佛血義理

蝶々

 薄いオレンジのロングワンピースに、長いベージュのストール。足元は低めのミュールに、腕には上品なブレスレットと時計が並んでいる。
 風にそよぐ茶髪は、つやつやとストレートに伸ばされていて、お嬢様然としたその様相をさらに際立たせている。
 墓には似合わないような、ひまわりを基調として花を散らした、まるでブーケのような花束を持った彼女は、静かにそこに立っていた。
 その日は気持ちいい秋晴れだった。ここしばらく天気が崩れていたのに、急にぱっと晴れたのだ。
 せみはもうだいぶ静かだ。彼女の茶色の髪が揺れる音と、森のざわめきだけがこだます。
 二十代半ば。涙も流さなければ微笑みもしない、静かな表情。
 その表情が、瞬間、揺らいだ。
 そして大胆にも墓石に花をぶっ叩きつけて女は叫んだ。

「勝手に死んでんじゃねーよ、バーカ!!」

 彼女はこの霊園までバイクで来ていた。愛車のナナハンは軽くデコられ、族時代の名残である「走死走愛」だとか「佛血義理」だとかいう文字がステッカーとして張られている。昔はネオンもつけていたが、今はバッテリーを食うからと外してしまっている。座席の後ろには横断幕とも言えそうな旗もくくりつけて、ばさばさと重くはためくそれをなんとかひるがえして、風を切って駆けた。
 数年前まで彼女の所属は中日本最強の暴走族だった。山多き谷多きの地形を乗りこなし、傘下一千の仲間を可愛がり、叱り、そして仲間曰く二年間従えた「名総長」だった。中部のショーコと聞けば走り屋までも逃げていくと恐れられた女だった。
 二十四を最後に引退してからは、知り合いの――これもまた不思議な話だが――某有名服飾デザイナーの専属モデルとして活動している。
 彼女はぶっ叩いた花を拾い上げて、中身を適当にわさわさと二つに割った。まだ新しい墓石は輝いていた。花筒をささっと洗って水あかを落として、水を足してやる。分けた花を挿して、頭の上から水をかぶせてやった。


 墓の中にいるのは本人ではないと、いつかどこかで聞いた。中にいるのは仏だと、本人はどこにも――どこにもいないのだと。
 連絡を受けたのは昨日だった。昔の仲間の多くとは縁を切っていたが、探し当ててきたのは当時の仲間でも上層部だった、今では副総長を務めるアキナだった。
『この番号は覚えてるぞアキナ。機種変したのによくわかったな』
『調べました』
『でももう関係ないんだから連絡は二度とするなとあれほど』
 いいえ、……いえ。アキナが歯切れ悪く、しどろもどろに、口が重い。そんなぼったい口を利くような女だったろうか。記憶遠く、いまいちよく思い出せない。番号は覚えているのに。
『ショーコさん、ユキアさんが』
『ユキアがどうした。引退するとでも言ったか』
『いえ』
『ならどうした。用がないなら切るぞ』
 いらいらしてケータイを耳から離したのに、その言葉は耳によく響いた。
『ユキアさんが死にました』
 あの瞬間の冷たいアキナの声、止まったみたいな無音。まるでなんでもないことを言うような。
『は』
『ユキアさんが』
『根も葉もない冗談はやめろ、死んだ? そんなタマかあいつが』
『でも死んだんです』
 でも死んだんです、あたしだって信じたくねえですよ。アキナが半分泣きそうになりながら言うのが、どうしても信じられなかった。


 いつ、どこで、どうして。それすらも訊ける余裕がなかった。頭の中がすっからかんだった。バイクに乗って無心で走っている時とは違うすっからかんだった。
 モデルをしている間、ショーコは笑っていられた。デザイナーは身内で、仕事を探している、事務でもなんでもやると伝えると、仕方ないなあと言ってモデルに使ってくれた。おかげで専属ではなくうちにも来ないかと引き抜きがあるほどだ。
 そうやって楽しく仕事をしている間、ユキアはどうしていたのだろう。泣いていたのだろうか。またバイクですっころげてギプスでも巻いただろうか。仲間に慕われて静かに笑っていただろうか。
 総長を辞めて族を抜けると言ったあの日、一緒に抜けないかと誘ったユキアはしかし残ると言った。
『いままで姉貴が守ってくださってたこの族を、今はまだやめたくないんです』
 だから総長の座を譲り渡した。先代から受けたワインレッドの正装を譲って、よく似合ってるよと笑うとユキアは泣いた。
「ユキア」
 泣き虫だった。それはもうしょっちゅう泣く女だった。姉貴ぃ、とずびずび泣いては年上の部下にあやされていた。
 そのくせバイクに乗ったら別人だった。過度にバイクをスピンさせたり、爆速で峠を抜けていくのが好きだった。
 駆け抜けるとき、ユキアは水族館で目を輝かせる子どものようだった。無邪気で、もう高校も終えたくせにほんとうに小学生のような。
 そのユキアが、死んだ?

 
 ぶつけた拍子に散った花が、流した水に乗った。墓に水をかけてやるほど哀しみを忘れられると言ったのは、誰だっただろう。水に流して忘れられるなら、水道が枯れるほどかけてやるのに。
 ショーコは立ち上がった。ここにいるのは仏だった。仏に会っても、ユキアに会うことはできない。
 スマホを取り出し、履歴から番号を呼び出す。四コールほどで相手は出た。
「……ショーコさん、どうされましたか」
「アキナ。昨日は適当に切って悪かった。墓の場所、わかったよ」
「じゃあ今ユキアさんのところに?」
 向こうは今からでも行きますと言わんばかりの勢いで返事を返してくるが、ゆっくり、返答をする。
「いや、ここにユキアがいるようには思えんな。……なんで死んだんだ」
「なんでって」
「原因だよ」
 からっぽだった。びっくりするぐらいするりとその言葉が出た。
 アキナは平然としていた。昨日と打って変わって冷たさはなかった。泣きもしない代わりに。
「事故です」
「事故」
「いつもみたいに峠で回してて」
「あの峠狂いが?」
 疑るように訊いてしまったので、アキナがひどい、と拗ねたような声を出す。
「嘘なんかついてませんよ」
 勘弁してください、とアキナが言う。もう何十人に話したというような口ぶりだ。
「どこの」
「いつもの峠です。針山の」
 おい待て、とショーコは止める。
「もうあいつ、そこを何千回回したと思ってる。あたしでもそんなところで死ぬか普通」
「でもそうなんです」
 誰かにやられたんじゃないのか。つい口走ってしまう。
「誰かに狙われてたとかないのか」
「ないです。ショーコさんに似て後輩をバカ可愛がりする総長だったので」
「でもどこかで不満は出てくる。……あいつはひとりじゃ走らない。一緒に回してたやつが誰かいるだろう、誰かいないのか」
「ひとりいますが、確実に違うと思いますよショーコさん」
「誰だ」
 確実に違うなどと、笑わせたもの。そう思って訊いてやったのに、返答で閉口した。

「アタシです、ショーコさん」

「……お前が、最後まで一緒だったのか、アキナ」
「はい」
 そうです。その声が震えているように聞こえたのは聞き間違いではなかったと思う。
「缶が、」
 電話の向こうの声がどんどんか細くなっていく。
「缶が転がっていて、アタシも気づいてなくて。踏んで、峠に、峠にユキアさんが放り出されて」
 しばらく、声が届かなくなった。嗚咽こそ聞こえないが、バイクのふかす音が聞こえる。泣くなアキナ、泣くな……。
「……からだは?」
「…………まだ」
 抜け殻ならば、あくまでも墓ではない。中身がないのに墓などと、笑わせる……。


「油断するから死ぬんだよ、ユキア」
 風が吹き上げて来る。髪が舞った。デザイナーに伸ばせと言われた茶髪が、無造作に暴れる。
 バイクと一緒に落ちたというユキア。今も、この峠の下にいるという。ここは切り立ったような崖になっていて、人が下りていけるような場所ではない。
 懐かしい道だった。この峠は本当によく走った。今でこそ使うことのない道だが、当時は大勢連れて走らせた。
「ユキア。……満足か」
 ガードレールから見下ろして、下を見る。木々が険しいので、下はよく見えない。
「バイクと一緒に逝けて、満足か。あたしに二度と会わずに」
 会うなと言ったのはショーコだった。身勝手はわかっていて、文句をつける。
「からだすらも拾ってもらえないようなところに落ちて、満足か、ユキア」


 いつかユキアが言った。
『バイク乗って死ねたら、本望なんですけどねえ』
 あたしはそれに返した。
『バイクまで一緒におしゃかにするのは、あたしはいやだよ』
『そうですか? この子なら一緒についてくれる気がしてます』
 フロントをこつこつとノックして、ユキアは笑った。
『畳の上で死にたい日本人の思想と、バイクと死にたいあたしの思想は似てると思うんです』


 吹き抜ける風が、否応なく髪を煽っていく。大事に大事にと、デザイナーやヘアアーティストたちによって伸ばされてきた髪が、あられもなくばらばらと舞う。
 仕事をさぼった。さぼって抜けてきて、うるさいケータイも電源を落として、今晩は心配させてと怒られるに違いない。
 だけどユキア。あんたを心配する人がいない。あんたの心配をした人がいたはずなのに、ユキア。もうだれも、あんたの心配をしない。
 またすりむいてと叱ってばんそうこうを貼ってくれる愛も、バカみたいにバイクを転がすなとげんこつをする愛も、あんたのそばにはもうないんだよ。
 そんなところに、ひとりでいるんじゃあ。
 ねえユキア。手が届かなくなってから、会いたかったのにと駄々をこねる。
 あんなにかわいかったユキア。普段は先輩らの後ろを追いかけてはびーびー泣いて、でもバイクに乗れば追いかけられる女だったユキアが、ひとりでそんなところに。
 それこそ、半身をもがれたかみさまのような気持ちで。

「もっと、ばあさんになって、バイク乗るのやめろって言われる頃に、ぽっくりいくんだと思ってたよ、ユキア」

 やめてもなお、バイクを捨てられない理由がまたひとつできたようで、ショーコはしおからい雨をひとつぶなめた。
(了)

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