その下を願いたう

霜軌亜爛

 扉を引くと木々の軋む音がしたが、まだ大丈夫だ、とアウラは思いながら我が家へ入る。木の板を合わせただけの掘っ建て小屋だが、この世界ではあるだけで贅沢の部類だった。
 人々は滅んだらしい。
 いなくなったわけではない。アウラは人間だ。しかしアウラの生まれる前、何十年前に変異が起きた。
 極少数になり、過去の文明も使えなくなった中でそれは現れた。
 アウラは眼球に意識を集中させる。眼前に青白い陣が現れ、脳内に映像を映し出す。草をはむ羊は今日も穏やかだ。
「よし、脱走している子もいない」
 人々は滅びの代わりに魔法のような力を手に入れた。個々によって能力はまちまちだがどうにか暮らして生きている。
 その魔法は『神からの授かりもの』と称されていた。誰が言い始めたのか、一説では本当に神が降臨して授けたものだという。しかしそれもアウラの生まれる前のことで、彼女にとっては過去の文明も神の授かりものの真実も夢物語だった。
 生きているだけでよかった。
 彼女は陣を消失させると、扉へと向かった。そこには一輪の大きな花弁を持つ花が置いてあった。それを胸に抱えて掘立小屋をあとにした。



 巨木の根本にアウラはしゃがみこんだ。目の前には木の枝を重ね合わせただけの十字架が地面に刺さっている。胸に抱えた花を置き、指を絡める。瞼を閉じると脳裏に浮かぶひとりの人物。
「君はいつもここに来ているのかい?」
 と、頭上から不意に声が掛かった。哀しく微笑んでいた人物の幻影を消し、天を仰ぐ。巨木の太い枝に布を何層も重ねたような服を着た少年が座っていた。
「そうよ」
「そっか、そっかー」
「貴方は?」
「僕? 僕は墓守さ」
 枝が風もないのに揺れ、ざわざわと音を鳴らす。
「墓守? 何それ?」
「その名のとおり墓を守るのが役目さ」
「守る……何か変な気がする」
「どこがかな?」
「だって、何度も来たのに、貴方に会うのは初めてだもの」
「そうだね。僕もここに来たのは初めて」
「墓守って放浪するの?」
 その問いに少年は微笑みを返すだけ。
「守る役目の人が放浪ってやっぱり変なの」
「ちょっと事情があってね。でも君も不思議だと僕は思うなー」
 何で? の問い掛けの代わりに目線で続きを促す。
 少年は後ろに倒れ込むと足を支えにして、枝にぶら下がった。頭に血が上るはずだが、彼の表情は変わらず淡々と言葉を紡ぐ。
「だって、彼に墓があって、それに祈りを捧げているんだよ」
「貴方はおじいさんを知っているの?」
 脳裏に浮かんだひとつの幻影。影を抱えたおじいさん。
「うん。でも何となく君が知っている人物とも違う気がする」
「どういうこと?」
「もし良ければ、君が知る『おじいさん』について聞かせてくれないか?」
 少年はくるりと枝を芯にして一回転すると、アウラの元に舞い降りる。その動きはまるで重力を無視したかのようにかろやかだった。
「いいけど……私もそんなに知らないよ」



 あの日、脳裏に浮かんだ映像に見たこともない人物が映り込んだ。羊の間を音もなく進む老人の背は小さく、俯いた表情には憂いがあった。と、突然その姿が消えた。
 あっ、と思いアウラは掘立小屋から飛び出した。
 放牧されている三匹の羊の間を進むと、小さな落とし穴の中に老人がいた。
「大丈夫ですか?」
「おや……人がくるとは……ここが俺の墓になると思ったのだが」
「馬鹿なこと言わないでください。はい、手をとって。腰とか強く打ってないですよね?」
「地面が柔らかくてどこも痛くないな。ははっ、資格がないのに俺は幸福者だ」
 ちょっとおかしなおじいさん、とその時は思った。抱えた憂いも相まって死に急いでいるように感じる。
(この世界で死なんて、待っていれば自然に来るのに)
 母はアウラに生を託して死んだ。父も幼い頃にぱったりと倒れて以来それっきり。残ったのは掘立小屋と三匹の羊。食い物は少し歩けば実のなる樹や魚の泳ぐ川があったから困らなかった。時たま現れる人に羊の毛を渡せば喜ばれ、代わりにアウラの知らない加工品を貰うこともあった。
 おじいさんを穴から救出するとアウラは掘立小屋に彼を連れて行った。そして貰い物である加工品の煎じた葉で茶を振る舞った。
「これはこれは」
「私には合わなかったからどうぞ」
「ふふっ、この世界で茶などと思ったがそういうわけか」
 木製の茶器を持つおじいさんの姿はかっこよく中々に様になっていた。
「おじいさんは何であそこにいたの?」
「穴か? 歩いていたら落ちてしまってね」
「落ちたのは見ていたから分かるわ。そうじゃなくて、なんでふらふらしていたかってこと」
「見られていたのか、かっこ悪いところを見せたね」
「いいの、勝手に見てたから」
「……しかし、君はあの場所にいたかな? もうこんなじじいだが、君がいれば気づくと思うけど」
 おじいさんの問い掛けに見せた方が早い、とアウラは眼球に意識を集中させる。青白い幾何学模様が脳裏で一直線に繋がると、眼前に陣が現れる。
「神からの授かりものか」
「私には『視える』んです」
「流石さすがあっぱれ。他には何が出来る?」
「火種をつくるのと軽い傷なら治せます。でも水を作り出すことはできない」
 神からの授かりものには個人差があった。記憶の中の父は水を作り出すことができたが、アウラはどんなに頑張っても空の瓶に水を満たすことはできなかった。父の死後に会った大賢者は瀕死の者でも救済できる力を有していた。もっと早く着いていればと嘆いた彼女の横顔はまだ眼に残っている。
「いやいや、できるだけで凄いと思う。俺は神からの授かりものを貰えなかったからね」
「おじいさん、それって不便じゃない?」
「有しているものから見れば不便かもしれないな。でもこんな老いぼれになってまで生きている、皮肉なことにな」
 語尾の憂いにアウラは眉根を顰める。
 おじいさんは悟ったのか、音を立てて茶器を置いた。
「とにかく、生きていけるってことさ。お前さんだって水が作りだせなくても、水源には困っていないだろう」
「うん。少し歩くけど川があるから大丈夫」
 人々は滅んでしまったが、生態系が壊滅的に酷くなったわけでない。父も『水は出てもそんなに必要ないかもな』とこぼしていた。『でも重くなくていいか』と笑っていた顔に頬がほころぶ。おぼろげだったのに、今はなんとなくはっきりしていて、おじいさんによって記憶の中枢が刺激されているようだった。
「視えるのはいいかい?」
「必要ないことに思えるけど……なんとなく使っているから、いいのかもしれない。おじいさんも見つけられたしね」
 おじいさんはその言葉に対して笑うだけだった。
「それで、おじいさんはなんであんなところにいたの?」
「さぁ、じゃあその眼で俺の心を覗いてごらん?」
「そんなことできないわ」
 はぐらかそうとしたのが見て取れた。ぐいぐい行こうとしたが、おじいさんの目が笑ってないことに気づいて、アウラは口を閉じた。
「じゃあお暇するかな」
「おじいさんはしばらくここにいる?」
 椅子を引いて立ち上がったおじいさんの音に慌てて言葉を紡ぐ。
「ここ、とは、ここの家のことか?」
「いや……あの、その」
「はは、出ていくさ。でももしかしたらしばらくここをほっつき歩いているかもしれない。まぁ見つけたら声を掛けてくれ」
 頭にぽんっと手を置かれ撫でられた。
 アウラは静かに頷いた。


「すぐに遠くに行くと思ってた」
「ははっ、俺もそのつもりだったけど、たまには同じところをぐるぐる回るのもいいのかもしれない」
 数日経ち、おじいさんとの邂逅も過去のものとなった矢先に彼はまた出現した。
 羊が一声鳴き、何を見ているのかと目線の先を追う。おじいさんの背は丸まっていなかったが、憂いは現在だった。
「おじいさんはどこに行こうとしているの?」
 アウラの問い掛けにおじいさんの瞳が細くなる。
 悠々と歩く羊が穏やかで、この世界の中で自分達が浮いているようだ。
(また、だんまりかな……)
「君にお願い事をしたら聞いてくれるかな?」
「なに?」
「俺が死んだら、墓を作ってくれないか?」
「は……か?」
「なんだ知らないのか? お前の父はどうやって弔った?」
「大賢者が連れて行った。あとは分からない」
 父がどうして死したのか、今となっては分からない。突然動かなくなってそれっきりだった。どうしていいか分からず部屋の片隅に寝かせていた。それを見た大賢者は眉目を顰めて、父の骸を抱えて消えていった。
「そうか。墓というのは冷たくなって動かなくなった身体を地中に埋めることさ。俺が若い頃は燃やして灰と骨を埋めたが、お前の炎は小さいと言っていたな。土葬でいい。やってくれないか?」
「分からないけど……私でいいの?」
 おじいさんはまたアウラの頭に手を置いた。
「この土地をぐるぐる回るのは、もしかしたらここが俺の死に場所かと思ってね。もう一度君の顔をみて、そうしてもらおうと思ったんだ」
 撫でる手には力がこもっていた。
「俺の行き先は死に場所だ。こんな老いぼれ、そろそろ死ぬ。長く生き過ぎた、俺は神を拝んで早々に死すべきだった」
 おじいさんの闇が指先を伝ってアウラに覆いかぶさってくる。
「おじいさんは崩壊する前の世界を知ってる?」
「知っているさ。そして救ったのが手を取り合った少年少女だってこともな。丁度お前ぐらいの歳だな、これは縁か、はたまた因縁か」
 夢物語が突然現実を帯びてきた。もしかしたら『神からの授かりもの』を与えた神も実在するのかもしれない。
「分かった」
「ありがとう。もしよければなんだが、墓を作ったあとにはそこで祈ってくれないか。いつもじゃなくていい、気が向いた時に手を合わせて目を瞑ればいいんだ」
「うん。いいよ」


「おじいさん、これでいい?」
 祈りを捧げるのに用いるのは十字架だと誰かが言っていた。大賢者だったか、父だったかはアウラには思い出せなかったが、なんとなくつけるのがいいだろうと木の枝を重ね合わせ、おじいさんを埋めたばかりの地面に突き刺した。
 言われたとおり手を合わせ瞼を閉じる。
 瞼の裏には何も映らなかった――



「僕が知ってる彼と違う」
 墓守は服をなびかせながらおじいさんの墓を見下ろす。
「貴方はどんなおじいさんを知っているの?」
「僕の知っている奴は」
 墓守の言葉がぴたりと止まる。地響きによく似た音が脚の裏から伝わって、それは墓を突き破って現れた。
 四本のかぎ爪が地面を抉る。十字架は砕けて無残に散らばる。蜘蛛に似た形状といったところだがアウラの身体の二倍以上あり、化け物といって差支えがない生き物だった。
「逃げて」
 墓守の淡々とした声に思わずアウラは彼の服にしがみついた。浮遊しようとした墓守は動きを急停止させて彼女を見る。
「怖い?」
「違う」
「離して」
「嫌」
 否定は考えるよりも先に口からこぼれた。
「お願い、聞いて?」
 墓守の優しい声色に掴んでいた手が緩む。
「やっぱり君は良い子だなー。あ、ついでにもうひとつだけ。何もかも終わって僕が倒れていたりしたら、あいつみたいにお墓つくってほしいな」
「やっぱり嫌!」
 アウラは墓守の身体にしがみ付く。
 化け物の関節が動く不気味な音が響いていたが離したくなかった。
 おじいさんの死も父の死も受け入れられたが、彼の死は違う。自ら断とうとしている、そんな気がしたのだ。
「あれ二人で倒せない?」
「倒す? 君が? 何も持たないのに?」
 アウラは眼球に意識を集中させる。どうすれば化け物が倒せるかは分からなかったが、何も持っていないわけではなかった。
 青白い陣の先に化け物を睨む。
「仕方ないな……君、あの化け物の中に核を探して。二人とも潰れたくなかったら早く!」
 アウラの中でいくつもの幾何学模様が走っていく。痛みと耳鳴りが襲ってきたが、歯を食いしばり化け物を睨み続ける。
 何かが、化け物の中で蠢いている。赤い、焔に似た光――
 光が幾何学模様と混ざり合い、視界が白に染まる。
『コク』
 おじいさんの声色によく似た男性が誰かに問いかけている。
 白にセピア色が混ざり合いひとつの像を映し出す。
 墓守が机に腰掛けていた。その前には若い、おじいさんの姿。
『お前が導くんだ』
「コク! 胴体……の心臓部分!」
 彼の身体がするりとアウラの腕から抜ける。墓守は服の隙間から短剣を取り出すと、化け物の懐に飛び込み切っ先をねじ込んだ。
 割れる音が響いて、かぎ爪から化け物の身体が崩壊していく。
 アウラは目を凝らした。コクは崩壊が終わる時までしっかりと立っていた。



 真新しい十字架が地面に突き刺さる。
 化け物の死体はコクの手によって地中に再び埋められた。もう二度と復活することはないらしい。
 あれはおじいさんでもあった。彼は元々学者で、自身の身体もを実験として使っていた。それの副作用のせいかこういったことが起きたとコクは分析している。
「多分、君の持つ『神からの授かりもの』の力が無意識のうちに逆流していたのかもしれない。あの人が死んで制しているものがなくなったから、溜まった力で起動できたのかも」
「そんなことってあるのかしら」
「神からの授かりものはあいつが作ったからね」
 コクの目線が墓に注がれる。
「おじいさんが……」
「そう。そして僕は神からの授かりものの監視と、残った人々が生きていけるように導く役割をあいつから永遠の命とともに与えられた……全く、これで死ねると思ったのに君のせいでパーだ」
「でもいいじゃない。貴方、墓守なんでしょ?」
 アウラの問い掛けにコクの瞳が見開かれる。
「ずっと見ていてよ。おじいさんの墓」
 彼が職務を放棄して死しようとしたのはもしかしたら、人々は自分なしでも生きていけると思ったのかもしれない。アウラの妄想だったが、彼女は強く頷く。
「私も生きていくうちは何度もここに来て祈るわ」
 脳内に幾何学模様がまたたく。生かされている。
 アウラは幹に咲いた花を見つけ、それを摘み取って墓の前に置いた。
(了)

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