墓木已に拱す
二条空也
紙提灯を忘れたことに気がついたのは、墓参りも終盤に差し掛かった頃だった。未練がましく足元を見回しても、小石と雑草と目が合うばかりで、影も形もありはしない。持って来ていないのだから当たり前である。夏の名残を残す強い日差しが、うんざりと肌を焼く。取りに戻らねばならないだろう。あれがなければ、墓参りそのものの意味がない。
大きな集合墓地であれば管理人から貸してもらうことも叶うのだろうが、躑躅家先祖代々之墓が存在するのは田んぼの中の長閑な一角だ。墓石の数は全部で二十五。そのうち六が道祖神。昔は七つあったという道祖神は、雅が記憶している時にはすでに六と半分くらいになっていた。つまりは欠けたまま放置されていた。そんな風でいいのかとも思うが、手向けの線香と花だけはその半分の前にも置かれているので、もしかすると最初からそうであったのかも知れない。
墓石の残り十九のうち、じつに十五が躑躅家先祖代々之墓。そのうちひとつが雅の、いわゆる本家が管理しているものだった。あとは親戚だの新宅だの分家だの腹違いさんだの、果ては妾腹さんだのが筋となっているもので、そこまで行くともうどこの誰が参っているものなのか、ちっとも分からなくなる。それでも、それらの躑躅家先祖代々之墓の群れはひとつとして打ち捨てられた風ではなかったから、その家の末裔がきちんと管理しているのだろう。
つまりは本家の血に、なにかしら関係する者が近所に住んでいるということなのだが、生まれて二十余年が経過しつつある現在であっても、正確な把握ができないままだった。なにせ、このあたり一帯が躑躅さんなのである。あまりに躑躅さんすぎて表札が出ていないので、毎年お中元の時期になると、新人配達員が地図を片手に半泣きで玄関の前に立つのが風物詩だ。ちなみに、玄関先にも表札など存在していない。とりあえず躑躅さんだからである。住民は基本的に屋号で呼び合うので、苗字など有って無いに等しい有様だ。おかげで雅は中学で遠方の私立学校へぽんと放られるまで、屋号がない、という家が存在することを知らなかった。
画数が多すぎて暗号や呪術めいた躑躅家先祖代々之墓に取り囲まれながら、雅はため息をつき、水で満ちた桶を見下ろした。古い頃には苔生す木桶であった筈のそれは、いつの間にかプラスチック製のものに変わっていた。柄杓もプラスチック、ただし両方に木目のプリントとつや消し加工がしてある代物だ。ここまでするなら木製のもののままでもよかった気がするが、水を入れた時の重みが段違いであったので、運んでくるのはたいそう楽だった。運ぶといっても蛇口から墓までは、十メートルもないのだが。
墓地に落ちる、生きた影はひとつきりだった。だらだらと紙提灯を探してさ迷っていた視線が、ようやく諦めて墓石へと戻る。あとは水をかけて生けられた花を手直しして、線香を追加で手向け、帰りになる筈だったのだが。二週間ほどお盆を過ぎた晴れ空の下、雅は墓石と向き合った。厳かな顔で宣言する。
「一時停止でお願いします」
たっかたっかと家まで駆け戻る。普通に歩いても五分もしないので、二分ほどの道のりである。それでも肩で息をする運動不足を痛感しながら、雅はただいまも言わずに玄関を開けた。どっ、と熱量が忍び込む。笑い声がはじけたので、雅はなんとも言えない気持ちで玄関を見下ろした。所狭しと脱ぎ捨てられた靴が洪水を起こしている。雅でもまだ把握できる範囲の、親戚が来ているらしい。飲みに。居間に続く廊下に、ごろごろと缶ビールが転がっていた。溢れて来たに違いない。
この、躑躅家お盆過ぎたよおめでとうの宴からどう逃れるか考える雅に、あら、とのんびりとした声がかかった。
「おかえりなさい……?」
「おかえりなさらない……。お母さん、紙提灯忘れた」
「あら、あらあら。うっかりさん。……ところで、飲んでいく?」
はい、と満面の笑みで差し出されるのはきらめく金の缶ビール。二十を過ぎてからというものの、ことあるごとにとりあえず飲ませようとするのは本当にどうにかならないものか。飲ま、ない、と強調しながら言い放ち、雅は深く息を吐き出した。終わったらさっさと家に帰ろう。己の肝臓の健康の為、就職してすぐ実家を離れた判断を褒め称えながら、雅は残念そうな顔で缶ビールを開ける母親を見た。
「ところでお母様、紙提灯を知りませんでしょうか。お願い飲んでないで聞いてお願い」
「それ?」
指差す先、玄関の隅。溢れる靴の上に、赤い紙提灯がぽんと置かれている。折りたたまれたひたべったい円の中心には、頼りないろうそくが一本。入ってきた時には気がつかなかった、というか。そんなものが靴の上に置かれていたのなら、すぐ分かる筈なのだが。言い知れない気持ちで沈黙する雅に、よかったわねぇ、とのんびりした声が穏やかに告げる。
「探す手間が省けて」
躑躅家家訓。お盆前後の細かいことを気にするな、を頭の中で十回唱え、雅は紙提灯を手に取った。本当はその後、気になるならば忘れよう酒で、が入るのだが肝臓が死ぬので参加する気にはなれなかった。居間から聞こえてくる、メリーさんの方が可愛かった来るならメリーさんがいいメリーさんスマホの電池が切れても着信させてくれるし可愛いしほんと、ほんとまじメリーさんがよかったメリーさんがいい、という泣き声交じりの悲鳴は聞こえなかったことにした。分家の陽一さん(二十六歳独身)は今年もモテモテだったらしい。
ちなみに今年の、人類以外のなににもてたいか躑躅家総選挙によると、ぶっちぎり第一位が座敷わらしさんだった。そんなのにもてたら雅だってその場で結婚を申し込む。そして宝くじを買う。当選金で南の国へ飛んで暮らしてお盆前後に怪異に巻き込まれる所まで想像し、うんざりして、雅は紙提灯を手にたっかたっかとさわがしい実家を後にした。なにせ一時停止をお願いしてきたので、戻らない訳にはいかないのである。樽単位で酒が消えていく宴になど参加してたまるものか。
そもそも雅には参加する理由がない。分家の陽一さん(二十六歳独身イケメン)のように、古今東西怪奇現象都市伝説妖怪果ては神仏にまでもてもてで困っちゃっている訳ではないのだし。お盆の間だったらアプローチしてもいいよでもその他の期間では控えてね、と人類以外のなにかと交渉をして約束を勝ち取ってきた躑躅家先祖の誰かしらのせいで、今年も分家の陽一さん(二十六歳独身イケメン趣味読書)は本当に大変だったらしい。
お盆に日本にいなければいいのではないか、とブラジルに逃げようとしたらしいが何故か飛行機が飛ばなかったとのことだ。ざまぁ、と笑ったらお盆初日の電話口で泣かれた。分家の陽一さん(二十六歳独身イケメン趣味読書)は涙腺が弱い。すぐに泣くイケメンとかどいうことだ爆ぜろ。そんなだからすぐ変質者に狙われるんだ泣いた顔もイケメンとかどういうことだ崩壊しろ、と成人式の時にも注意してやったのに、全くもって改善する気配が無い。
魑魅魍魎怪奇現象都市伝説神仏を全部まとめて変質者扱いする雑なみぃちゃんには僕の気持ちなんて分からない、とさめざめ嘆かれた正月には、顔面狙いでこぶしを叩き込んで差し上げた。年上の淑女に向かって雑とはなにごとだあの男。初恋がメリーさんのくせに。まさかもしやそのメリーさんの初恋が雅だったことをまだ逆恨んでいるのだろうか。しつこい男は嫌われろ。こっちはあまりの変質者もてもてっぷりに敬意を表してさん付けして呼んでやっているというのに。
雅は二分の道のりをたっかたっかと走り抜けて決意した。さっさと終わらせて帰ろう。分家の陽一さん(二十六歳独身イケメン趣味読書性格泣き虫)が完璧な酔っ払いに進化する前に。
「あ。一時停止ありがとうございました。お待たせしました」
空中の見えない一時停止ボタンを連打し、雅はああ疲れた精神的にと息を吐き出しながら、紙提灯を墓の隅にぺいっと置いた。ぬるくなったであろう水を柄杓ですくい、墓石の上から流しかける。ざっぱんざっぱん勢いよくすくっては叩きかける雅の仕草は、墓参りというより祭りめいていたが、誰も咎める者はなかった。お盆は半月前に終わっている。墓場にはやはり誰もいなかった。生きる影で踊るのは雅しかいない。
やれ直系の娘が、やれ本家の娘が盆期間に帰ってこられないだなんてとねちねち嫌味を言った親戚どもを思い出し、雅は苛々とプラスチックの桶を墓石の上でひっくりかえした。さばばばどばっと桶の容量にあるまじき勢いで十数秒水が流れるのはどうしてかなど、考えたら負けである。世の中には科学で解明できない不思議なことがたくさんあるのであって、頭を冷やせ親戚ども、という気持ちが反映されただなんてことはない。ないったらない。絶対ない。しかしながら親戚ども絶許。毎日箪笥の角に足の小指でもぶつけて骨を折れ。
手馴れた仕草で萎れた花の向きを整え、燃え尽きかけていた線香を慌てて追加する。細い香りの糸は、どんなに速くても墓地から出るまでは途絶えさせてはならない。危なかったこちらを一時停止させるのを忘れていたと思いながら、雅は置き去りにしていた鞄を漁り、予備の線香を取り出し、凝視した。記憶が確かなら、雅はきちんと、みんな大好き毎日香、を半ダース持ってきた筈なのだが。これだけは絶やしたらいけないと、出掛けに八回も確認したせいで、根本的な目的を見失いかねない忘れ物をして、たっかたっかと家に駆け戻るはめになったのだが。
一箱は、まろやかミルクチョコレイトの香り線香。一箱は、濃厚焦がしミルクキャラメルの香り線香。一箱は、牧場の絞りたてミルクソフトクリームの香り線香。一箱は、ミルクたっぷりエスプレッソの香り線香。一箱は、抹茶ミルクの香り線香。もう一箱は素麺だった。三度見しても素麺だった。四回確認してもやはり素麺だったので、雅は無言で躑躅家先祖代々之墓、本家の線香箱の中に手を突っ込んだ。先ほどの追加分を回収して素麺を突っ込む。周囲から小洒落たカフェテリアの香りがする中で素麺でも燃やしていればいい。
やたらとミルク感溢れる線香の束にまとめて火をつけて、雅はそれを、他の躑躅家先祖代々之墓へ配って歩いた。本家の墓を十二時として、そこから時計回りに。四つほど、躑躅家とは名の異なる墓もあるが、そこにも例年通りにきちんと配る。本家をカフェの良い香りで取り囲んでねえどんな気持ちねえねえいまどんな気持ち線香じゃなくて素麺にされてねえねえ、とかしてやりたいのでご協力くださいなにとぞほんとマジ、と念じながら配り、最後に墓場の入り口の道祖神の元へ行く。道祖神には線香を一本づつ備える。昔からの決め事だった。一度だけ手を合わせてしっかりと頭を下げた。
本家の墓石の前まで戻れば、ぶすぶすと不満げな音を立てて毎日香が燃えていた。線香箱に突っ込んだ筈の素麺は、いつの間にか毎日香に進化していた。雅は白んだ目でそれを眺め、小洒落たミルク感溢れるカフェの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。我慢できないのなら、最初からしなければいいものを。呆れて眺めているうちに、ぶっすぶすぶすと不満げな燻った音を立て、毎日香はどんどん燃えていく。ため息をつきながら鞄の底に零れていた各種線香を追加して、雅は紙提灯を手に取った。墓場から出る前に、煙が絶えることがあってはならない。お盆が半月前に終わっていようとも。
紙提灯の中には、入れた覚えのないマッチの箱が入っていた。線香に火をつけるのに使った、製菓用ガスバーナーでは不満らしい。マッチを擦る。一度で、意地のように火が燃えた。火を蝋燭に宿し、雅は紙提灯を手に立ち上がる。火は赤く、ゆらゆらと揺れている。墓地に落ちる火の影は、雅と手を繋ぐひとの形をしていた。幼子だ。それを確認してから、雅はゆっくりと歩き出した。ゆら、ゆら、火が揺れている。て、て、てっ、と幼子は同じ速度でついて歩いた。
五分で戻る道のりは、なぜか十五分かかった。半月遅くなったのがご不満らしい。それでしたらお盆に休まなかった弊社をアレしてくださいませんでしょうかと玄関口で肩を大きく上下させながら息を整えつつ考え、雅はなまぬるい笑みで頷いた。そういえばお盆の初日、営業の携帯とパソコンのメールボックスが謎の宛先から電話とメール爆撃を受けて壊滅していた。帰れ帰れと言われたらしい。メールもその単語しか書かれていなかったらしい。らしい、というのは雅本人がその被害を受けなかったからである。
みぃちゃんラブ勢は本人には直に言えない恥ずかしがりやさんばかりなんだからあぁああ分かってあげてよおおおお、と分家の陽一さん(二十六歳独身イケメン趣味読書性格泣き虫)が訴えてきていた記憶がうっすらと残っているが、お客様営業時間に私的な用事はご遠慮くださいこっちは営業の泣き言を聞くので忙しいんだと電話を叩き切ってからは一度もかかってこなかったのでなにかの勘違いだろう。おかげで営業以下事務職すべてに至るまで、お盆が終わって半月後に一週間の休暇と相成った。社長や重役は伊勢神宮まで行くらしい。会社の経費で伊勢旅行いいな、と呟いた雅に同意してくれる同僚は一人もいなかった。
雅さんてもしかして寺生まれのTさんなのと謎の質問をされたので、いえ平々凡々一般家庭です、と言っておいた。お盆期間の怪奇現象に事欠かず、お盆後に消費される酒の量が尋常ではないだけである。言わなかったが。事務職には徒歩十五分ですらつらいと玄関先で呻いていると、紙提灯から火がひとりでに消えた。落ちた幼子のかたちをした影はてしてしと雑な動きで雅の頭を撫で、ひいいいいだのぴぎゃあああだのうあああああだの、とにかく騒がしくやかましい居間に向かって、て、て、て、と歩いていなくなる。さて本家の娘として役目は果たしたことだし。退散しなければ。
なぜか焼け焦げた素麺の束が入っている鞄をつかみ、雅は玄関の扉に手をかけた。おつかれさまでしたまた来年。そう胸のうちだけで呟いて、出て行こうとしたのだが。
「行かせる訳がないよね……!」
がっ、と手をつかんで内鍵を閉められ、雅は舌打ちをしながら振り返った。
「ちょっと離してくださいませんか分家の陽一さん」
「メリーさんが教えてくれなかったらみぃちゃん帰るところだったでしょ……! おばさん、みぃちゃんが帰ろうとしてるよー!」
「あっ、ちょっとお母さんに言いつけるんじゃないっ! この! あとメリーさんに売られた!」
聞けばメリーさんとはライン友達らしい。それは本当に私たちの知るメリーさんなのでしょうか違うんじゃないですかと言えば、でもみぃちゃんの昔のパンツの色知ってたよというので、雅は分家の陽一さんをためらわず殴った。おまえ誰の許可を得てその話題を出した。あらあらとやってきた雅の母親は、頬を押さえて廊下に倒れる分家の陽一さん(二十六歳)を眺めた。
「雅ちゃんたら。本当に陽一くんの顔が嫌いねえ……。え? 帰るの? 飲まないの?」
「帰るし飲みませんし帰りたいです」
「でも、そうすると誰がお見送りするの? 駄目よ、雅ちゃん。送り迎えは雅ちゃんのお役目なのだから」
いやでも本当は誰でも良い筈ですよねその役目、と言いかけて、雅は持っていた鞄に視線を落とした。鞄を。持っていた筈だったのだが。腕から忽然と、鞄が消えている。鞄がないということは携帯もないしお財布もないしクレジットカードも銀行通帳も、家の鍵もないということである。おい誰の許可を得て紛失させたとすわった目で呟く雅の腕を、復活した陽一が引く。分家の陽一さん(二十六歳独身イケメン趣味読書性格泣き虫)は、ふっ、と勝ち誇った顔つきで笑った。
「梅酒冷やしておいたよ……!」
イケメン誰の許可を得て私の酒の好みを把握した、と叫びながら蹴り倒すと、居間に続く廊下の端で、影がきゃらきゃらと踊っているのが見えた。梅酒は大変おいしかった。
(了)
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