碑に銘す

梶つかさ

(本文サンプル・約8000字)

 露草の深青揺らがす初夏の候、曇天は陽を通さない。道ならぬ道を踏みしだいた足は、とうに泥濘にまみれていた。
 さかのぼること五百と幾年――蒼期八年、男キリサメが先帝の寵姫の顔を見たのも、雨の気配が風を湿らせたころであったという。父の背に刻まれた、黒々とした史の痕が、ただ真ばかりを語っていたのだとすれば。
 ひときわ強い風に、木の葉がざわめいた。眼下、これから向かわんとするまちの景色には、軒下に逃げ込もうとする人の影がある。
「一雨来るか」
 ならば重畳だ。早口に呟き、おれは足を躍らせた。

 とある大罪人がいる。あれもそれも知らぬ姫にまんまと子を孕ませ、赤子だけを連れて姿をくらませた男キリサメ。
 勝手な話だと嘲るだけならばことは容易かった。古来より貴妃を手にした男の例は枚挙にいとまがない。しかし取り上げるべきは、キリサメが国救いの勇士でなければ、名を轟かす智者でもなかった点である。キリサメはただの、小役人の息子であった。
 怒り狂った先帝、そして後の世の皇帝は、むろんキリサメの罪を史に残すことをよしとしなかった。彼の名、彼の息子の名は戸籍から破り取られ、彼に連なる血族たちは身分を問わず火刑とされた。以来、同じ名を子に与える親はいない。五百年を下り、キリサメという男の存在すら忘れ去られたいまとなっても。

「ねえさん」
 声が耳を打つ。
 髪を伸ばした覚えもなければ、女御の衣を着こんだ覚えもない。ゆえ、おれのことだ、とは思わなかった。危うく行き過ぎるところであったおれの足を引き止めたのは、地に尻をついた娘の姿だ。
 町民の娘ではないな、と見て取った。襤褸の衣は捨て子のそれだ。
「ねえさん、背中を貸してはくれませんか。足をくじいてしまったもので」
「おれは男だ。おまえ、目がくらいのか」
 薄い唇をひらいて、娘はしばしおれを仰いでいた。
 そうして見ると、小さいつくりの顔立ちは思いのほかに幼いものだ。十七のおれよりひとつふたつは年若いだろうと見積もらずにはいられなかった。
「すみません、にいさん。そのとおりです。にいさんの足の音が、あんまりにも静かだったものだから」
 棒きれの足に肉はない。どこまでゆくのかと膝をついたおれに、娘はほうと息を漏らした。
「邑の南に一本杉が立っています。どうかそこまで、お願いできませんか」
「わかった」
 背負いあげてみれば、娘は安堵とも困惑ともとれぬ音色で笑う。なにがおかしいのかと問うてやると、肩甲骨に額が触れた。
「にいさんで十五人目でした。だれもおぶってくれませんでしたから、驚いて。お忙しいのではありませんか」
「なぜそう思う」
「足音を消す殿方に、お暇な方はいらっしゃいませんので」
 娘の言い分は的を射ていた。おれは折しも、父母と共に暮らしていた仮屋を、大喧嘩の果てに出てきたところだったのだ。
「父親が気狂いでな。そりが合わずに家を出た」
 行きずりの娘ならば、と考えた部分はなきにしもあらず。文無しの儒子こどもの言葉を真に受ける者もいまい。憐憫の果てにそう吐き出したおれの脳裏をよぎるのは、小刀を右手に、烈火のごとき声でおれを呼んだ父親の姿だった。
「父親ばかりではない。父親に連なる一族のすべて、おれの先祖はみな気狂いだ。ひとりの男の生涯を、背に彫り上げて遺し続けよう、などと」
 死にゆく歴史を恐れたのか、あるいはそれまでかの男の遺志のうちであったのか。
 父親が子の背中に、キリサメの生きた証を刻みこむ――それはキリサメの死後より連綿と続くならわしだった。小刀と墨を用い、要する時間は短くとも一月。父の背にこびりついた生の痕跡は、まるで呪いのようだった。
 否、あれは事実、呪いであるのだろう。継がれゆく業は、もはやキリサメひとりのものではない。役人に捉えられ、書物のように火刑にかけられた祖らの悔恨、憎悪まで、キリサメの一族は背負い続けているのだから。
 死人が追いかけてくる。背に文字を掘り入れようものなら、おれもまた死人となるのだ。それがたまらなく、恐ろしかった。
 さりとて語り聞かせる相手はみなしごだ。もとから半ばほどの理解も期待してはいない。
「つまらない話を聞かせたな」
 告げて、娘を背負い直したときだった。おれの歩調に揺らぎが出る。かたくなに距離を置くようであった娘の熱が、はじめて背に託されたのだ。
「にいさんの背は、あたたかいですね」
 ただの一字も刻まれないままの真白い背中。臆病者の背を差して、娘はささやくように、そう言ったのだった。
 無言のうちに足を急がせてすぐ、邑はずれの一本杉は、禿げた頭をのぞかせた。根元に体を下ろしてやると、娘は地面に頭を擦った。
「ありがとうございます。このご恩は忘れません」
「いい、それより」
 はだけた衣の裾からのぞく、折れそうなほどのくるぶしを目に留める。いくらか乱雑な手つきで地に下ろしたものの、娘は毛ほども痛がる様子を見せなかった。咎め立てをすべきか迷って、代わりにおれの口をついたものは、詰問には程遠い問いかけだった。
「お前、名はあるのか。親は」
「ユズと。親とは幼いころに死に別れました」
「それならユズ、どうしておれの金をとらなかった」
 足をくじいたふりをして通りすがりを捕えれば、あとは荷を抜き取るも金を抜き取るも思うがままだろう。真に盲目であったのかも疑わしい。だがおれにとり、ことの真偽は、今にも降り出さんとする雨以上の意味を持つものではなかった。
 ユズは曖昧に笑い、申し訳ありませんとふたたび頭を下げた。
「にいさんの懐があたたかいとは、曲がりなりにも思えなかったものですから。親御さまのもとを離れられるのであれば、失くすわけにはいかないでしょう」
 一本杉が体を揺らし、葉の隙間から露を落とす。たちまち勢いを増した雨に首筋を叩かれようとも、ユズは尻を落としたままだった。借りる宿もなければ腹に入れる飯もない、かばねのような娘にとってみれば、氷雨もまた針にひとしいものなのだろうかと考えた。
「ユズ」
 おれと来るか、と持ちかけたとき。
 狡猾なこの胸にあったのは、あわれみばかりではなかった。

 仮屋に戻ったおれを見るや否や、父はおれの横面を拳で打った。どこへ行っていたと怒鳴りつけてからようやく背後に立つユズの姿を認めたのだろう、十六夜月のように見開かれた目はいっそ滑稽なほどであった。
 頑強な父親に説得が通じるはずもない。おれの弁明を末まで聞き入れることもせず、父はおれとユズを納屋に放りこんだ。それから数刻、唯一引き戸がひらかれたのは、母がひっそりと握り飯を運んできたときのみだ。納屋の中が暗闇に閉ざされたいまに至っても、戸の錠は固く閉ざされたままだった。
 父親の拳は歯を折ったらしい。裂けた口内には血の味が満ちている。土間に叩きつけられた際にこびりついたのであろう泥を、おれは月の影に照らして払い落としていた。
「すみません、にいさん」
「ナツだ」
「……ナツさま、すみません。わたしからも父御さまに、ご説明さしあげるべきでした」
「気にするな、誰が言っても親父は聞かなかった」
 むしろ女子おなごが口を挟もうものなら、父の激昂はいよいよ留まるところを知らなかっただろう。あの場で切り捨てられなかっただけ、おれもユズも幸運だったというものだ。
 ユズは膝を抱えて座り込んだまま、濁った闇を見つめていた。
「ひとつお尋ねしたいことが。何故わたしを嫁にとおっしゃったのですか」
 これにはわずか、答えに窮した。
 父の二度目の拳を浴びたのは、つまるところそれが所以であった。とはいえおれの母もまた、曾祖父の拾った娘であったという。拾い子を妻とすることを退けられるいわれはない。それは父とて百も承知だろう。彼が激怒した理由は、ひとえにユズの両目が盲いことにあった。
「おまえを嘘なく親父に認めさせるには、ああ言うしかなかった。不満か」
「いいえ」
 迷いなく否定したユズの言葉尻に、続きかけた呼吸がある。話せと促せども、ユズは音なく睫毛を伏せるばかりだった。
 しじまの最中、問わんとしたことは察せられる。訊き出すまでもない。呼吸を鎮める雨音に、おれは誘われるようにして口をひらいた。
「キリサメの話はしただろう。裔に連なるおれたち一族は、背中にその一生を刻んできた。いつか天下が変わり、炭にされた書物の下から、史の芽がふたたび顔を出す日を待ちながら」
 大した欺瞞だと胸のうちで吐き捨てる。受け継いだ業さえ、もはや惰性にほかならないというのに。
「親の背に記された文字を読み取ること。子を生み血族を残し続けること。それがキリサメの一族に添う女の務めだ」
 ――蒼期八年、夏の候、男キリサメ、娘に相対す。
 ――蒼期十二年、冬の候、娘に男子おのこ生まれたり。野花にあやかりセセリと名づく。
 幼少のみぎり、寝物語のように聞かされたのはキリサメの生涯だった。縋るような母の声色を思い返すたび、おれの鼓膜は怯えに震える。
「おまえなら、読めないだろうと考えた」
「お厭なのですね」
「あれは人を食い、殺す。名も生もキリサメのものにする。書物のように焼かれるか、人知れず埋められるか、キリサメの裔を待つ道はふたつだけだ」
 おれはおれでありたかったのだろう。たといそれが、キリサメという男を今度こそ歴史に葬り去ることであったとしても。
「臆病者だ。幻滅したか」
「いいえ、けして」
 かじかんだ指先を握りこみ、ユズはおれに身を寄せる。濡れたままの衣越しに、冷えきった肌と骨の感触があった。
「わたしは、ナツさまを殺してしまいたくありません」
 夜通し降り注いだ雨は、明け方にはぱたりとやんだ。かぼそい寝息が傍らに聞こえ、やがて日が差すころになって納屋の引き戸が開かれるまで、おれは床の土埃を見つめ続けていた。
 ユズが親を失ったのは、流行り病の蔓延した季節。まだかれらの背に負われるような幼子であったころのことだったという。それをおれが聞き得たのは三年後、ユズがおれの子を腹に宿してからだった。

 粗末な家に身を寄せて、一年、二年。勘当を建前とした親との別居がおれにもたらしたものは、むせかえるような安穏だった――ただ一度、赤子、あのふかし芋のような、今にもほどけて消えそうな熱の塊が、ユズから飛び出そうとした一晩を除いては。あの夜ほどおれが胆をつぶしはしたことはなかったが、いざ産み落としてしまえば当の母親は呑気なものだ。子が泣こうがわめこうが、動じもせずに胸に抱いて笑みを浮かべているのだった。
 子は娘だった。おれがおれの父であったなら無念がることこそしようが、ひとたび血筋を分かてばそれもない。ただ平穏をと望むばかりだ。むしろ息子をと意気込んでいるのは、他ならぬユズのほうであるようだった。
「後継ぎに男子を望むなら、親父と同じだぞ」
 いつか、そうからかってやったこともある。いくばくかの本心をこめた揶揄にもユズは平然としたもので、赤子に乳をやる片手間に、おれの懸念を払いのけるのだった。
「男子がなければおさびしいでしょう」
 次はかならずと鹿爪らしく誓うユズを見たのが、共に先の話をした最後のことであったように思う。
 その日の影がまだ伸び切らぬころ、凶報は母の形をとって現れた。戸を破るようにして襤褸小屋に駆けこんだ母は、長い旅路の果てにただれた喉で、父の訃報を告げたのだ。
「逃げなさい、はやく」
 母の声を借りておれを急きたてたのは、あるいは、今朝方火にかけられたという父であったのかもしれなかった。数刻と経たずに皇帝の手が向かう――背にキリサメの史を残す者、残さぬ者の違いもつけず――血の残り香を追う野犬のように――ゆえ疾く逃げよ、キリサメの名を知る者はなべて処される――しゃがれた亡者の声に、おれはユズの手を引いて家を出た。
 馴染みの顔に赤子を預け、帝から遠ざかるように南へ。三日三晩は眠りもとりあえず足を急がせた。ユズが転べば背に負い、夜ごと耳にする蹄の音に怯え、日が昇ればまた地を蹴った。そうして何度目の月を見ただろう。ほうぼうの体をしたおれとユズを、いつしか旅の商い人さえ避けて歩くようになった。
 あとに付く帝の手が、まだあるのか、否か。判じることもやめていた。食うものも食わない日々に疲れが回っていたのかもしれない、ユズはあるときぽつりと、なつかしいですねと漏らしたのだった。
「なつかしい……」
「はじめてお会いしたときも、こうしておぶってくださいました」
 ユズが言の葉を吐き出すたびに、喉からひゅうと音がする。折しもユズは眠っていたところ、ならばうわごとか、と逡巡したが、耳を傾けぬ道理もない。そうだなと首肯だけを返してやれば、ユズの両腕に力が籠もる。
「ナツさま。……ナツさま、どうか、お願いいたします。私を棄ててお行きください。あなたひとりの足であれば、まだ遠くまでゆけるはずです」
 どうか。ナツさま。切れ切れの声を、おれはかぶりを振って押しとどめる。
「おまえがなければ、おれは歩けぬ」
 呆けた空の彼方に、悲鳴のような秋風を聞く。そこに含まれた潮の香りを、疲れ果てた鼻が嗅ぎとった。海際が近いのだろう。川沿いに山地を抜け、雑木林をかきわけて、思えば遠くまで歩いてきたものだ。ながく聞き続けた水音にも、やがて果てが訪れる。
 崖下の急流を見下ろして足を止めた。途端喉をついた吐息は、深い。
「死ぬか、ユズ」
 気の迷いではなかった。家を発って幾日、おれたちを追いまわしたのは、先帝の怨みでも書狩りの獣でもない、より篤実で真白いばかりの、死、であったのだ。かれらを振り切ることなど、とうてい無理な話だった。
 あるいはそれも、キリサメという男のもたらした呪いであったのか――あるべき爪痕を背に残さないまでも、足にはすでに祖の遺志がこびりつき、平穏な死を退けていたというのか。おれは一笑し、踵を返す。
 キリサメを殺し、おれを殺せば、業も腹を満たすことだろう。一族を焼き続けた炎も、やがて針のような雨に鎮められてゆくのだ。ならばおれの墓ひとつ、どこにも立たずとも異論はない。
 ついに黙したユズを背負い直す。ふたたび眠りについたのだろう。赤子と同じほどの熱は、ユズを拾いあげた氷雨の日から変わらなかった。棒きれのような足に肉をつけてやれなかったことが唯一の悔いだ。
 地のない虚空に、足さえ踏み出せば十分。体が傾ぎきるのを待つおれの耳には、いつまでもユズの寝息が届いていた。




 灰白の雲を流した空のもと、雨の陰りは風に消えている。新緑を踏みつけにすれば、生の匂いはたちまちに鼻孔をくすぐった。あまりの暑さに堪えかねて髪をくくり上げたのは半刻と前のことであったが、晒したままの首裏には執拗に熱が照りつけ、あろうことか痛みまでもたらすのだから救いようがなかった。
「一人旅かい、あんちゃん」
 畑を耕す男が、おれを振り向いて腰を伸ばした。玉のような汗がまぶしく光る。おお、と手を振ってやれば、男はにっかりと笑った。
「親不孝もんが。故郷さとのおっかあを泣かすんじゃねえぞ」
「ばあか。おれぁ赤ん坊のころ、散々おっかあに泣かされてんだ。いまさら泣くも泣かすもねえや」
「言いやがる、はは」
 なにくっちゃべってんだい、と、こちらは草むしりに精を出していた女が顔を上げる。男の妻だろう、不満を投げる口ぶりに遠慮はない。
「黙っていやがれ、おれは旅の兄弟に世間の厳しさってものをだなあ」
「懐が厳しいのはこちらの方さね。口より手を動かしたらどうなんだい」
 ぴしゃりと撥ね退けて、女は足元に目を戻す。男が肩をすくめてみせた。
「ったく、聞く耳持ちやしねえや」
「悪かったな、おっちゃん。長話しちまって」
「いいや、たまにはひと息つかねえと、ってなもんだ。あんちゃんみたいなよそ者も、ここいらじゃ珍しいしな」
 かつては港を兼ねていたという漁村も、数里先に別の港が作られてからというもの、すっかり精彩を欠いてしまっていた。代々継がれ続けた漁業でも村の若人を養うには足りず、くたびれた土地を耕し野菜を育てるほかには、集落を保つ術が見つからなかったと聞く。
 手ぬぐいを首に巻いた男もまた、親は漁師であったのかもしれない。にわかに親近感を覚え、おれの肩からは力が抜けた。
「なら悪いついでにもうひとつ。この村の奴らがどこに墓をつくるのか、おれに教えちゃくれないか」
「けったいなことを訊くもんだ。あんちゃん、巡礼の旅か」
「似たようなもんさ」
 長引く南下の旅程、同じやり取りを重ねて五度目。ともなれば嘘をつくのも手慣れたものだ。男は鼻の汗をぬぐい取り、おれが来た道とは反対の方向を指差した。
「海辺に墓石が並んでる。あんまり荒らさねえでやってくんな」
 礼を告げて足を急がせる。墓地は果たして、男の言う通りの方向に佇んでいた。おれは立ち並ぶ大小の石をよけながら、そこに刻まれた文字を読み取っていく。大回りに三巡を遂げ、探し人の名のないことを悟って息をついた。故郷を出て以来、およそ一月を要した旅であったが、どうやらあてが外れたらしい。
「外のお方ですか」
 高い声だった。ゆえに娘の姿を思い描いていたおれは、額を弾かれるような驚きをもって男子の顔を目に入れることになる。野花を握る指も、頭を支える首も、まだ細い。儒子であったため、声が枯れきっていなかったのだろう。
「奇特なお人もいるものだな。顔知らぬ者の墓に、どのようなご用向きがおありですか」
「人探しだ、ここで五つめになる。どうにも見当外れだったらしいが」
「女の方が男のふりをしてまで、あてのない旅をなさる。墓標があるとも限らないのに」
 知ったような口でひとりごち、男子はおれの横を行きすぎる。足を止めたのは墓地を横切った先、草がたなびくばかりの土地の上だった。
「そこに誰がいる」
「誰もおりません。夫婦の骸があるだけ」
 とぶらい人でした、と告げて男子は目を閉じる。
「十五年ほど前に、川に流されてきたところを拾った者がおります。そのときにどこぞを打ったか、五年もせずに死んでしまった」
「名は……」
 蜘蛛の糸一本、目の前に垂らされたかのような心地だった。縋りつこうとするおれを、男子は微苦笑で退ける。
「最期まで明かしませんでした。墓碑を立てられることも嫌って。だからあのふたりは、ここにはなにも持ち込まなかった。ひとり、おれを産み残したほかには」
 波をさらうかのような潮風が、男子の髪をなぶっていった。蹴れば折れそうな手足の細さは、幼さを所以としたものではないのだろう。野花が風に巻き上げられるのを、かれは微動だにせずに見送っていた。
「父御の背に、文字はあったか」
 差し出した問いに、男子は虚を突かれたように口ごもる。わずかのみ訝る趣を示したものの、おれの顔面になにを見たとも知れぬ、無言で首を振った。そうか、とつぶやいたきり、おれは唇を噛んだ。
 荷をひとつ、下ろしたような感慨がある。代わりに新たな荷を負えば、一歩の重みは微塵も変わらない。だがすくなくとも、息詰まる放浪に終わりが見えたことは確かであった。男子が眉をひそめたのは、おれの唇がおのずから笑みを浮かべたためだ。
「ながく二親を探し続けてきたが、どうやらここにも訪れていないらしい。それならもう、おれの父と母はどこにもいないのだろう。そろそろ故郷に帰るとするよ。育ての親ももう歳だ、放っておくわけにはいかないから」
 ナツとユズ、ふたつの名だけを頼りに尋ね歩いてきた。しかし子を人に預けた日から、かれらはおのれを殺していたのだろう。その生をしるす碑は、ならば、おれのほかにはどこに立つこともない。
 十分だ。遺された名と、命がおれを作るのであれば。
「ねえさん。名前を聞かせてもらえませんか」
 踵を返したおれに、呼びかける声がある。それがどんなにうれしかったことか、かれに解るはずもなかった。尋ねた後、多生の縁ですから、と言い訳じみた呟きが続くのを、おれはかかと笑ってやった。
「おれか。ヒサメってんだ、せいぜい忘れねえでくんな」
 雨を忘れた夏の候、草葉は青くその身を伸ばす。骸を孕む大地にさえわけ隔てなく若葉が芽吹くのであれば、そこに埋もれた死は、呪いは、業は、血は、名も知れぬ両足に踏みつけにされたすえ、もはや顧みられることもないのだろう。
 蒼穹に日差しが眩い。おれは旅の荷を背負い直して、自らの影を踏んでいった。
(了)

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