白孔雀

真空中

 ハライが生まれる前のこと。
 新月の夜に、父は不思議な夢を見たと言う。
 ――夢とは思えぬ足取りで見渡した、そこは真昼の宮殿だった。象牙造りの透かし窓から木漏れ日がさんざめき、儚く砕けるさまが、とても美しかったのだ、と。見知ったはずの白亜の宮殿は穏やかな静寂に包まれ、女官の笑声はおろか、虫や鳥の鳴き声さえも、父は聞かなかったらしい。初夏の中庭には色艶やかな花々が咲き誇り、薔薇園から甘くさっぱりとした香りがほのか、そよ風に流れて廻廊を満たしていた。心地良い熱気に浮かされ、何者かに導かれるように辿り着いた最奥の書斎で、彼は長椅子に横たわる母を見つけたという。
 かぐわしいジャスミンの生花が、大理石の床にたおやかな白影を落とし、いっぱいに飾られていた。微かな寝息が聞こえる方へ視線を向けた父は、しどけなく眠る美しい妻を見つけ、そして目を奪われた。
 水差しの檸檬水に透った光が、女のまとう薄絹と、その上に蹲る一羽の鳥を淡く照らし出していた――それは、純白の孔雀である。臨月の腹に、微塵も重みを感じさせぬ呈で足を据え、眠る女をじいっと見下ろしていた。白い尾羽はさざ波の如く重なり長椅子の下へと優雅に垂れて、深窓の姫君の髪の如く。黒曜石の眸は深い思慮を宿し、海の底を思わせた。
 驚いたことに白孔雀は、細い首をやわらかに下向け、人間のようにお辞儀をしたのだそうだ。
 父は瞠目し、その数瞬の合間に孔雀も夢も消え失せた。
 それから間もなくして、母はハライを身籠ったという。
 
「だからね、ハライ」
 普段誰よりも厳しい父は、そのときだけ目尻の皺を深くして、慈しむような優しい目をする。
「孔雀には優しくしておやり。きっとお前と、縁深い存在だから」
 ――幼心にはっきりと刻んでいる、父との数少ない記憶の一つである。


 ***


 蝉の声がかしましい。
 紗を巡らせた中庭は、灼熱の太陽にさらされるケトスにおいて、十分に休息に足る場所だった。屋根の端から端へと渡した紗布が強い陽射しを和らげ、高く繁らせた果樹の枝葉が、地に届く熱を減じるのだ。中庭を囲む四方の部屋から伝えられた水路には花を浮かべた流水がささらぎ、涼やかな音色が熱気に追い詰められた躰を癒すかのようだった。
 その中庭で、菩提樹の洞に躰を埋め、微睡む少年がいた。年の頃は十三、四、飾り気のない長衣を肘まで捲り、靴を地面に放り出して、褐色の膚にじっとりと水滴を結んでいる。癖のある黒髪は暑さに耐えかねたとでも言うように無造作にくくられ、けれど細い赤布は緩んで、半ば解けかけていた。――小振りな金耳環を通した形の良い耳が、あにうえ、と己を呼ぶ幼子の声を捉えた。
 少年は目を開く。現れた双眼は空の如き青、何者をも見透かすようなその色が、弟の姿を映した。
 白皙の膚の幼子が、洞を覗き込んでいた。真っ青な長衣に翡翠色の帽子を被り、目が合うとあどけなく笑う。
「イガル」
 とろけるような笑みを浮かべた少年は、年の離れた弟を抱き寄せた。
「どうした? 市場は楽しかったか」
「とても、楽しかったです! 帰るとき、ムマンが無花果を取ってくれたので、一緒に食べましょう」
 そう言って差し出された小さな両掌には、熟れた無花果が大切に包み込まれていた。
「大好物だ」
 少年は笑顔で礼を言い、弟を膝に抱き上げると、食べ頃の花を受け取った。
 浅い皺が刻まれた歪な球形は、茎から連なる部分が明るい黄緑色であり、下に向かうにつれ茶色、暗赤色へと変わっていく。ぐっと親指に力を入れて割り開くと、その内面には鮮やかな薄紅色、所々乳白色の混じった細い花が、ビロードのように無数に生え並んでいるのだ。秘密を暴き立てるようなそれは、ある種の背徳感を、言うなれば淑女の真白い足首を垣間見てしまったかのような後ろめたさを少年に与えたが、彼の意識はたちまちに、片方をねだる無邪気な声に引き戻された。
 二つに分けた片割れを口に含めば、瑞々しい食感がいっぱいに広がる。後引かない爽やかな甘みを舌の上で転がして、少年は至福のひとときに浸った。兄を見上げ、イガルが言う。
「父上と、母上の分も、頂いてきました。届けに参りませんか」
 少年は弟の額に顎を乗せ、眉根に皺を寄せて笑った。
「……私は、今、母上と喧嘩をしているから。代わりに、行ってくれるか。父上の元へは、私が届けよう」
 首を傾げる子どもを、作り笑いで送り出す。少年は掌中に預かった無花果を見下ろし、深く息を吐いた。
 中庭を抜けて廻廊を渡り、霊廟へと赴く。宮殿の敷地の一角にある霊廟は年中、香が焚き染められ、花と供物が山のように積まれている。青を基調とした短冊状の布が一列に戸口に並び、ゆらり、ふわりと翻って死者と生者を分けているのだった。日向に立ち尽くした少年は、ふいと頭を振ると、影の支配する建物へ滑り込んだ。からころ、土鈴が音を立て、突風に嬲られた祭壇の炎が、激しく揺らめく。
 祭壇の供物皿に無花果を据え、透き通るような青い眼で、少年は祭壇の奥を――先祖代々の蜜蝋に連なる、父の名を刻んだ蝋燭を見つめた。
「父上」
 呼びかけた声は乾いている。
「教えてください。私は――誰の子なのですか」
 から、ころん。答える声は無く、青が軽やかに踊るばかり。



 ケトスに名高い法の番人アレ・キディーハが身罷り、三年が経つ。彼には二人の息子がいて、一人は大地の色を、もう一人は月光の色を宿して生まれた。アレ・キディーハの第一子、ハライという名を与えられた子どもは、月光の膚を持つ両親から生まれた己が異質な存在であることに気づいていた。
 最初に違和を感じたのは、幼い頃、小間使いの娘たちのささめきごとを忍び聞いたときである。
 ――奥さまも、旦那様も、先月生まれた赤子も同じ色をしてるのに、上の坊ちゃんはちょっと違うわね。
 ――おかしいことなの?
 ――だって、不思議じゃないかしら。
 ――あたし、おんなじ色を街で見たことがあるわ。この前まで戦っていた、お隣の国の……。
 そこで声は途切れた。召使頭であるムマンが、子どもの両耳をしっかりと押さえてしまったので。
 以後、その娘たちの姿を屋敷で見かけることはなかった。しかし、ハライの耳には、そのときの会話が強く残った。
 それとなく、己の出生にまつわる話を差し向けるようになったのは、数年経ってからの頃だ。ムマンをはじめとした召使たち、乳母、屋敷を出入りする勉学の師。返事が怖くて、両親には聞けなかった。聡い大人たちはハライの言いたいことを察すると、柔和に微笑んで首を振った。
 ――何を仰るんです、坊ちゃま。貴方は智慧の師たるアレ・キディーハの息子。自慢の御子息であらせられるというのに。
 子どもは箱庭に閉じ込められたかのような心地がした。誰もが子どもの問いをやんわりとはぐらかし、みな同じ表情で、ハライを優しく諭すのだ。表面上は頷きながら、しかし胸の奥底で、子どもはゆるやかに疑念を強めていった。世界を構成するものや仕組みを、認識し、理解する年頃に達しつつあり、更に同年代の子らにまじって学ぶようになると、今まで信じていたものが、ただ一面を見たに過ぎないと知るようにもなった。――父が、孔雀の話をするようになったのは、その頃からである。
 自室の窓際にぽつんと座っているとき、父は度々訪れた。視線を合わせず、透かし窓の外を見つめていると、向かいに座った父が滔々と語り始める――それは、母親が子守唄を聞かせるかの如く、躰に沁み入った。聞きながら子どもは、父が何か知っているのではないかと思った。けれど話の終わりに口を開こうとすると、父はゆっくりと、言い含めるように言葉を紡ぐのだ。
「孔雀の夢がお前を連れて来たとき、わたしは、とても、とても嬉しかったんだ。この子を、幸せにしなければならないと強く思った。ハライ、わたしの息子。お前は、たくさんの人に望まれ、愛されて生まれて来たんだよ。そのことを、決して忘れてはならない」
 父の言葉は、効きの良い薬のようだった。温かなたくましい腕に肩を抱かれ、背中を撫ぜられると、子どもはひどく安心して――不安を忘れてしまった。
 思えば、その繰り返しだったのだ。確かに愛されているのに、時折泣き喚きたくなるような寂しさに襲われる子どもを、父は上手く宥め、落ち着かせていた。
 その父は、もういない。
 彼に頼るほどの歳ではなくなっていたし、きっと己のように生まれてくる者もあるのだ、と自分を納得させていたハライは――ある日、鏡に映った自分を見て愕然とした。
 膚の色だけで片付けるには到底無視できない、別の民の血を引く姿が、そこにあった。ケトスの民たる両親に似ても似つかぬ相貌。弟の顔立ちは、父のそれに酷似しているというのに。
 何も語らない周囲に業を煮やして、母をおとなったのは先日のことだ。ハライは今まで抱いてきた疑念を話したが、女は抱擁で息子を誤魔化そうとした。――耐えかねた少年は、感情を爆発させた。
 怒りのままに部屋を去った、その最後まで母は息子の出生を潔白だと言い続けた。拾い子とも言わず、確かに血の繋がった我が子だと。
 ハライは、信じられなかった。


 ***


 虫の涼やかな声が、絶え間なく響く夜だった。
 ――眠れない。
 横たわっているのが苦痛になって、ハライは寝台から滑り降りた。寝巻にサンダルの格好で、何ともなしに戸口へと歩き出す。月の光が、ただ明るかった。
 夜の屋敷は、さながら御伽噺に出てくる月の宮殿のようだ。淡青色に染まる廻廊は静謐としており、地面には濃紺の柱の影が長く伸びて、切れ切れにハライを月から隠した。廻廊の壁には、白磁に鮮やかな青や赤、明るい水色で緻密な花文様を描いたタイルが一面に並んでいて、指先で辿ればひんやりと冷たい感覚が伝わる。
 濃い闇に包まれた中庭では、草と土の匂いにまぎれて、あえかな粒光が頼りなげに踊っていた。――“迷い星”と呼ばれる、発光虫の一種である。ふらふらと廻廊の方へ舞ってきた一匹から目を離せず、光の軌跡をなぞっていると、不意に軽い足音が聞こえてきた。ぱたぱた、重みを感じさせない、子どもの足音。
 まさか、イガル?
 振り返った先、予想は裏切られた。
 一陣、風が横を通り過ぎ、ハライは呆然と空気が揺れるさまを感じた。肩越しに見つめた廻廊に、人の気配は無い。てん、と何かが落っこちた音に気付いたのはその直後だった。
 足元に転がってきた、それはまだ青い無花果である。
 はっと視線を上げると、痩せっぽちの子どもがハライの前に立ち竦んでいた。褪せた頭巾から夜闇のような黒髪が溢れて、顔の半分を覆っている。身に着けた服は粗末なもので、腕にはいっぱいの無花果を抱えていた。
 口を開こうとした瞬間、子どもが身を翻した。待て、と掴もうと伸ばした手は空を切り、瞬きのうちに、子どもの姿は消え失せる。
 ハライは闇に眼を凝らした。淡青色の宮殿はしんとひそやかで、何事も無かったかのよう。迷い星がふわりと庭園に帰っていくさまを目で追いながら、ハライは周囲を見渡し――純白の尾羽が、夜露に濡れた草をやわらかに撫ぜ、淑やかにほころぶ瞬間を捉えた。
 孔雀。
 青い闇に浮かび上がった白は、音も無く月光に躰を煌めかせた後、静かに薔薇園の奥へと消えた。



 目を開けると、ハライの躰は、夜明けの寝台の上にあった。
 ――夢だったのだろうか。
「ムマン」
 朝食の後、ハライは召使頭に話しかけた。顎に傷を持つ巨躯の男は、少年の姿を認めると、片膝をついてハライを見上げる。
「何でしょう、坊ちゃん」
「この屋敷で孔雀を飼い始めたのか?」
 ムマンは、底の知れない、凪いだ湖のような目で少年を見た。
「いいえ。この屋敷に孔雀はいませんし、いたこともありません」
「青い頭巾を被った子どもは、いないか?」
「いいえ。このお屋敷にいる子どもは、坊ちゃんとイガル様だけです」
 何かありましたか、と問う低い声は心配の色を滲ませている。何でもない、と首を振ったハライはそっと目を伏せた。
 夢だったのだと、思った。



 ひた、ひたと廊下を打つ音、羽擦れのさやけき音、澄んだ水の音色。
 宵闇の夢の淵から、意識が零れ落ちた。ふっと目を開けた先は、青闇の世界が広がっていた。じっとりと汗ばむ躰から薄布団をはぎ取って、少年は寝返りを打った。ぼやける視界に、戸口から差し込む月光が眩しい。小さく唸って顔を背けようとしたそのとき、床に切り取られた戸口の光に、そぞろ歩く鳥の影を捉えた。
「……!」
 ハライは勢いよく身を起こした。寝台から飛び出し、裸足で廻廊へと駆け出す。月明かりに照らされた廻廊には小さな足跡が点々と続き、幾本もの柱を隔てた先に、鳥の影が角を曲がっていくさまが見えた。
 何かに突き動かされるかのように、少年は走り出した。ハライの耳に、父の言葉が炎のように燃え上がる。――縁深い存在。追いかけなければいけない、その一心で、影を捕まえるために走った。少年がいくら懸命に足を動かしても、影との距離は縮まらない。息が切れてきた頃、突然に視界が開けた。
 ――濃密な花の香りが、躰を侵した。御伽噺の中に入り込んだかのような錯覚に陥る。少年は途方に暮れたように速度を落とし、やがて足を止めた。
 迷い星、その光の群れが、青闇に浮かび上がったジャスミンの花園に飛び交う庭。見たことも無い場所だった。幻想的な白が可憐に花ほころび、芳しい匂いがハライを包み込む。庭は四方を緻密な花文様を刻んだタイルに囲まれ、人の目に触れにくいような造りになっていた。まるで檻のように。
 香、空間、群がる光――窒息しそうだ。
 思わず蹈鞴を踏んだハライの足首を、するりとやわらかな感触が擦り抜けた。はっと地面へ視線を向ければ、真白い生き物が悠然と歩いてゆく。ハライは息を呑んだ。
「……美しいだろう。おれの孔雀だ。永劫の闇路に、道連れにしちまった」
 暗がりから声が響いた。澄ました鳥の黒曜石が見上げた先、青頭巾の少年が闇から姿を現す。君は、とハライが言いかけた言葉は、喉奥に吸い込まれた。昨晩見かけたときよりも、何だか大きくなっているような気がする。
「……こんな夜更けに出歩くなんて、良いとこの坊ちゃんは暢気だな」
 馬鹿にするような物言いに、ハライはかちんときた。目を眇め、「君は誰だ」とぶっきらぼうに問う。
「おれは孔雀飼い、ゼキさ。……あんたは、どこぞの客人か? 見たことない顔だな」
 あっけらかんと言われて、ハライは言葉を失う。屋敷に仕える者たちの中に、自分を知らない者がいるとは思わなかった。
 素直に答えるのが癪だったので「まあそんなものだ」と答えると、孔雀飼いはじろじろとハライを眺め回した。
「なんだ」
「……別に。気に食わないと思っただけさ」
 かちん、まただ。反駁しようと開きかけた口は、孔雀飼いがぞんざいに手を振ったことで閉じられた。
「御客人、二夜も夢を繋ぐとはどうやら縁があるようだ」
 意味が分からない。睨みつけると少年は澄ました表情で言葉を放る。
「閉じられた夜の箱庭さ。気づいてんだろ、この屋敷に本来孔雀はいない。――あんたが見ているこの夜は、お屋敷から繋がった夢だ」
「これが? 夢?」
「そう。――このまま帰してもいいが、そのままじゃあ面白くない。これはおそらく、あんたが望み、おれが喚んだ、互いの願いを叶えた結果なのさ。知りたいことがあるはずだ。あんたが、心底知りたがっている真実が」
 とん、と胸を突かれる。少年を見つめるも、顔の半分は闇にまぎれてわからなかった。
 ――この少年は何を知っている?
 微かに眉を顰めたハライに構うことなく、簡単なことだよ、と孔雀飼いは庭の中央に置かれた岩を踏みつける。
「この岩の下にゃあ罪人の屍体が埋まってる。――そいつが誰かわかったら、あんたに夜の時間を返そう」
 仄暗い怖れが背筋にはしる。その瞬間、闇がいっそう深まり、孔雀飼いの背後から得体の知れない化け物が這い出て来るような想像がハライの頭を過った。したい、と繰り返すと、孔雀飼いが静かな眼でハライを見遣る。
「こわいか?」
 こわい、と答えられるほど素直な性格だったら、人生はもっと楽だったろうに。ハライはぐっと唾を飲み込むと、挑戦的な眼差しで相手を見据えた。なにが罪人だ。どうせ夢の中の出来事だ、真も嘘もあったものではない。
「……死んでるやつに何ができるというんだ。方法は」
「お、いい心意気だね。――問答だ。あんたが質問する。おれは是か否のどちらかで答える。そこから答えを見つけてくれ。問いかけは一晩に一つだ」
 ハライは少し考え、真っ先に思いついたことを聞いた。
「まず、ひとつ。この庭は夢幻の産物だろうな?」
 良い質問だねえ、と孔雀飼いは厭らしげに目を細めた。
「いんや、ちゃんと実在するぜ。“お屋敷のどこかに”。墓も、その下の骨も、ちゃあんと、な」
 ――絶句したハライを嘲笑うかのように、孔雀が高く哭いた。にんまりと笑う少年が急速に渦巻いて、闇がふつんと途切れる。
 気づけばハライは、朝の光の中に取り残されていた。



 我ながら馬鹿なことをした、と思い始めたのは昼を過ぎた頃からである。夢の中で、妖術師、精霊、魔人、いずれともわからぬ者と妙なやり取りをしてしまった。せめて天の名において身分を明かさせ、害を与えないと誓言させておけばよかった、とハライは少し悔しくなった。
 しかし、始まってしまったものは仕方がない。頭を賢く使い、隙を見せず、己の望みを達成することを考えねばならなかった。
 戦略を練るべく、勇んで書庫へ向かう兄を、イガルは不思議そうに見つめていた。
 ――そういえば、と黴臭い巻物を取り出しながら、ハライは思い返す。夢と同じ路を辿って屋敷の中にあるはずの“庭”を探してみたものの、全く見つからなかった。孔雀がいないと辿り着けないのだろうか。
 探し直す必要があるな、と思案する少年の横顔から、ここ暫く暗雲を投げかけていた憂いはすっかり消えていた。


 ***


 夜が来た。
 昨晩と同じように孔雀の影に導かれて訪れた庭で、孔雀飼いは「よう」と片手を掲げた。やはり、彼の躰は、少しずつ背が大きくなっている気がする。
「質問は決めて来たか?」
「ああ。――罪人が屋敷に埋葬されていることは、屋敷の外の人間に知られているか?」
 鋭い質問だな、と孔雀飼いは目を細める。
「否」
 そうか、とハライは頷き、詰めていた息を吐き出した。
「……なあ、聞きたいんだが、本当に答えはわかるのか?」
「わかるさ。いつか」
「途方もない問答が必要になりそうだな」
 溜息をつくハライを見上げた少年は、なあ、と同じような調子で問うた。
「あんた、好物は?」
「なぜ」
「おれからも質問したっていいだろ。あんたは聞きたいこと聞いてるんだから」
「……無花果」
 憮然として答えると、孔雀飼いはどうしてか嬉しそうに、「そうか」と笑った。その足元を、白孔雀が泰然と歩いていく。
「――生前、父が言っていた。私は孔雀の夢ののち授かった子だと。縁深い存在だから大切におし、と。私とその鳥は何か関係があるのか?」
 ハライが尋ねると、孔雀飼いは瞠目し、切なげに、ほろ苦く笑った。
「……質問は一晩に一つまでさ」



 夢の問答をきっかけに、ハライは葬祭後ずっと遠巻きにしていた父の書斎を、度々おとなうようになった。積み上げられた巻物を引っ張り出しては広げ、裁かれるべき罪と法律について一心に学ぶ。国の成り立ち、制度の必要性、階級社会と貧困、商売、社会的背景。その中から関係のありそうな事柄を引き出して夜毎問いかけ、少年がにんまりと笑う。――十夜を費やして、得られた情報はあまりに僅かだった。
 巻物の山に埋もれながら、ハライは深く息をつく。頭の中を整理しなければ。このままではいつまで経ってもあの夢から抜け出せない。――少年の頭の中に、大人に相談するという選択肢は一瞬たりとも浮かばなかった。
 散逸していた情報を、ハライは数え上げてゆく。屋敷に埋葬された罪人。そのことは屋敷の外には知られていない。加えて、罪人は若く、召使の身、けれど人殺しをしたわけではなく、金品を盗んだわけでもない……。
 なんともなしに、黴臭い紙に落とした目が捉えた言葉を、ハライは凝視した。
 ――姦通罪。
 厭な言葉だと思った――同時に、どこかで卵が割れたような心地がした。
 確かに我が子だと、叫んだ母。
 冷汗が背中をつたっていく。
 その夜、「その罪は、姦通罪か」と孔雀飼いに問うた。すっかり大人びた彼は顔色を変えぬまま、「是」と答えた。



 ――その罪人は、私と関係があるのか。
 ――是。
 この一か月、何も進展していない。
 物思いに耽ったまま返事をしない兄の腕を、イガルが小さな掌でたしたしと叩いた。
「兄上」
「……イガル」
 菩提樹の洞を覗き込んできた弟を、そうっと抱き上げて胡坐をかいた足の上に座らせる。イガルは父に似た鳶色の眼でハライを見上げると、きょとりと瞬いた。
「近頃、どうされたのですか。ムマンが心配していました。食事を残すようになったし、書物ばかりで十分に寝てもおられないようだ、と。わたしも、兄上が心配です。最近、ずっと、元気がありません」
「考え事をしていただけだよ。……大丈夫、少し暑さにやられただけだ。すぐに元に戻るさ」
 宥めるように笑ってみせると、イガルは眉を寄せ――ふと思い出したように、言葉を紡いだ。
「そういえば、見つけました! ジャスミンのお庭!」
 その知らせを聞き、青白い顔をしていたハライは一瞬で血の気を取り戻した。屋敷中を飛び回って遊ぶ弟なら見つけられるだろうと思った頼み事だったが、本当に見つけてしまうなんて。
「ありがとう、いったいどこに?」
「母上のお部屋の奥です」
 ハライは額を押さえた。――盲点だった。成長してからは、女人の部屋の近くには寄るな、と教えられていたため、すっかり失念していたのだ。
 手を引かれて辿り着いた先、確かに小さな庭があった。
「変なお庭ですね」
 イガルが呟く。周囲を白で塗り固めた、閉塞的な空間だった。盛りを過ぎたジャスミンがまばらに咲いていて、中央には岩と果樹がぽつんとあった。
 一歩踏み出せば、夜が甦った。白孔雀が柔らかに羽根をひらき、孔雀飼いが迷い星の軌跡をなぞって笑う。真夜中の、おどろおどろしくも少し陽気な邂逅を思い出し、ハライは目を細めた。
 ――岩の下に、罪人は埋まっている。
 イガルに戸口の見張りを頼んで近寄ったそれは、記憶にあるよりずっと小さかった。何か手掛かりはないかと、見て、触り、顔を寄せ――薄く彫られた字を見つけた。
 見つけてしまった。
 ゼキ。
 ――あの孔雀飼いも、同じ名前ではなかったか。
 全てが、繋がったような気がした。



「母上」
 薄布を隔てた先で、母が微かに身じろぎしたのがわかった。どうしました、と尋ねる声は鈴のようで、布越しの朧な姿でさえ、たおやかで美しかった。
 ――かつて。同じように座り、彼女を見つめ、渇望した青年が、此処にいたのだろう。
 下座に身を構えたハライは、ぐっと腹に力を込めた。
「孔雀飼い、ジャスミンの庭。白い孔雀。私のこと。何を聞きたがっているか、きっと、おわかりでしょう」
 母はぴくりとも動かなかった。ハライ、とひそやかに息子を呼ぶ声は痛切で、そこには、ひとかけの諦めが含まれていた。
「……どうかお許しください、母上。愚かな息子です。私を守るために、貴方がたが隠した秘密を暴き立てる、親不孝者の息子です」
 ハライは居住まいを正すと、母を――そして、罪を犯した男と、おそらくは何もかもを知りながら己を育てた父を、彼女の後ろに透かし見た。
 決然とした面持ちで、少年は言葉を紡ぐ。
「教えてください。無用に騒ぎ立てたいわけでは決して無いのです。ただ、どうかわかってほしい。――もう、優しい嘘に守られているだけの子どもではいられない。いま、私は己の耳で聞き、己の頭で考え、行動することを自身に求めています。そのために、私は、まことの言葉を知りたいのです」


 ***


 ――むかし、ケトスに法を学ぶ若き男がいた。先の戦争で荒廃した国を立て直すべく奔走する男は、ある日、身寄りのない敗戦国の子どもと出会った。男は子どもを拾い、実の弟のように育てた。やがて月日が経ち、男は法の番人に、拾い子は青年になった。五百年目の建国祭の折、王の信頼篤い男のもとへ、十も年下の末の姫君が嫁ぐことが決まった。青年は、屋敷に迎え入れた姫君に恋をして、そして――。


 ***


 やわらかな青闇に、もう迷い星はいない。あまいジャスミンの香りは失せ、荒れ果てた庭園に煌々と月が照っていた。
 探し人はいつものように、けれど記憶の中の姿よりはずっと大きくなって――険しい表情で庭を突っ切って来たハライを認めると、薄く笑った。
「さあ、お前はもう、わかっただろう」
「……」
 激情を込めて睨みつける。勢いよく伸ばした手は男の襟元に届き、その体は容易に、地面へと引き倒せた。軽い――まるで羽根のように。草の上へ倒れ込んだ男の顔から青頭巾をひったくると、見覚えのある顔立ちが、黒髪が、眼が、さらされる。空のような眼はただ静かに、ハライを見上げた。
 なぜ、と獣の如く絞り出した声は怒りとも悲しみともつかぬ、ただ確かに責める色を帯びていた。だが、それきり言葉は続かない。――なるほど、この男は罪人だ。恩人を裏切り、その妻を寝取り、子まで孕ませた罪人だ! その罪を責め立ててやりたいのに、男は既に裁かれてこの世におらず、裏切りの果てに我が身が生まれ生かされていることに気づいてしまうと、ハライは何も言えなくなった。行き所のない思いをぶつけるように、男の胸を叩いた。どん、鈍い感触だけがある。なぜ。呻き漏れた声に、男はそっと返した。
「生きてきて、心底初めて望んだひとだった」
 褐色の膚の大きな手が、くしゃくしゃに顔を歪めたハライの頬に微か、触れた。まるでおれに生き写しだな、彼女にもう少し似てもよかったのに。男が小さくささめいた。
「……戦争で故郷も家族も失って、奴隷になって売り飛ばされてもおかしくないところを旦那様に拾われた。実の兄のように慕った、命の恩人だった。けれど、その旦那様を裏切ってでも――地獄に堕ちてでも、おれはこのひとを愛するのだと思った」
 全ての感情を飲み下した、淡々とした声だった。
「彼女が子を授かったことがわかってから、事はすぐさま露見した。旦那様はひどく……ひどく苦しまれた。いっそ二人で逃げてくれれば恨むこともできたのにと、零した夜もあった」
 男が視線を庭へ向け、白孔雀を見遣った。
「世間に漏れることはなかったが、裁きの場が持たれた。姦通罪は大罪のひとつだ、当然二人とも処刑されるに違いないと思った。けれど――“二人によって罪は犯された。よって、二つの命を以て贖われるべきである”と」
 何故、この男が孔雀を連れていたのか、ハライは突然に理解した。道連れ。あの言葉の意味を。
 岩の下には、人間と鳥の骨が埋まっている。
「……そんなの、屁理屈だ」
「その屁理屈を通してしまったのがアレ・キディーハ様さ。……選べ、と仰ったんだ。“お前の命か、お前が託した命か、それともお前が愛した女の命か。わたしは法を識る者。この罪を裁かざることは、わたしには許されない” ……そうして、“わたしを、許さないでくれ”とも」
 あえかな息をついて、男は呟いた。
「……あんなにも深い愛を、おれは他に知らない。その愛は、おれにも、妻にも、その胎に宿る子にも向けられていた。おれは姫君とその子どもの生を望んだ。そうして、お前が生まれたんだ」
 ――たくさんのひとに、望まれ、愛されて生まれて来たんだと。父の言葉が、耳に蘇った。母もまた、全てをハライの前にさらしたあと、これだけは信じてほしいと言った。罪の子だと思って育てたことは一度も無い。ハライ、あなたもイガルも、私が真実愛した男と、歓びを共にわかち授かった我が子なのだ、と。
 事実を知ることもなく――どれだけいっぱいの、多くのひとのこころをそそがれて、育ってきただろう。
 落ちそうになった涙をこらえて、ハライは男を睨んだ。滲む声で、おまえなんか、と絞り出す。
「……おまえなんか知らない。私の父はたった一人だ。アレ・キディーハ、ただ一人! 私の望みは叶った。全てを知った、だから夢の戯言は終わりだ。私の夜を返せ。もう此処には、決して来ない!!」
 少年の叫びを聞いて――満足そうに、嬉しそうに、青年は微笑んだ。それこそが、彼の望みであるとでもいうように。
「それでこそ、アレ・キディーハの御子息。さあ、明けない夜は終わった。永劫なる者たちよ、我来たれり、我来たれり! 全ての憂いを晴らし、黄金鳥の声はどこまでも高く響き渡り。金に輝く海原が旅人を迎えるのだ。……そして心からのさいわいを、お前に願う」
 夜がほどけていく。景色が解けていく。
 白孔雀が小さく哭いた。哀れな鳥。人の罪によってころされた――幾度、この庭までハライを導いたことだろう。忘れ難い鳥の影が儚く散り、そうしておぼろになった帳の向こうで、声が笑った。
「夜を渡り、お前に会えた。心からの歓びだと、思う。ありがとう――」
 拳の下の感覚が消えゆくのを感じながら、ハライは胸の内で呼んだ。とうさん。



 そうして突然に、夢は終わった。
 夜明けの薄闇の中、少年は目を覚ました。天井をそろりと見上げ、横たわる自分の身を確認すると、ぐったりと躰の力を抜く。やがて片腕でそっと顔を隠すと、頬を静かに涙がつたった。
 今だけ。今だけでいい。――朝になったら、ちゃんと元気になるから。

 顔を拭って、朝食を残さずに食べて。
 そうしたら、久しぶりに、イガルと市場に行こう。
 太陽の光をいっぱいに浴びて、人の声を聞き、人と話し、いろいろなものを見て、たまに弟を抱き上げて。帰り道、塀沿いにたわわになった無花果を取るんだ。

 ひとつは母上に。ひとつは父上に。もうひとつは、兄弟で分けて。
 最後のひとつは、土のした、白孔雀を抱いて眠る男に。
(了)

Epitaph;墓参りアンソロジー Web版