歯車の先
 大陸の春先、花の月の初旬。名の示す通りナシュバの花が咲き始めるこの時期、ユークシアの国家警察はにわかに活気立つ。他の学校の例に漏れず、警察学校を卒業した若者の警察署配属がちょうど同じ季節にあたるためだ。
 とはいえ、刑事局や警備局に人員が裂かれる一方で、特務課への配属人員は減少傾向にある。そのため警察本部のあちこちで喝采の上がるこの季節も、特務課の職務室は普段通りの穏やかな昼下がりを迎えていた。黙々と書類に向かい合う者もいれば、欠伸を噛み殺しながら昼休みを過ごしている者もいる。ぽっかりと晴れた陽気の下、気だるげな時間を送っているのは、レナード・ヘルツ率いる一班所属の警察官たちも例外ではない。
「よし」
 書き終えたばかりの報告書を確認し、ニールはひとつうなずいた。
 腰を伸ばせば小気味のいい音が鳴る。ここ数日というもの、絶え間なく仕事に取り組んでいたためか、体が悲鳴を上げているようだった。
「班長。班長、起きてください」
 机に突っ伏して寝息を立てていたレナードが、呼び声に応えて顔を上げた。
「……なんだ」
 低い用聞きの声におののきながら、報告書を差し出す。彼は憎しみのこもった目で紙の表面を流し見て、すぐに机の端に寄せた。はいはいと了解を示しこそすれ、ほとんど目を通してはいないのだろう。長い長い溜息は彼の不機嫌を物語っていた。
「ニール君、あのな。もう少し人の顔色を伺うべきじゃないか」
「百害あって一利なしでしょう。何年班長の下で働いていると思ってるんですか」
 そうでなくてもこっちは徹夜明けなんですから、と、軽く睨みやる。夜中からバームの工場継力機器の点検に出向かされ、やっとのことで帰ってきたのが今朝方だ。そんな案件をニールひとりに丸投げしたのは他でもないレナードである。
 一睡もしていないままの体にとり、心地よい日差しは凶器に等しい。まぶたにはおもりがぶら下がっているかのようだった。
「もう帰っていいですか」
「駄目だ」
「……あのですね、班長、そもそも俺、今日は出勤日じゃないんですよ。報告書だって明日でよかったでしょう。ベッドに入った直後に通信器を鳴らされたこっちの気持ちがわかりますか」
「悪いが、俺も人の顔色を伺えるような人間じゃないんでな」
 けろりと言って、平然とした顔で余所を見られる。ニールが苛立ちの吐露をこらえたのは意地だった。代わりに口からは大きなため息がこぼれ落ちる。
 昨夜、眠りに就こうとした瞬間に鳴り響いた通信機は、翌日の強制出勤を訴えたのだ。反抗も許されないまま署に出てきたものの、いつまで経ってもその理由は明らかにならない。長くレナードの横暴に晒されてきたニールであっても、もう笑顔を取りつくろう力は残っていなかった。
 すごすごと自分の机に戻ってきたニールに、向かい側からナタリーが手を振る。力なく顔を上げれば、神妙な表情で顔を寄せられた。
「ね、ニール君。新しい人、入ってくると思う?」
 新しい人。脳内で反復して、やっと意味を受け取る。目をこすりながら口を開いた。
「来ないんじゃありませんか。“あの”特務課ですよ」
「だよねえ」
 警察の雑用係、変人の掃き溜め、そして署内にあまねく蔓延した悪名と偏見の集まり。それらの肩書きを負うのが特務課という部署である。その創設理由――戦後処理が粗方片付き、騒動を起こしたウォルター・グライドが逮捕されてから三年が過ぎた今、新人が詰め込まれることはなくなった。一方で他の部署に目を付けられた人材が次々と引き抜かれていくため、職務室は閑散としていくばかりだ。
 新人の配属先については本人の希望がある程度考慮されるとはいえ、好き好んで特務課に就きたいと願うような者がいるはずもない。暗い噂は警察学校にも響きわたっているのだ。
「つまらないなあ。警備課の子なんか、今年は何人、去年は何人部下ができたのよーなんて自慢してくるの。腹が立つったら」
「殴らないで下さいよ」
「心外だな、女の子は殴らないよ。……ニール君、疲れてるんでしょう。ささくれ立ってる」
「もう眠くて仕方ないんですよ。なんだって出勤させられてるんですか、俺」
 そう言って机にへたりこんだニールに、ナタリーの苦笑が向けられる。
 日夜働き詰めの毎日を送っていると、自然と思い起こされるのは三年前の日々のことだった。レナードの下に配属されたがゆえに、くり返し使い走りにされた新人時代――肩肘を張りながら仕事をしていた当時に比べれば、力の抜き方を覚えた今は、随分と気が楽になったように思える。きっかけがいつだったのかと探るなら、それは間違いなく、過去の自分がしでかした命令違反にあるのだろう。
「アネットちゃんたち、元気にしているでしょうか」
 ぽつりと呟くと、ナタリーはあっと声を上げた。不審に思って顔を上げれば、荷物を探る彼女の姿が目に入る。
「今朝方手紙が届いたところだったの。ニール君にも見せようと思って、忘れちゃってた」
「彼女からですか? ……ナタリーさん、まだ連絡取ってたんですね」
「あの子、意外と筆まめだからね。今年からユークシアの高等学校に通っているんだって。ほら」
 端のくたびれた紙面を向けられる。そこには継力の専門技術やその利用法を学ぶべく、王都近郊に部屋を取った旨が、熱のこもった文章で綴られていた。
 継力関連の学術を修めるのであれば、ユークシアの王都に勝る環境は無い。併記された学校も名門だ。かつての彼女が有していた記憶能力は既に失われているというのだから、その門をくぐれたのは正真正銘彼女の実力によるものだろう。ニールは「へえ」と感心を露わにして笑う。
「ゆくゆくは技術者ですかね。それとも研究家かな」
「目標が見えれば一直線な子だから。きっと大成するよ」
 楽しみですね、と頷きを返す。熱意さえあれば道は開けるだろう。三年前、弟を追いかけ続けたように、障害の先が見えているのならばもう迷う必要はないのだ。突き進んでいくだけの胆力を、彼女は持ち合わせているのだから。
「ウィゼル君のほうはどうなんです? 書いていませんか」
「あー、それがね」
 ナタリーがひらひらと便箋を振る。現状を伝える一枚の他に紙は無く、その内容は不自然に途切れていた。
「もう一枚同封するはずだったんだろうけど、忘れちゃったのかな。送られてきたのはこれだけ」
「それは……残念ですね」
「あの子らしいけどね」
 他のことに気を取られて、それに気付かないまま送りだしてしまったのだろう。「あとでつついてやるつもり」と言ってナタリーはほくそ笑んだ。
 直後に鳴り響いたのは定刻を告げる鐘だ。昼休憩の時間を取り逃がしたことを悟り、ニールは頭を抱える。時計を睨んでも、針は規則正しく時を刻むだけだ。残された仕事の一つや二つ、探そうと思えばいくらでも見つかるが、本来休日であるはずの一日を費やす価値があるとは思えない。不承不承机上に手を伸ばしながら、ニールは苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべていた。
 ――失礼します、と。
 聞き慣れない声を耳にしたのはその時だ。
 職務室の扉が開かれ、それまでへたり込んでいたレナードが唇の端を吊り上げる。おお、と腰を浮かせたのは課長のラッセル・ヤードだ。しんと静まり返った室内を見渡して、扉に手をかけた青年は唇を引き結ぶ。
「こちら、特務課の職務室でよろしいでしょうか」
 青年の緊張は声に滲み、警察官たちにも伝播する。揃って固唾を呑んだ彼らの最奥で、ラッセルは何度も首を上下に振った。
「ああ、ああ、間違いないぞ。ほらみんな喜べ、新しい仲間の登場だ」
 喝采は上がらない。誰もが皆あんぐりと口を開け、声を発することもできずにいた。
 ニールはやっとのことで呼吸をすると、向かいの席へと視線を走らせる。
「ナタリーさん」
「なに、かな」
「手紙の続き……待たなくて、良さそうですね」
「…………そうだね」
 青年の濃青の瞳がニールを捉え、続いてナタリーを映して、最後にレナードへと辿りつく。そこで微かに彼の眉が寄せられたのを、ニールは見逃さなかった。
 顔見知りの存在を確認して緊張が取れたのだろう。青年はひとつ、深く息を吐き出してから口を開いた。
「本日より、特務課に配属されました。王立警察学校131期卒、パーセル出身、ウィゼル・レイです」
 片手に希望を、片手に諦めを握りしめた彼が、覚悟の表情で言葉を紡ぐ。
 よろしくお願いしますと締めくくられた挨拶に拍手を返す者はない。吊られるようにして頭を下げた警察官がちらほら見られるばかりだ。そこに至って満面の笑みで立ち上がったレナードの吐き出す言葉が、彼に平穏をもたらすはずもない。
 青年の配属班が決まるまで、あと、数十秒。
 ニールは彼の未来に、ひそかな同情を抱かずにはいられなかった。