月夜の黒猫

青山凪紗

 私が花を供えると、隣にいた黒い猫が、にゃおと鳴いた。



 夜にこの場所へ訪れるものは三種類いた。一つは余程の物好き。一つは怖いもの知らず。そしてもう一つは、忌み嫌われる者である。少女――フレデリカ・シュトーレットがそうだった。金色に輝く髪を無造作に伸ばし、手入れこそしているが最小限に留めるなど、必要以上に自身を目立たせないようにしている。今は真っ黒な喪服に身を包み、手には白の花を携えている。夜の闇に顔と花だけが浮かんでいるようで、不気味ながらも幻想的なのは、彼女自身の美しさがなせるものだろう。
 彼女はまだ一一歳だった。
 彼女の周囲では既に七人もの人間が死んでいた。
 一人目と二人目は、彼女の両親だった。フレデリカがまだ六歳の時に、自動車の交通事故で死んだ。原形をとどめないほどに損壊し、即死だった。彼女は後部座席に乗っており、一命を取り留めたが、酷いけがを負って入院した。彼女の世話は母方の親戚がすることになった。子供を望んでいたが授からず、夫婦二人で暮らしているという。彼女は退院したらそこに住まうことになった。
 三人目は入院先の病院で同じ部屋になった九歳の少年だった。もともと病を患っていたが、安定し快復に向かっていたという。フレデリカが入院した三日後に急変してそのまま帰らぬ人となった。フレデリカは彼と二言三言しか会話したことはなかったが、あまり付き合いやすい性格ではなかった。彼女が読んでいた本を興味深そうに眺めるくせに、自分は外に出たそうにうずうずしているのが見て取れた。自分との会話も単なる暇つぶしの一環なのだろう、とフレデリカは思った。彼女は七歳になっていた。
 四人目は彼女の学校の男性教師だった。生徒に慕われ、同僚からの信頼も厚い三十代前半の、今の時代には珍しい熱血教師だった。学級内で浮いていたフレデリカを何とか馴染ませようと尽力していたが、周囲のフレデリカを疎ましく思う空気と、なにより彼女自身がそれを望んでいなかったこともありことごとく失敗した。彼は自宅のアパートで首を吊って死んでいた。遺書には『自分の力が足りなかった』という一文と、本人の署名だけが記されていた。筆跡は本人のものと一致した。フレデリカは八歳になったばかりだった。
 五人目は学校になかなか行かなくなったフレデリカを心配した親戚が雇った家庭教師だった。教え方は分かりやすいのだが、彼女はフレデリカの現状を回復しようと躍起になっていた節がある。どうして学校に行かなくなったのか、外に出たくはないのか、友達と喧嘩して行くのが恥ずかしいのか。そんな風に質問を重ねてきた。フレデリカにとっては煩わしいことこの上なく、いつも無言で返していた。その度に彼女は諦めることなく情報を集めた。亡くなる一か月前、ついに彼女は自殺した男性教師のことを突き止めた。そして二週間後には、その責がフレデリカに押し付けられていることを知った。それが表面に現れているか否かは問題ではなく、生徒だけでなく教師が、フレデリカ・シュトーレットという名前を忌避していることを感じ取った。驚くべきことに、彼女は情報を収集するために、フレデリカの通っていた学び舎にまで足を運んだのである。さらにその一週間後、どういう手段でか、男性教諭の遺書の内容を知った彼女は、フレデリカに「君は何も悪くない。君に責任はない。だから怯えたり、逃げたりする必要はないんだよ」と諭した。その効果を確認する前に、彼女は服毒によって死亡した。現場は彼女の家だった。自殺に見えるかのように細工されていたが、動転していたか恐ろしくなったかで、犯人は毒を持ち帰ってしまっていたらしく、殺人として捜査された。犯人は同級生の母親だった。動機は「自分の子供がいじめている少女を庇おうとしたから」というものだった。フレデリカはその感情が理解できなかった。犯人が逮捕されたのは、彼女は九歳になってしばらく経ってからだった。
 六人目は探偵を名乗る壮年の男だった。刑事を退職し、探偵になったという男で、フレデリカの家庭教師だった女性とは古い付き合いだった。彼女が自殺した男性教諭の遺書を確認できたのは彼のおかげらしい。女性から、『自分にもしものことがあったら頼む』と言われていたらしく、フレデリカに接触してきた。どうしてそこまでするのかと尋ねると、「彼女はお前さんのことを、不安定でほっとけないと言っていたよ」と返答された。意味は分からなかった。友人として付き合っていくうちに、彼は尾行する能力と情報を調査する能力という、探偵に向いているスキルは優秀である反面、情報を整理し、必要と不必要を分け、まとめるという作業を苦手としていることが分かった。探偵事務所に遊びに行くようになった当初は子供として厄介に扱われたが、十歳とは思えない卓越した処理能力を見るうち、探偵たちも気が変わったらしい。ただでさえ、総所員五名という小規模の探偵事務所だったため、猫の手ならぬ子供の手でも借りたいという状況だったのだろう。六人目の所員として非公式に雇われることになった。事務手伝いのような扱いだった。ご褒美は高級なチョコレートか、給与相当の品物を彼女が選んで購入するかを選ばせてもらっていた。しかし、優秀であったが故に恨まれることも多かったのか、探偵は過去に調査した浮気相手の男性に刺され重傷を負った。その時、フレデリカを家に送り届ける最中で、探偵は彼女を庇う形で深手を負い、そのまま病院に搬送されるも、昏睡。刺された場所が悪かったのか、傷が深かったのか。フレデリカはそれを知ることはなかった。彼女が十一歳の誕生日を目前にして、探偵が死んだことを聞かされた。
 七人目はフレデリカのクラスメイトだった。彼女の周囲で人が次々と死んでいることを知った子供たちは、彼女を『死神』と揶揄するようになった。その親たちも、フレデリカと遊んではいけないと言い含めていたらしい。そんな中でただ一人、彼女を気にかけて、家にプリントを届けたり、少し話をしたりするような仲になっていった。フレデリカは口数こそ少なかったが、段々と心を開いていった。せめて卒業くらいはするために、彼女は時々学校に行くようになった。フレデリカが来た日は、いつも静かさが針となって彼女を刺していた。そんなある日、彼女が学校へ登校した時。彼女と仲良くなっていった少年が、同じくらいの年齢の男子三人に囲まれているところを見た。会話も聞こえてきた。フレデリカはとっさに物陰に隠れ、その一部始終を見た。
「お前、最近フレデリカと仲良さげに話してるみたいじゃねえか」
「なんだよ、死にたいのか?」
「お前知ってるだろ、あいつが何て呼ばれてるか」
「……死神」
「ああそうだ、死神様だよ。あいつの周りで、人が次々死んでった。親だけじゃない、ちょっと関係を持っただけの人間が次々死んでる」
「でもそれは、フリッカのせいじゃない」
「フリッカだぁ?」
「いつの間に愛称で呼ぶ仲になっちゃったんだよ、お前はぁ」
「最初はお前も怖がってたくせによぉ」
「フレデリカ・シュトーレットのところに行くのは罰ゲームだ――そうじゃなかったのかよ」
「最初はそうだったさ。でも、今は」
「もういいよ。お前もどうせ死ぬんだ」
「まだわからないだろっ」
「死ぬんだからどうなってもいいだろ、自分のことなんて」
「は――」
 続きの言葉は出なかった。中心にいたリーダー格と思われる体のしっかりとした男子がいきなり彼を蹴りつけた。腹に命中したその一撃は彼の肺の中の空気を全て搾り取ったらしく、むせながらお腹を抱えてうずくまる。その様子は嗜虐をそそったようで、三人が三人とも、殴る、蹴るの暴行を加えていった。彼らからは傷だらけになる標的に手心を加えようという意思が欠片も感じ取れなかった。
 フレデリカは狼狽するとともに、心のどこかではこの結末を感じ取っていた。やっぱり彼もそうだった。私と親しくしようなんて碌な発想じゃない。少なくとも、まともな人間は考えようとしないだろう。狂人か、そうでなければ自殺志願者かのどちらかだ。私の悪名はついにそのような次元にまで到達してしまった。私はただのか弱い女の子だ。そうだったはずなのに――
 彼女は手に持ったココアを握りしめ、開封していない缶を彼らに向かって投げつけようとして、止めた。少し考えて、彼らに声をかける。
「ねえ」
 びくり、と目に見えた反応を、いじめっ子たちは返した。即座にこちらを向く。反応速度は素晴らしい。私のことを随分と警戒、というよりは怖がっていたのだなと、武道や格闘技などの戦闘経験がないフレデリカでもすぐにでも分かる。続けて、少女は少年たちに向けて心にもない言葉をかける。
「彼、私の友達なのよ。離してくれないかしら」
 何を言っているのか分からない、という顔の後、三人の表情がぐにゃりと歪んだ。見るに堪えない醜悪な表情だった。人間とはここまで残酷になれるのかとも思った。
「あ、ああ。悪かったな」
 彼もきっと形だけの謝罪だ。そんなことは微塵も思っていないに違いない。フレデリカはプルトップを開けてココアを一口飲んだ。そして、
「ありがと」
 これも心にもない言葉だ。そんな形だけの感謝とともに、ココアをリーダー格の少年に対してぶちまける。甘ったるいチョコレートの香りが辺りに散らばる。彼の顔や服を見る見るうちに茶色に染め上げて、缶の中身は早くも無くなった。うろたえる三人に向かって缶を投げつける。ポイ捨てはいけません。
「う、うわぁぁぁっ!」
「死神からのプレゼントよ。ありがたく受け取って地獄に落ちなさい」
「く、くそっ」
 創作物の三下のような台詞セリフを吐かなかっただけ優秀というべきだろうか。まあどうだっていい。私には関係のないことだった。
「さ、立てる? これに懲りたら私とは関わらない方がいいわ」
「……ありがと。でも」
「なに? まだ痛い目にあいたいの?」
「ううん。痛いのは嫌だ。でも、フリッカと話すのは楽しかったから、それも嫌だ」
「呆れた」
「呆れてくれていいよ。それに君、実は結構饒舌なんじゃない?」
「…………」
 絶句だった。どうやら彼は諦めたり、懲りたりすることを知らないようだった。彼は生傷を作っては、フレデリカと会話をするためだけに家に来るようになっていた。親戚夫婦もとても喜んだ。フレデリカは事ここに至ってようやく、彼の名前が『シーキンス・ソルナレック』ということを覚えた。互いに、フリッカ、シィと呼ぶようになってもいた。彼女たちは友人だった。紛れもなく。
 シィが死んだのは、フレデリカが根負けして彼とのデートに出かけた時だった。公園で移動販売のクレープを食べたり、ショッピングモールで服を見たり、これまでのフレデリカの生活からは考えられないほど充実した時間だった。フレデリカはシィに感謝した。
「ありがと。すっごく楽しかった」
「そう言ってもらえてうれしいよ。ね、フリッカ」
「なに?」
「またこうして遊んでくれるかな?」
「ええ、勿論」
「放課後にも?」
「……その時は、学校をサボるんじゃなく、ちゃんと行かなきゃならないのよね」
「まあ、そうなるだろうね」
「憂鬱だわ」
「そう言わないでさ。ほら、僕たちCM2で、もう少しで卒業だし、どうかな、二人とも遠くの学校コレージュに進学するっていうのは」
「……今でも迷惑かけてるのに、これ以上かけられないわ」
「僕に――じゃないよね。そっか。親代わりの人のこと、忘れてた」
「でも素敵な提案。ありがとう」
 シィははにかむように笑った。フレデリカは彼と別れ、一人帰路についた。同じころ、彼は自宅から三百メートルほど離れたところで死亡した。事故死だった。



 フレデリカが花を供えると、いつの間にか隣にいた黒猫が、にゃおと鳴いた。シィの眠る墓の前で、彼女はその猫と対峙した。金色に光る瞳が、フレデリカの髪を映して同化する。黒い艶やかな毛並みは、彼女が無理に頼んで買ってもらった喪服と性質を同じくする。
今この場、この状況において、彼女は黒猫だった。迷信では、黒猫に横切られると幸福になるというものと、不幸になるというものの二種類がある。確かこの国の南では、黒猫は『魔法の猫』で、敬意をもって接すると飼い主に幸運をもたらすのだったか。『死神』には特に関係のない話だ、とフレデリカは思った。
「なあ人間」
 そんなことを考えていたから、その声が幻聴か何かだと思った。高くもなく、低すぎもしない中性的な声。しかしどちらかと言えば女性の比重が高いような、つっけんどんながらも安心する声色が、猫の方から聞こえてきて、フレデリカは慌てて首を動かし、自分とその猫以外の存在を確認しようとした。
「無駄だよ。私たち以外は誰もいない。だからこうして話しかけてるんだからさ」
 愉快そうに猫が笑う。猫が笑顔かどうかは正確にはフレデリカは分からなかったが、そう判断せざるを得なかった。猫だ。猫が喋っている。
「なんだ? 狐につままれたような――いや、猫に化かされたような、かにゃぁ?」
 ここぞとばかりに猫要素を入れてくるあざとい黒猫だった。
「い、一体何の用、ですか」
「そう怯えるな。あ、にゃ」
「いえ、楽な方でいいですから」
「そうかにゃ? では遠慮なく」
 自由な猫だった。
「お前さん、私を飼う気はないか? 無論ただでとは言わない。お礼はしようと思っているが、どうだろう」
「お、礼?」
「ああ。例えば君のその体質の改善とか」
「なっ!?」
「『死神』と呼ばれた少女。君は確かに『死』を誘発する。それは不治の病が如き性質であるが、改善できないわけではない。言ってみれば体質の一種だ。残念ながらこの世の理とは少し外れたものだが――猫が喋るんだ。今更だろう?」
 フレデリカの周囲で頻発する死亡事故・事件のことを彼女(正確にオスかメスかをフレデリカは確認したわけではないが、彼女はその喋り方と声から猫をメスと判断した)は体質と言い切った。しかも、改善する、とまで。
「改善って……具体的には」
「君の周囲で、関わった人を死ぬ運命から少しだが開放できる。現在、君の死亡誘発体質は突発性ランダムだ。それを操作することで、『死ぬ人間』と『死なない人間』を分けることができる。それが分かれば、死ぬ人間を見張り対処することで、いくらか『死』を回避することができるようになるはずだ」
「そんなこと、本当に?」
「信用してくれていい。私は『魔女』だからな」
 ああ、やっぱり女なんだ。フレデリカの胸にそんな的外れの感想が浮かんだ。
「さて、窮屈になってきた。そろそろ戻るか」
「……戻る?」
 黒猫がにゃおん、と鳴いた後、背筋を伸ばして尻尾を立てる。月を睨み、人間の言葉で言った。
『回帰』 Revenir
 周囲に靄が立ち込める。その中で黒猫の姿は徐々に人間へと変わっていく。彼女の言葉を真に受けるならば人間に『戻っている』ということだろう。猫に変化した人間が、元通りに戻っていく。フレデリカは知らないうちに神秘の世界へと足を踏み入れたことを実感した。すっかり人間に戻った彼女は、うーんと伸びをすると、一糸まとわぬ肢体を隠そうともせずに、フレデリカへと向き直る。
「な、なんで何も着ていないんですか」
「ん? ああ。窮屈なんだよ。変化するときも邪魔だし」
 理屈があっているようで噛み合っていなかった。脱力するフレデリカをよそに、彼女は手を差し伸ばす。
「一緒に来るかい、フレデリカ・シュトーレット」
「ええ。では、あなたの名前を教えてください」
「マナ。私の名前はマナだ」
「フルネームは」
「魔女は名前を一つしか持たない。偽名こそ使えど、私はこの名前以外を捨てたんだよ。已むに已まれぬ事情があってな。聞くか? 長いぞ」
「……またの機会で」
 ここに長居をしたくない。シィの存在は間違いなく、神秘の外にあった。たとえそれが奇跡だったとしても、それを神秘的なもので上書きしてしまうのは御免だった。
「行くって、どこに行くんですか?」
「とりあえず知り合いのところへでも行こうか。極東にある島国でな。意外といいところなんだよ」
「ど、どうやって」
「魔女の移動方法と言えば、決まってるだろ。魔法さ。私の工房からひとっ跳び。滅多にできない経験ができるぞ、良かったな」
 これから先、私はどうなってしまうのだろう。内心混乱しつくしていたフレデリカは、それでも忘れなかった。
(行ってきます、シィ)
 しばらく会えなくなるだろう、たった一人の友人に、別れを告げることだけは。
(了)

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