妹とテロリズム
ドーナツ
死体安置所
妹が焼身自殺した。
「本当に見ます? そのまま引き渡せるけど」
警察官が尋ねる。安置所へ続く廊下が蛍光灯を反射して鈍く光っていた。リノリウムの白が目に突き刺さる。
「はい。お願いします」
警察官は、面倒臭そうな顔だ。
金属のドアに部屋の目的が明示されている。バリアフリーを意識した造りで段差がなく、引き戸の形式に則っていた。開かれた向こうは、長方形のフロアへ繋がっている。地下であるため窓はなかった。
「覚悟してください。普通の状態じゃない」
奥の壁に五十センチ四方ほどの引き出しが縦横に並んでいる。
「……そうでしょうね」
俺は覚悟がついていたわけではなかった。正直、恐ろしくて仕方ない。しかし、これは俺が妹に兄らしいことをしてやれる最後の機会だった。
来所者用の名簿に記名を促される。その間に警察官は帳簿をめくり、妹の遺体が収容されているボックスを確認していた。
遺体には、意外なほど臭いがない。焼け焦げ、炭化した肉に開いた眼窩と口腔が間抜けな印象だ。これがあの妹なのだろうか。博物館で殉死したミイラを眺めている気分だ。
死んだ人間は、空気が抜けた風船に似ている。力なく潰れ、歪で醜い。生きている時とは、まったく別の物体に成り果てる。父の葬式で覚えた感慨を俺は、再び味わっていた。
「どうして妹だとわかったんですか?」
引き出し型の棺を壁に戻している警察官へ声をかける。
「どうしてって。……あそこに住んでいたのは妹の洋子さんだけなんだよね? 検案所見と洋子さんの性別が一致してる。疑問の余地はないでしょう?」
洋子の体を構成していた蛋白質は、三割方、燃え尽きていた。外傷はなかったため事件性なしと判断され、解剖も行われていない。
「そうですか」
警察官が訝しそうに俺を伺った。
「何かあるの? 人に恨まれたりもないし、金関係のトラブルもないって言ってたけど」
「ええ、その通りです。ただ妹があまりに変わってしまったもので。すぐに彼女だと呑み込めないんでしょう。……すみません。動転しているんだと思います」
俺の言葉に得心し、警察官は頷いている。
「ああね。無理もないよ。まだ若いのに本当にお気の毒だ。『本間家』って言ったら、この辺りじゃ大変な名士でしょう。山だって持ってるじゃない。金に困っているわけでもないのに何を思い詰めることがあったんだろうね?」
「そうですね。……本当に」
俺は愛想笑いを返した。
実況見分
屋敷は見事に焼け落ちていた。
大正の時分に財を成した曽祖父が建てた洋館である。歴史的価値はあるのかもしれないが、役目を終えてもいい頃合いだ。
炭化した木材を蹴飛ばしながら、俺は物思いにふける。葬式の手はずは、檀那寺が整えていた。先月、父の葬儀を行ったばかりだから名簿やら何やらは、すべて揃っているという。俺のすることと言えば、弔問客に頭を下げることぐらいだ。
幸い通帳、証券類、不動産の登記書類は、耐火金庫に納められており、焼失を免れている。遺言書はなく、妹は未婚だったため法定相続人は俺ということになる。現在、財産目録を会計士が鋭意作成中だ。
「家中にガソリンを撒いて自分でも被ったらしいのよ」
葬儀の席で遠縁の叔母が身震いしている。
「あんな綺麗な子が。とても信じられない。ぞっとしちゃうわ!」
洋子は、果敢な女だった。こうと決めたら、一途にやり遂げる。子供の頃からの気質だ。
俺は、記憶の水底を十五年ばかり遡る。
あれは、たしか夏休みの前日だった。妹が公園の生垣の陰に隠れている。ランドセルの他に絵具の箱、大きな布のバッグを肩から下げていた。声をかけると眉を寄せ、口の前に指を立てている。俺も身を潜めるよう促された。
「あれ」
妹の指さす先で、ベンチに腰かけた女が本をめくっている。長い黒髪が風に流れ、輝いていた。それを押さえながら、女は、また頁を繰る。夏の日差しが気にならないのか帽子をかぶっていなかった。
不意に顔を上げ、女は俺たちのほうへ手を振った。次の瞬間、父が俺と妹のすぐ脇を通り抜けていく。俺たちに気付かず、手を振り返していた。
二人は何事か談笑している。父が女の肩を優しく押しやった。そのまま女の背中を撫でている。女の笑い声が、俺の耳にまで届いた。
突如、妹は立ち上がり、公園を外周する遊歩道へと飛び出す。慌てて追いかける俺を尻目に自宅へ続く道を急いでいた。
「……あれ、誰?」
「知らない!」
妹は、即座に答える。
「知らないって、何だよ? ふざけんな」
苛々した俺は、妹を軽く蹴飛ばした。
「止めて! 知らないんだったら!」
これ以上、暴力を振われたくなかったのだろう。妹は一目散に駈け出した。
「そうなの。妊娠してたんですって! もう驚いちゃったわよ」
翌日、玄関先で中年の女と家政婦が話している。
「中学校で先生をされていたんでしたっけ?」
「それも産休の先生の代理。恥知らずにもほどがあるわよね、まったく」
女は憤慨頻りだ。
「未婚の先生が妊娠よ。外聞が悪いったら。子供になんて話せばいいのかしら? 頭が痛いわ」
中学校の臨時教員が事故に遭ったというのが女の言である。
夏季休暇の間、プールは生徒を対象に解放されており、交替で数名の教員が監督にあたっていた。件の臨時教員は生徒を帰宅させた後に見回りを行っている途中、何かの拍子にプールへ滑落したらしい。
救急車で病院へ搬送される間に彼女は、十一週に達していた胎児を流産した。
「若いお嬢さんだし、髪を背中のほうまで伸ばしてらして本当に素敵でした。とてもそんなふうには見えませんでしたけど」
彼女は既に町を出て実家に戻っている。そこまで聞いて興味をなくし、俺は踵を返した。すぐ後ろに立っていた妹にぶつかりそうになる。
面喰っている俺を置いて妹は廊下をかけ去った。
証言記録
滑落事件のだいぶ前から母は精神に異常をきたしていた。
四六時中、家の中を歩き回り、ドアというドアを開け放つ。部屋をひとつずつ覗き、俺を見て首を傾げていた。
「いつまでいるの? 帰りなさい」
顔を会わせる度に、そう言う。
「母さん。ここは俺の家だよ。俺は、あんたの息子なんだって」
彼女は笑って取り合わなかった。
「帰りなさい」
次に家中のコンセントを抜き、ブレーカーを落とす。窓のブラインドを下ろしている母は、とても楽しそうだ。家が隅々まで暗闇に包まれる。すべてを果たし終えた彼女は、ようやく安堵し、口遊みながら自室へ戻っていった。
『我の神に近づかん。よしや優に忍びなん。われ歌ふべき吾の神に。近づかましともならん』
「……話を聞けよ。クソババア」
母が眠るのを見計らい、家政婦が家内を元通りに正す。これが日に何回となく繰り返されていた。
その中で俺と妹は暮らしていたのである。
忘れもしない八月十四日の暑熱の中、母は妹の名を呼んだ。三階のバルコニーから手招きしている。母が娘の名を口にしたのは、何か月ぶりだったろうか。
妹は母屋へ駆け寄ろうとする。母の笑顔が俺に怖気を振わせた。俺は思わず、妹に叫んだ。
「行くな!」
「何で? お母さんが呼んでるよ」
足を緩めない妹を追い、俺は彼女を突き飛ばす。すぐ傍に重量のある物体が落下した。飛沫が俺と妹を見舞う。血と肉片に塗れながら、俺は母の亡骸を見つめていた。
母の死は、俺に悲しみよりも安堵を与えた。それは父も同じであったように思う。父は、ますます家を空けるようになった。
妹だけは母の喪に服し、涙にくれる。
「私がちゃんとやってたらよかった。もっと早くやればよかった」
妹の言葉は、何を意味していたのか。尋ねてみたが、彼女は、ただ泣くだけだった。
ほどなく妹は、付近の商店から窃盗を行うようになる。いわゆる『万引き』だ。今思えば、それは彼女が正気を保つための代償行為だったのだろう。だが、当時の俺は妹が心底、恐ろしかった。狂人の兄という役回りを逃れるため、率先して窃盗に加わる。能動的に振舞い、彼女を俺に逆らえず従っている憐れな共犯者に仕立て上げた。
窃盗ではなく、『万引き』だと思いたかったのである。誰もがやっているあたり前の行為だと考えたかった。
警察に二回ほど突き出される頃には、父が通報しなかった店主に謝礼を払っているとの噂が広がる。店主たちは、俺や妹の盗んだものや盗んでもいないものを帳簿へ記すだけになった。
初潮を切欠に妹の犯罪行為は終わりを告げる。
妹は頻繁に教会へ通うようになり、俺は日常を取り戻した。
「本気なの?」
父は面喰った顔で妹を眺める。
「うん」
来春から寮のあるキリスト教系の中学校に入学したいと言う。父と俺は顔を見合わせた。宗教が悪いわけではないが、今の状況では歓迎できない。
「県外だし、寮に入るつもり」
「通うんじゃなくて?」
妹は頷いた。
「そう」
ほぼ二つ返事で父は妹の申し出を承諾する。彼女の存在に父も俺も消耗しきっていた。碌な反対もせずに送り出す。
父は、妹が家を出てから一月もしないうちに内縁の妻と籍を入れた。相手は公園で見かけた女と同一人物である。彼女はまたもや、妊娠していた。父が優秀な種馬であることは、疑いようもない。
義母は、聡明な人柄で俺の母親になろうなどとはしなかった。家事は引き続き家政婦が担っており、俺と彼女はすれ違いざまに挨拶を交わすだけの仲である。近くで見る彼女は、思っていたよりも若かった。
不起訴処分
夏になると妹が学校から帰省した。俺の心配をよそに義母と妹は、すぐさま打ち解ける。まるで姉妹のように睦まじかった。
明るい笑い声が家に満ちる。流産の件が祟り、この町に義母と付き合おうとする者はいなかった。父の手前、表立って非難はしないが、コミュニティからは完全に排斥されている。彼女は、俺には想像もつかないほど孤独だった。妹の存在は、彼女のいい気晴らしになったのだろう。
猛暑にうだる八月の末、山の出入りを許可している猟師がかけ込んできた。崖下で人間の死体を見つけたと言う。警察に連絡し、俺と父は現場に向かった。
見覚えのあるワンピース姿の義母が岩場に倒れている。岩に打ちつけられたのか腕は折れ、首はあらぬほうへ曲がり、背骨の位置も正常ではなかった。足の間を汚している血と肉塊はおそらく俺の兄弟だろう。
「目を閉じても構いませんか?」
父が警官に断りを入れ、半壊している義母の顔に触れた。いくらか形状を保っている義母の左目を瞼で隠す。
その瞬間、俺の頭にある光景が閃いた。数年前、庭に転がっていた母の死体である。母が死んだ時も父は今と同じことを言った。今と同じように警官が道を開け、父は母へ屈み込む。倒れている義母の姿は、折れ曲がった腕の位置まで母の死体と似通っていた。
「大好きだった。ごめんなさい」
通夜の席で妹は泣き通しだった。腕に包帯を巻いている。
「猫に」
そう俺に答え、忌々し気に腕を擦っていた。
大学の合格と同時に俺は家を出た。卒業後は大学のある街に就職し、実家への足は遠のく。
妹から電話があったのは、外回りを終え、クーラーの風に涼んでいた矢先だった。
「お父さん、倒れたの。今すぐどうこうはないけど、近いうちに戻ってきて」
卒中だと言う。上長に報告し、呆気なく早退、欠勤を許可された。
「ここに住むつもり」
妹は実家に戻り、父の面倒みると言い出した。
「教会の仕事は、こっちでもできるから」
父は半身不随に陥っている。看護婦を雇うにしても、若い女が実家に縛られる謂われはなかった。しかるべき施設に父を入所させるよう勧めたが、頑として譲らない。
「兄さんは心配しなくていいの。お父さんの子供じゃないんだから」
「……どういう意味だ?」
妹は首を傾げた。
「だって、お父さんがそう言ってたよ」
不思議そうにしている。
俺に問い詰められても父は黙していた。麻痺で言葉が覚つかず、筆談しようにも手の震えが止まらない。それより何より父には、話す気がなかった。
業を煮やした俺は、父を詰る。母の死、義母と二人の胎児の死をすべて父に負わせて怒鳴った。だが、妹の名を口にしそうになり、俺の言葉は立ち消える。
その時、茫洋としていた父の目玉が動き、俺を捉えた。口がゆっくりと開く。息を吐く音が断続的に響いた。
父は笑っていたのである。それから定まらない指で俺と自分を指差した。
「……な……お……あ、あ」
何の意味もなさない音の羅列。しかし、俺には間違えようもなく、ある警句が伝わってきた。
『同じ穴の貉』
堪らず、父の部屋から飛び出す。入れ違いに入ってきた看護師の女に俺は目を奪われた。背格好、年の頃が母と似通っている。
「どうもありがとう」
部屋の外に妹が立っていた。俺は震えあがる。妹の容姿は母の踏襲であると、その時、初めて気がついた。
主文
蟻が列をなし、墓の前を歩いている。俺は墓に仲良く並んで納まっている母と妹、義母、父の骨について考えた。最後の邂逅の際に見た妹と看護師の類似性が頭にもたげてくる。しかし、荼毘にふされた妹の遺灰を確かめる術はなかった。
憶測を振り払い、俺は墓石に手を合わせる。聖書の一節を唱えていた母の姿が目蓋に浮かんでいた。
(了)
Epitaph;墓参りアンソロジー Web版