夜叉姫と鶴の婿

スイ

 ちはやぶる神鳴り走る曇天に、白き旗が立つ。ここは戦場である。半刻前に降った雨でぬかるんだ大地は乾く間もなく、血で再びぬかるみ、片腕を失って這いつくばる人、人、また人、その下に折り重なる屍、屍、また屍。ここは戦場である。白き旗はいつもその荒れ狂う戦場にこそ立った。何度も。たとえ、足軽兵がいくら命を落としても、その白き旗だけは決して斃れることはなく、穢れることもない。血を吐いてくずおれるひとの目に、厳然と翻る旗が映る。その旗の名を、ひとは恐れをこめてこう呼んだ。夜叉姫の旗、と。

 *

 たづ、という。
 北果ての銀嶺国の西に住まう鶴の一族、その末息子で、今年十三になる。成人の儀はもう済ませていたから、ひとと鶴の性、ふたつを持っている。そのたづであるが、今、いかにも少年らしい潔癖さを描く眉根を寄せ、上座の人物に対して紅の唇を開いた。
「わたしが、ですか」
 たづの対面には、一族の棟梁であり、姉であるきこが座っている。母鶴を同じくするふたりの間に御簾などの障壁具はなかったが、上座に座す姉と、下座のたづとの間には、凍てた氷にも似た緊張が張りつめていた。
「ええ、こたびの神代(かみよ)家への輿入れには、おまえを選びました。わかったら、用意を済ませて、屋敷を発ちなさい」
「嫌です」
 たづは頑として譲らない。姉とよく似た澄み切った美貌には、隠しきれない激情がちらついていた。
「ひとの娘を妻にするなどと。ねいにやらせればいい。あいつはひとの子が好きだから」
「おまえはちがうと?」
「母上を矢で射たものをお忘れか」
 くしゃりと顔を歪めたたづに、棟梁である姉は眉をひそめただけで、無造作に開いた扇子を振った。
「おまえの輿入れはすでに決まったことです。たづ」
「わたしは認めない」
「ならば、そなたの羽を切った上で鎖に繋ぎ、檻ごと神代家に送るが、よいか」
 姉から発せられた言葉は、たづの矜持を深く傷つけた。唇を噛んだたづに閉じた扇の先を突き付け、「お行き」と姉は言う。
「神代と月白(つきしろ)、いにしえの契りを守らんために。たづよ。もう会うこともなかろうが、元気で」
 嘘吐きめ、とたづは毒づいた。

 *

 やおろずの神が眠れしと呼ばれるこの銀嶺国には、ふたつの一族が東西を分けて棲んでいる。
 銀嶺山の東を治めるのが、人間の神代家。
 西を治めるのが、鶴とひとの性を持つ月白家。
 神代と月白は五百年前には争っていたと聞くが、双方に千人と千羽の死者を出したところで、当時の棟梁らが和平を結んだ。その条件が代替わりごとの輿入れである。彼らは相容れないものであるから子は作れぬ。ゆえ、婿あるいは嫁と名のつく人質というのが実際のところであった。先代には神代から嫁いだ。今代の神代当主――夜叉姫には、月白のたづが嫁ぐ。そう、決まった。
「ようこそ、神代へ。遠路はるばるご苦労であった」
 神代家に着いたその晩、当主の私室に通されたたづは、御簾越しに七日後祝言を挙げる娘の声を聞いた。神代の夜叉姫、という。十七になったばかりだという少女の声は、しかしたづの予想を反して、凛とした凍て水のごとき鋭さがあった。
「お初お目にかかります。神代の夜叉姫さまにおかれましてはご健勝にて何より――」
「くどい」
 たづの代わりに口上を述べようとした側付の言を遮り、御簾が大きく揺らめいた。夜叉姫の白い手首があらわになり、彼女自身が御簾をめくったのだと気付く。未婚の姫君においてこれは考えられないことだった。しかも、あらわになった姿もおかしい。夜叉姫は薄氷の小袖に瑠璃紺の袴をきりりと締め、ぬばたまの黒髪は高く結い上げていた。鎧兜さえつければ、今にも戦場に飛び出しかねないその姿に、月白の者たちは一同呆気にとられた。それらの視線を傲然と見下ろすと、夜叉姫は袴を裁いてたづの前に片膝をつき、その顎についと扇の切っ先をあてる。
「そなたが、たづか」
「そうですが」
「顔は悪くないな」
 検分するように眸を眇めたのち、夜叉姫はぽつりと呟いた。扇を外され、御簾をめくったときと同じ唐突さで夜叉姫は立ち上がる。御座に戻るためではない。神代の小姓が慌てて「姫君の退出」を知らせる鈴を鳴らした。
「ああ、こちらの名乗りがまだだったな」
 敷居をまたいだところで、夜叉姫は思い出したように肩越しに視線を投げやる。
「わたしが夜叉じゃ。まあよろしく頼む、婿どの」
 そうしてあとは無関心そうに足を返す。

「なんなんだ、あいつは」
 夜叉姫との対面を済ませたたづは、あてがわれた居室に戻るなり毒づいた。ついてきた小姓の水浅(みずあさ)が、ぬくまった七輪を用意してうなずく。
「月白ではなかなか見かけぬ女性のようですね」
「月白どころか、国中探しても見当たらんにきまってる。あの喋り方といい、袴といい、髪といい、まるで男じゃないか」
「たづさまは少女のように可憐でいらっしゃるから、似合いの夫婦ではありませんか」
「水浅。口の利き方には気をつけろ」
 不服をあらわに、たづは眉根を寄せた。
 十三になっても一向に男らしい体つきにならない腕や肩がたづはひそかに恨めしかった。鶴としてもひととしても未熟であるがゆえにこたびの輿入れに出されたのではないかと勘繰ってしまう。
「しかし、夜叉姫さまもたいそうな変わり者のようですね」
 香ばしい湯気をのぼらせた白磁の椀をたづに渡しつつ、水浅は言った。
「やはり、そうなのか」
「代々女鶴が棟梁に立つ月白とは違い、ひとの世は男子の世襲が常。この戦乱の世に女が当主であること自体が稀有なことなのですよ。姫が父君を屋敷から追い出して家督を継いだ話は御存じで?」
「いや」
「当時、父君付の侍女や忠義の深い家臣は一斉に暇を出されて、難儀したとか。厨のばばが申しておりました。ほかにも、女の身で賭け事、酒を好み、寝所に蛇や蜘蛛を侍らせているとか、とうとき神像を叩き壊しただとか、果ては生母が夜叉姫を呪詛して死んだだとか、枚挙にいとまがなく」
「呪詛というのは穏やかじゃないな」
「どうかお気を付けください、たづさま」
 声をひそめて囁き、水浅は顔を引き締めた。
「ひとの女は、鶴とは異なる魔性を持つゆえ」

 *

 婚姻のための「結いの式」は翌日の宵、神代家において開かれた。昨夜とは一転、清らかな白無垢を着た夜叉姫の隣に並び、盃を交わす。たづの姿に、年長の者たちはさしたる関心を向けなかったが、前の輿入れを知らない若武者や侍女たちは隠しきれない好奇の色をのぞかせた。鶴とひとの半生とはなんぞ。夜は鶴に変わるのであろうか。では夜叉姫様は鶴をお抱きに――? 悪意のあるささめきが耳につく。
 人前で本性をさらすことは、半生にとっては恥ずべきこと、屈辱である。そのようなことも知らんのかと苛立つたづの隣で、夜叉姫は挨拶に来た家臣たちとのんきに談笑をしている。庇い立てなど期待するべくもないが、この女も似たようなものなのかと思うと、ますますひとに対する嫌悪が募った。
「夜叉姫さま」
 宴の空気がにわかに変わったのは、月が中天から西へ移ろう時刻だった。独特の甘ったるいにおいをこもらせる座敷に、ハレの日にふさわしからぬ緋色の袷を着た女が姿を現した。何奴じゃ、と姫の御付きの侍女が顔色を変える。それが、とこたえる門兵は当惑の表情だ。
「義母上」
 さっと夜叉姫が席を立った。
 氷の美貌に存外いたわりに満ちた表情が浮かんだことに、たづは眉をひそめる。義母上と呼ばれた女性は艶めいた唇を吊り上げた。
「まあ、夜叉。そなたに似合わぬたおやかな姿ですね」
「わざわざお越しくださったのか」
「娘の晴れ姿ですもの」
 女は半月のかたちに目を眇め、抱えていた包みを夜叉姫に差し出した。
「そなたの婚姻を祝して、旦那さまから祝いの品を預かりましたよ」
「それはありがたい」
 包みを解いた夜叉姫の手元を見た侍女がひっと息をのむ。螺鈿の匣に横たわっていたのは、白い蜘蛛の死骸であった。夜叉姫の表情をうかがう義母の横顔につかの間、鬼が宿る。
「ほう」
 干からびた蜘蛛を摘まみ上げ、夜叉姫は感嘆の息をつく。
「これは粋な贈り物であるな。父上にもよろしくお伝えください」
「――忌子め。呪われてしまえ」
 呪詛の言葉を吐いた女に、「光栄じゃ」と心底愉快そうに夜叉姫は嗤った。
「お引き取りを、義母上。この夜叉への呪詛が御身へ跳ね返る前になあ?」

 その夜の寝所に夜叉姫はなかなか訪れなかった。
 何故おのこの俺が待たねばならんのだと釈然としない顔つきをして、たづは夜着に綿入りの羽織をかけ、しんしんと雪の降る庭を眺めた。釣り灯篭にひとつ明かりが入れられていたが、雪の夜には不思議な明るさがある。たづは七輪の前で擦っていた手を下ろし、輿入れの際、月白から持ってきた母譲りの篠笛を袋から取り出した。
 手の中に馴染んだ形を確かめるようにすると、軽く目を伏せ、息を入れる。
 篠笛のどこかさみしげな音色は、降りしきる雪に静かに溶けいった。
 たづは笛を吹くのが好きだ。幼い頃から、武芸にはとんと秀でたところもない、凡庸の子。なれど、笛の音だけは時折亡き母も褒めてくれたから。
「よい音色だな」
 ふいに後ろから声がかかって、たづは笛を奏でる手を止めた。白の襦袢に瑠璃紺の羽織をかけた夜叉姫であった。いくつもの簪で結い上げていた髪は今は耳の横にそっけなく束ねられている。しどけない姿であるのに、夜叉姫だと、武人のごとき凛々しさのほうが勝った。
「今晩は来ないのではと思ってました」
「大切な婿どのにそのような無粋な真似はせんよ。待たせたなら、悪かった」
 夜叉姫は濡れ縁に出ると、七輪を挟んで、たづの隣に腰を下ろした。火かき棒で無為に炭を転がす。しばらくそれを繰り返したあと、夜叉姫は不思議そうに首を傾げた。
「笛はもう吹かんのか」
「てなぐさみです。ひとに聞かせる音ではない」
「そうか? 澄み切ったよい音色であったのに」
 わたしは気に入った、と切れ長の眦を和らげ、夜叉姫は言った。そうですか、とうなずきこそすれ、たづは再び笛を手に取ろうとはしない。夜叉姫を慰めてやる理由など、たづにはなかった。篠笛を元通り笛袋に入れて首にかけ直す。
「さっきのあのお母上とやらはなんだったのです?」
 よそごとだと思っていたのに、こらえきれずにたづは訊いた。あの異様な女性に少なからず、たづは驚いていた。
「かなしい女よ」
 夜叉姫はどうしてかいとおしげな目をして中天を仰いだ。
「わたしの父が屋敷を追い出されたことは聞いておろう?」
「あなたが追い出したのだと」
「しかり。あれは後添えじゃ。わたしとは血が繋がっておらん。ゆえ、ますます憎いのであろう」
「……ですか」
「わたしの父はのう、たづ。まことやさしい、よい父であった。生まれてまもなく母を亡くしたわたしをそれは可愛がってくれてな。わたしも父を好いていた」
「ならば、何故」
「何故だと思う」
 謎かけをするように夜叉姫が微笑む。そして「見よ」と床の間にかかった白い布を顎で示した。月白の家には、寝所にこのような布を飾る慣習はない。たづの身の丈ほどある布はよく見れば、白糸で精緻な刺繍をしていることがわかる。月下に鶴の文様。神代の家紋である。
「神代の御旗じゃ」
 どこか誇らしげに夜叉姫は言った。そのときだけ夜叉の横顔に、年頃の娘が恋をするような熱がよぎる。
「数々の戦乱をくぐり抜けながら、一度も穢れたことがない。白はのう、たづ。神代の強さのしるしじゃ。決して穢れない。斃れない。神代の旗は、戦場にこそうつくしく立つ。この旗を守ることが神代当主のつとめ。……あのやさしい御方には似合わない」
「それがあなたの真意か」
「まあ、本音を言えば、ただの戦好きじゃ」
 そう嘯くと、夜叉姫は疲れた風に薄く笑い、たづの顎を取った。罅割れた爪でたづのやわい膚をなぞり、黒曜の眸に隠し切れない飢えをのぞかせる。そのときにはもう十七の娘の気配は消え、夜叉の女だけが残る。
「口付けをしたことは? たづ」
「……ひとなんかきらいだ」
「それはよい。わたしはひとよりは鶴のほうが好きじゃ。何より、うつくしい」
 陶然と目を細め、物欲しげな顔をした女はたづに覆いかぶさってきた。

 *

 たづの篠笛はそれからも、銀嶺国の山間に時折響いた。
 遠くで篠笛を聞きつけるたび、夜叉姫は馬を駆け、屋敷のたづを訪ねるが、その頃には篠笛はきれいに笛袋にしまわれている。そして処女雪の膚に水浅葱の衣、銀灰の帯をきりりと締めた少年が澄み切った美貌を冷たく歪めているのだった。
「今日の笛はしまいか?」
 首筋に張り付いた汗を拭い、夜叉姫はたづの顔をのぞきこむ。皆が恐れる夜叉姫に、しかしたづは微かに眉をひそめただけで、「今日はもうしまいです」とつんとそっぽを向いた。それがますます興をそそるらしい。夜叉姫は機嫌よくわらうと、たづの膝に勝手に寝転んだ。夜叉姫がこのようにひとに入れ込むのは珍しいことだった。
「枕元に蜘蛛がいなくては眠れぬのではなかったか」
「あれは皆、義母上の『みやげ』じゃ。よいものだろう?」
 皮肉げに口端を上げ、ああ落とすでない、と夜叉姫は口を尖らせる。そして若々しい緑に染まる銀嶺山と、己の婿とを見比べて、満足げに咽喉を鳴らした。
「たづはうつくしい。特にわたしにちらともほだされぬところがよい」
 銀嶺国につかの間の夏が訪れる間、緑陰の屋敷にはたびたび篠笛と、それを追いかける夜叉姫の足音が響いたという。
 されど、その間も鄙びた島国といえば、東の天帝と西の大地将軍がふたつに分かれ、激しい戦火を広げていた。銀嶺国は東の天帝筋の皇女が数代前に降嫁したため、東寄りの陣営に属する。季節が秋となり、敗走した東陣営が北上した先、そこは銀嶺国から山ふたつ挟んだ氷室平原であった。東の大将は、氷室を治める若殿であったが、北上にあたって、銀嶺にも援軍を乞う使者が向けられた。
「氷室に兵を出す。ひとと武具と兵糧を出すよう、通達を出せ」
 夏の間戯れていた夜叉姫がふいと身を起こしたのもその頃だった。一度起き上がってしまうと、夜叉姫の動きは早かった。各郷の長から兵と武具と兵糧を出させ、あっという間に氷室への派兵を整える。
 たづは小姓の水浅とともに、銀嶺国に残ることになった。
「ではな、たづ」
 黒髪を結い上げ、鎧に身を包んだ夜叉姫はその名にふさわしい姫武者ぶりだった。女のくせに当たり前のように先頭を切って戦に向かう夜叉姫がたづにはまるでわからない。まるでわからない、とふてくされたようにたづが言うと、夜叉姫はからからと盛大に笑った。
「わたしは夜叉ぞ、たづ」
「だから?」
「夜叉は血に飢えるのじゃ」
 黒曜石の眸に炎を浮かべ、夜叉姫は言った。
「まあせいぜい、祈っておれ。婿どの」
 ひらりと手を振って馬上のひととなる。それきり振り返りもしない女の背で、あの白き御旗が誇らしげに翻っている。
 
 夜叉姫の率いる神代軍は強かった。
 疲弊した東軍に代わって前線を引き受けると、地の利を生かして二倍三倍もあろう西の大地将軍の兵を巧みに奥地に誘い込み、寡兵で奇襲をかける。慣れぬ北の気候に動きを悪くした西軍は瞬く間に神代軍に追い返され、雪のちらほらと降り始めた平原は折り重なる人、人、また人で真っ赤に染まった。そのような大地の不浄は素知らぬ風に、夜叉姫の掲げる神代の旗はますます白さを増して翻る。夜叉姫の旗と呼ばれる白き旗の噂は、銀嶺国のたづのもとまで流れてきた。
「今のうちに、月白に戻ってはいかがです」
 清水で茶を沸かしつつ、水浅はもう何度目かになる進言をたづにした。対するたづは烈しい気性に似合わず、曖昧に相槌を打つのみ。たづ自身も未だつかみかねない何かが、たづをためらわせているらしい。
「姉上は一度嫁いだわたしを月白には入れない。そういう方だ」
「さりとて、夜叉姫様がおらぬなら、婿のつとめも何もありますまい。それに、これは鶴となって近くの村を飛んでいた折、行商人から仕入れた話ですが、西の大地将軍と東の三貴家が密約を交わしたとの噂が」
「三貴家が?」
 三貴家といえば、天帝の后を出す、特に尊きとされる三つの血筋である。これらが西についたとなれば、天帝が東軍を見限ったに等しい。
「何でも、天帝の御身を保証する代わりに、今後一切東軍には肩入れせぬことを約束したと」
「馬鹿め。何のための戦だ。ならば、戦はしまいか?」
「さて、大地将軍がやすやす矛をおさめるか。血に飢えるがひとの業にて」
 水浅は淡泊に呟いて、茶を啜った。
「ですから、戻りましょう、たづさま。所詮はひとの世の争いごと。半生のわたくしどもにはあずかり知らぬことです。あとは勝手に殺し合えばよい」
 確かに、とたづも胸中でうなずく。
 ひととは鶴とは異なる、残忍さをその性に宿している。たづの母はお産のために鶴に戻り、産屋にこもっているさなか、ひとの子に矢で射られて死んだ。それがもし狩猟中に起きた事故であれば、たづとて納得がゆかなくとも、仕方のないことだといずれ諦められたかもしれない。されど、ひとの子は腹をすかせていたわけではなかった。矢を射間違えたわけでも。彼らは遊んでいたのだ。いたずらに弓を使い、身重の鶴を嬲って楽しんでいた。死した母とついぞ生まれることはなかった弟妹たちに想いを馳せて、幼いたづは哭いた。ひとほどに狡猾で、残忍で、生きる価値のない生き物はいないと思った。
 ――夜叉姫も同じか。
 旗の外された床の間を睨み据えて、たづは思案する。されど、姫の横顔に宿った鬼は容易には己の真意を明かさぬ。
「たづさま!」
 月白へ帰る荷造りの済んだ部屋で、その夜ひとり篠笛を吹いていると、水浅が勢いよく駆け込んできた。笛を乱されたことに顔をしかめ、たづはぴしゃりと問う。
「騒がしい。かような夜更けに何事だ」
「西の援軍五万がさらに合流。氷室が落城したようでございます!」
「氷室が? して、夜叉姫は」
「残兵を連れて銀嶺国に向かっているとのことです」
「左様か」
 ひとまず生きていたことにたづは知らず息を吐き出した。仮の婿であるたづにすることなどなかったが、袷と袴に着替えて屋敷の外の様子をうかがう。すでに伝令は銀嶺国内に知れ渡っているらしい。留守居を任された家令が駆けずり回って命令を飛ばし、表通りをせわしなく馬が行き来する。赤々と燃える篝火に照らし出される兵の姿を見ていたたづは、不穏なものを感じて眉をひそめた。
「たづさま?」
「何か、おかしい」
 水浅の呼びかけに首を振り、たづは薄い羽織を袷の上にかけただけで、雪に覆われた道を走り出した。東端の関門には、国内に残された兵が集まり始めている。しかし中央の門は固く閉ざされたまま、あまつさえ木で内側から抑えられているありさまだ。
「門を閉じよ! 夜叉姫を中に入れてはならぬ!」
 門の前で声を張る女人を見つけ、たづは目を瞠った。かつて婚礼の際に呪詛を吐いたあの義母だった。兵たちの間をすり抜け、たづは義母の前まで進み出る。
「おい、あんた、何をしているんだ!?」
 煩わしげにたづへ一瞥をやった義母は近くの兵に囁かれ、「ああ、夜叉姫の畜生婿か」と呟いた。その言い草にも腹が立ったが、今はそれをとやかく言っているときではない。
「あんた! 何故門を閉める? 夜叉姫を中に入れない気か!?」
 自分でも判別しがたい憤りに駆られて、気付けばたづは怒声を上げていた。かようなときにも、この義母ばかりは鮮やかな蘇芳の打掛を着ていることが気に喰わない。夜叉姫は銀嶺国から離れた地で泥まみれで戦っているというのに。荒々しく花鳥文様の縫い取りがなされた衿をつかめば、控えの兵たちに肩をつかまれ、地面に突き飛ばされた。白い指先で衿を直し、女は眸を眇めてたづを見下ろす。そのとおり、獣畜生に投げやる眼差しであった。
「当たり前じゃ。あの子は、東に味方した今や謀反人。国内に入れれば、我らも匿った咎で処罰される」
「あいつはこの銀嶺を守るために出て行ったんじゃないのか!」
「守る? あれは夜叉ぞ。血に飢えた鬼ぞ。ここは銀嶺。かようななまぬるい情にとらわれた者などおらんわ」
 皮肉にも女の吐いた言葉はかつての夜叉姫をたづに思い起こさせた。この女もまた、神代に棲まうひとりの鬼なのである。赤い唇を歪め、女は集めた男たちに命じた。
「門を閉ざせ。夜叉を中に入れてはならん」

 たづは走った。
 閉ざされた関門に背を向けると、肩にかけた羽織をかなぐり捨てて、銀嶺山の入口に分け入る。冬の山は雪が深く、足を取られて何度も転びかける。それでも構わずたづは走り、やがて銀嶺が見下ろせる崖に出た。
「たづさま!」
 追いかけてきた水浅がたづを見て、目を瞠らせる。たづの右腕は今や鶴の本性たる右翼へ変化しつつあった。白い斜面を、玻璃にも似た羽根がひとひら落ちる。
「何をなさるおつもりで?」
「ここを出る」
「では、月白に戻ると」
「月白には戻らない。きこの姉上にはそなたが伝えろ。もう会うこともないだろうが、元気で、と」
 言うや、たづはさっと鶴になった脚で地を蹴り、ひと息に羽ばたいた。身を切るような冷気を裂いて、銀嶺の空を駆ける。関門を越えると、たづは首をめぐらせて、雪のかぶった針葉樹の合間に人影を探した。しばらく翔けた末、目当てのものを見つけて、ぐんと高さを落とす。
「夜叉姫」
 大地に舞い降りると、たづは少年の姿に戻った。
「たづ?」
 馬上の少女は瞬きをして、目の前に降り立ったたづを見つめる。出て行ったときよりは鎧も馬もだいぶくたびれているが、夜叉姫自身に大きな怪我はないようだ。ただ、夜叉姫のあとに続く兵たちの中には、手負いの者も多い。
「やはり、たづではないか。わたしが恋しゅうなって空を翔けてきたのか?」
「馬鹿もの」
 たづは思いきり顔をしかめて吐き捨てた。
「あんたの義母はあんたを見捨てた。門は開かない」
 淡々と告げたつもりなのに、胸には引き締められるような痛みが走った。そうだ、夜叉姫は義母に裏切られたのだ。父にも。残してきたすべての者にも。
「銀嶺国に戻っても無駄だ。無駄なんだよ、夜叉……!」
「左様か」
 うなずく夜叉姫の顔は平坦だった。真意の見えない黒曜石はしばし天を仰いでいたが、やがて何かに気付いた様子で少女らしい細い首を傾げた。
「して、何故そなたが泣くのじゃ?」
「ないてなんか、ない」
「そうか」
「あんたがあんまり、馬鹿だから」
「そうか?」
「馬鹿だから。夜叉」
 たづは頬を伝い落ちるそれを拭いもせずに、夜叉姫の腕を乱暴につかんだ。
「降伏しろ。旗を降ろすんだ」
 夜叉姫の愛する白き御旗は未だ穢れることなく傲然と風にたなびいていた。戦乱を駆け抜けてなお白い。そのうつし世にあらざる色は、かつて見たときよりも、白さを増したようにすら思える。夜叉姫もまた、紺青の星天に掲げられた旗を見ていた。その口元に綻ぶように乗った笑みを、たづはおそらく生涯忘れられないと思った。
「断る」
 夜叉姫のこたえは明瞭だった。
「氷室の若殿は、さらに北を目指すと言った。北端の地にて西軍を迎え撃つ。ともがひとりもおらんようでは、見劣りするからの」
「だけど、あんたは」
「もとより、銀嶺に戻るつもりはなかったのじゃ。言ったであろう、父は春陽のようにやさしいおひとであると。戦火を抜ければ、父が銀嶺に春をもたらすであろう。夜叉はのう、母の呪詛を受け、この戦乱をくぐり抜けるために生まれたのじゃ。血を好むからな」
「だけど、」
 だけど、だけど、だけど、あんたは。
 わかっているのに、夜叉はそんななまぬるい憐れみを欲しているわけではないってわかっているのに、たづの声は止まらない。何故。どうして。それをあんたがやらなくちゃいけない。ただの少女であるあんたが。眉根を寄せて息を吐き出したたづの前に、ふいと夜叉姫は鐙を鳴らして降り立った。額に触れたのは冷たい口付けである。どこまでも、どこまでも冷たい鬼の。
「わたしはな、たづ。鶴がすきじゃ。何よりうつくしいのがよい」
「夜叉」
「そしてわたしに決してほだされぬところがまたな」
 小さくわらうと、夜叉姫は再び手綱を取って馬上のひととなる。軽く扇を振ったのを合図にして、それまで歩みを止めていた兵たちがいっせいに前進を始めた。
「そなたの笛をじっくり聞いてみたかったのう」
 まあ聞かぬままもまた一興か。愉快そうに呟いて、夜叉姫は馬の腹を蹴る。再び降り出した雪に少女の姿は見る間に吸い込まれた。白き旗が音もなく翻ったのを最後に――それきり、夜叉姫の姿をたづは見ていない。

 *

 ちはやぶる神鳴り走る曇天に、白き旗が立つ。ここは戦場である。半刻前に降った雨でぬかるんだ大地は乾く間もなく、血で再びぬかるみ、片腕を失って這いつくばる人、人、また人、その下に折り重なる屍、屍、また屍。ここは戦場である。白き旗はいつもその荒れ狂う戦場にこそ立った。何度も。たとえ、足軽兵がいくら命を落としても、その白き旗だけは決して斃れることはなく、穢れることもない。血を吐いてくずおれるひとの目に、厳然と翻る旗が映る。その旗の名を、ひとは恐れをこめてこう呼んだ。夜叉姫の旗、と。

 ――それも、すでに何年も前のことである。
 東と西を二分する争いは終わった。東軍は北上を続け、鄙びた島国の北端にまで達したところで全滅した。ここにおいて、西の大地将軍による治世が始まる。戦乱の末の春が訪れたのだった。
 その北端の雪山に、分け入る者がひとり。
 澄み切った美貌は異形めいて、白膚がほのかに上気するさまがなまめかしい。まだ若い青年であった。着古した旅装に身を包んだ青年は、ひとり雪山をのぼると、葉を落とした木々のあいまに立てかかったそれを見上げて、ふわりと笑みをこぼした。
「やっと見つけた」
 かすれた声にはいとおしいものに再び邂逅したかのような慈しみがこもっている。青年はそっとそれに触れ、精緻にほどこされた刺繍やまるで穢れることのなかった白さを確かめると、甘く眸を細めた。破れかかったそれを抱き寄せて、頬を擦る。芽吹くことのなく凍てた恋を弔うように。
「おかえり、夜叉姫」
 
 その後の旗の行方は、とんと知れぬ。
(了)

Epitaph;墓参りアンソロジー Web版