラウラが歩む先、薄暗がりの廊下に果てはない。名のない少女ではその先に進めない。
 皇宮に隠された一室、あの光差す牢獄に籠められているのはラウラのほうだ。廊をくぐり人の瞳に姿を映すとき、彼女の体は、声は、――“顔”は、みなイヴリシアのものになるのだから。



 返しのついた棘のように、胸を刺したきりの声がある。
 ラウラは忌み子だった。マルゴス皇帝の正妃フィロメアと、一介の騎士に過ぎぬ男のあいだに産まれた子。長く子のなかった皇帝の前にあってはならない子供だった。
 しかし死産の名目で隠匿されていたはずのラウラの存在も、時の流れは容易く浮き彫りにしてしまう。激昂した皇帝は騎士をくびり上げた。
 ――おまえではない。
 雷のような声をもって、皇帝は叫んだという。黙した正妃の腕を掴み、これの主はおまえではないと、繰り返し男を鞭打った。
 数月にわたる私刑に終止符を打ったのは、産まれながらに顔面をただれさせた赤子、皇女イヴリシアの誕生。彼女こそ待望された皇帝と正妃の第一子であった。
 正妃は子の顔を見るなり部屋に閉じこもり、誰の呼び声にも応えなくなったという。ついに言葉を失った皇帝に、ただひとり進言を行ったのは、幼いラウラの手を引いたロレンツだった。
 ――どうぞこの娘を皇女の顔に。あなたの忌んだ罪人の娘を、と。
 皇妃フィロメアにうりふたつの娘を差し出しながら。
 後日、騎士は内密に処され、どことも知れぬ地に屠られたという。皇女の秘密とラウラの生を隠し通すために。ゆえ、修道院の墓標のもとに彼の骸など眠ってはいない。あるのは名前だけ、彼が生きた証だけ。戦場で果てたというのも、ラウラの存在を塗りつぶすための作り話だとロレンツは語った。
 おまえの父は無残に死んだ、誰に悟られることもないままで。おまえは忌み子、産まれなかった子供。おまえが百の功を打ち立てようとも、千の墓を築こうとも、おまえの名だけはけしておまえのものにはならない。
 おまえはイヴリシア。
 おまえではない。

 ――おまえではない。



 飛沫のような拍手に揺り起こされる。ラウラを我に返らせたのは、眼下に轟いた喝采の嵐だった。
 高台から見下ろした広間には、所狭しと詰め込まれた騎士たちの姿がある。懸命に頭に叩き込んだイヴリシアの言葉は、ラウラの意識を伴わずとも、彼らを活気づけるだけの意味を持ちえたようだった。
 崩れかけていた微笑を取り戻し、過去の残り香を追い払う。そうしてラウラは騎士たちに背中を向けた。石段を一歩下るたび、空気の薄くなる感覚を覚える。空になった首元はひどく冷え、呼吸をか細いものに変えていった。
「……道化だよ。脚本通りに喋ることしか知らん」
 含み笑いを聞く。
 見れば廊の脇で囁きあう男たちが、ラウラを横目に唇を歪めていた。
「厭らしい目をしている。男を誑かす目だ」
「まるで母親のようではないか」
「みなまで言うのはやめておけ、不敬をとがめられるぞ、ふふ」
「異なことを。気高き御方のことだなどとは誰も言っておらぬだろう?」
 くつくつ、からからと、笑声がラウラの肌を掠めていく。
 足を速め、しかし靴音は潜めて、一息に階段を下り終えた。途端脈打ち始めた心臓を、鎧の上から押さえつける。
 堪えるな、と呟いた。
 庭の木の枝が切り落とされるのは、ひとえに遠き陽を目指すがゆえ。堪えるせいで痛むのならば、縋りつく先など探さぬほうが身のためだ。
 いっそ棄ててくれればよかった――皇女の私室に残した首飾りを思い、ラウラは湿り気を帯びた吐息をこぼす。命と名のほか、なにを与えられることもなかったのがイヴリシアという娘だ。彼女がラウラの持つ父の遺物を暗い瞳で見つめていたことは知っていた。ならばどこかへ失くしてしまったふりをして、ラウラの名前ごと、父の形見を葬り去ってくれればいい。
 そうすればきっと、今度こそ、ラウラはラウラを忘れてやることができるというのに。
「殿下、」
 唇に呟く。
 あなたの醜い顔を、私が引き受けていたならば。
 いびつな“イヴリシア”など、どこにも生まれずに済んだのだろうか――。
「……馬鹿なことを」
 吐き捨て、妄念を振り切った。
 宮中の異変を感じ取ったのはそのときだ。先から漏れ聞こえていた侍女たちの声は、いつからか剣呑な色を宿すようになっている。そこここで回廊を踏む足音が、ラウラの鼓膜をせわしなく震わせていた。
 賊が、とひとりがこぼした。賊の侵入が。凱旋挨拶の日だというのに。早口の相談の末、ラウラを目にした娘が表情をこわばらせた。
「なにがあったのです」
 問えば、彼女は今しがた口にしたばかりの内容を繰り返す。ラウラは眉を寄せた。
「陛下の御身は」
「ご無事と伺っております。ですが、正妃様のお部屋からはまだお返事がないのだと」
「ならば妃殿下にはわたくしからお伝えします。あなた方もすみやかに退避なさい」
 初めから問答を行うつもりはなかった。咎め立てを受ける前にとラウラは廊を蹴る。
 足先を向けたのは、無論、皇妃が寝所を置く部屋ではない。来た道へと足を急がせ、イヴリシアの部屋を目指した。
「殿下!」
 しかし扉の中はもぬけの殻だ。頬を殴られたかのような衝撃に、ラウラはくらりと一歩を下がる。廊の冷気に冷やされて、頭はようやく疑問を落とした。
 どこへ――否。賊の侵入を知ったイヴリシアの向かう先が、母親の寝所以外にあるはずもなかった。なればこそ、浮かぶ問いはひとつ。
 誰が。いったい誰が、イヴリシアに賊の存在を伝えたというのか。
「ロレンツ」
 いっとき、思考が空白に染められた。途端猛然と駆け出したのは、理由を考えている余裕がないことに気付いたためだった。
 夕餉の時間にはまだ遠い。ロレンツのほかに皇女の部屋を訪れる者はいなかった。そして彼という男が、イヴリシアの取るであろう行動を予測できぬはずもない。
 ロレンツはその上で、彼女に皇妃の危機を吹き込んだのだ。
 何故――当然、目的は決まっている。
 庭園を挟んだ先の回廊に娘の姿を見た。頭巾を目深にかぶり、一直線に母の寝所を目指す横顔を。ラウラに彼女をそれと見定めさせたものは、頭巾の端からこぼれ落ちた金色の髪だった。
 呼び止めようとした、刹那、視界を影がよぎった。
 イヴリシアを追うように痩身の男が駆けていく。彼の握った短剣は鈍く輝き、ラウラの瞳をぎらりと焼いた。
 賊、の一語がラウラの頭に浮かんだのは、身を凍らせた直後のことだ。
「……イヴ、」
「イヴリシア殿下!」
 ラウラの躊躇を遮って、別の呼び声が庭園の木々を震わせる。
 聞き違えるはずもない。それがロレンツのものであることは明らかだった。ラウラは彼の声など振り切って、イヴリシアのもとへ駆け寄っていたはずだったのだ――彼に腕を取られて振り返った先、その唇が弧を描いたことに、身を凍らせるようなことさえなければ。私は皇女ではないのだと、ただの顔にすぎないのだと、あなたがそれを命じたのだろうと、叫ぶことさえできていたならば。
 しかし、ためらった。その逡巡は永遠に等しかった。
 賊が動く。
 剣が走る。
 ――その刃が、
 うすい背中に突き立てられるのを、見た。



 ……殿下。
 あなたに託されたものを、私はまだ、返すことができないでいるというのに。



 袋の鼠であった、と、衛士のひとりは誇らしげに鼻を鳴らした。
 賊は捕らえられたという。死傷者はごく少数、要人の負傷は免れたという報せは、後日伝えられたものである。“イヴリシア”の無事を喜んでみせた皇帝の唇には、しかし長く噛み締められた末の傷跡が居座っていた。
 皇宮で命を落とした娘の正体は知れない。彼女が小さなてのひらに握りしめていた首飾りのほかに、その身元を示す所持品は見つからなかったという。
 乱雑に、ただ、ラウラと刻まれただけの、安物の金属板のほかには。



 茜差す寝室に、病の残滓がこびりついている。
 夜な夜な膿を垂れ流していたためであろう、イヴリシアが身の下に敷いていた寝具にはその痕跡が濃く染みついていた。病人の重みを残した敷布のくぼみ、皺の寄った枕まで、ラウラが首飾りを手放したときのまま。ひとつ違いを挙げるとすれば、寝台の主の姿が跡形もなく消えてなくなってしまったことだけだった。
「あなたの所業なのでしょう」
 廊下に佇むロレンツに問う。
 あえかな室温が、回廊の冷気に混じって溶けた。
「皇宮に賊を招き入れたのも、殿下にそれを報せたのも、すべてあなたの企みであったのでしょう。あなたの狙いは殿下を弑すことにあった。……ならば望みはどこにあったというのですか、殿下はなぜ死なねばならなかったのですか。私を、顔を殺さないかぎり、“イヴリシア”の名は死なないというのに……!」
「よく理解している。なればこそだ」
 ロレンツの声色はあくまでも軽い。瞳に険を示したラウラに、彼はゆらりと首を傾げてみせた。
「ここで死んだのは、生まれも知れぬ醜い子供だった。皇女であるわけがなかろう。なぜなら皇女の姿は母に似て、見目麗しく整っているはずなのだから」
「皇女を、すげ替えようというのですか」
「すげ替えるも何もない。第一皇女は初めからひとりだった。おまえという娘がひとり、そうだろう? 宮中の屍を皇女だなどと呼ばわった輩はどこにもいなかったよ」
 遠縁の第二皇女アナスタシアではなく、彼は、すでに手中に置いている傀儡を選び取ったのだ。きつく奥歯を噛んだラウラを、ロレンツは鼻で笑う。
「まるで憤っているかのような顔をする。おまえとて、あれの死を望まなかったわけではあるまい」
「なにを」
「無知な娘だったろう。おまえの父親が、母親が、誰であるのかさえも知らなかった。おまえを踏みにじり、それを善と信じて疑わなかった。あれの嫉妬はたいそう心地が良かったことだろうな。だからこそおまえは動けなかった、いや、動かなかった」
「っ、ロレンツ――!」
「無力な娘から名前を奪い取った気分はどうだ。……なあ、“イヴリシア”?」
 剣を抜いた。細身の刀身はひょうと鳴き、ロレンツの首を目指す。しかし皮一枚に辛うじて吸いついたところで、刃はぴたりと動きを止めていた。
 ラウラも、ロレンツも、眉の端すら揺らさなかった。
 飾り剣に鋭利さは伴わない。けれども首の骨さえ折れぬほど、軽く作られたわけではない。わずかに震えた腕を、ラウラは意志で押さえつける。
「……ころしてやる」
 こすり合わせた奥歯の狭間、噛み殺された唸りがあった。
 ロレンツの死がもたらす損害、それが国家マルゴスに差しかけるであろう斜陽。ラウラの理性の導き出す先行きが、今は刃を引くことを訴える。しかし胸を焦がし続ける激情は、ならばいつまで、と問いを発し続けるのだった。
 果たしていつまで、彼を間近におくべきか。
 理性と激情の均衡を、一体どこにつけるべきであるのか。
 ラウラは鋭く息を吐き出した。――それを探るための生ならば、縋りつくに値する。
「あなたのてのひらで踊りましょう。けれどロレンツ、覚えておきなさい。この身はもう人形ラウラのものではない。……マルゴスの皇女、イヴリシアのそれなのだということを」
 剣を収める。しおれきった梔子が、金糸をすり抜けて落ちていく。
 上出来だ、とつぶやいて、ロレンツは唇の端をつり上げた。






 屹立する白石の群れ、その足元に、彼女の倦んだ骸は眠る。
 娘のなきがらは丁重に弔われた。醜い顔も尽きぬ苦痛も神の与えたもうた試練であろう、かの者は刻苦を乗り越え主の御許に送られたのであろう、とすすり泣いた司祭の手によって。彼女は握りしめていた名をそのまま墓碑に刻みつけ、訪れることのない父母の訪いを待ち続けている。
 山峰に沈まんとする太陽は、しかし力尽きることなく煌々と輝いていた。かれは墓地に佇む娘に光を下し、その眼前に立つ墓標へと、濃い色の影を重ねてゆく。
 ――ラウラ。
 そう告げた娘の唇が、長く細い吐息をこぼした。
「あなたが私に名前をくれた。命をくれた。そうして確かな、死をくれた。だから今度こそ、ただしく眠りにつきなさい。もう誰にも妨げられることのないように。わたくしは」
 唇を結ぶ。この名を、歴史のただなかへ。皇帝のもとへ、そして皇妃の傍らへ、……やがてはその骸のとなりまで、つれてゆきます、と添えて。
 彼方に人の呼び声を聞いた。
 娘は一度の瞬きのあと、遠く、白金にけぶった空のもとに行き場を探す。
「……ゆきましょう、イヴリシア」
 私が朽ち、あなたが産まれた。残されたのは名前がひとつ。

 ならばイヴリシア。
 この身はいつまでもあなたのものだ。

 風が強い。自らの影に背を向けて、娘は坂道を下っていった。




(墓参り小説アンソロジー「Epitaph」提出作品)


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