産死遂命のEXA

籠り虚院蝉

 この命も長く持つまい――尾先から染み出す血色の毒液が、砂の足跡に点々と模様を残した。
 ロカは背に載せた非常食を一匹手に取ると、鋏角でまだやわらかなそれに喰らいつく。頭部を失ってなお暴れる元気な非常食だった。延命のために致し方なく喰ってきたが、もはやそれも残り数匹となり、命尽きるか、命遂げるか、いずれの結果が先になろうか――彼女は重い顔を上げ太陽を仰ぎ見た。光彩を持たない黒曜石の眼がしばし厳しく照りつける陽光を捉え続け、その視界が真っ赤に染まった。
 どこかで原因が生じ、世界は変わった。そのように聞かされていた。そしてその結果、世界は永遠の砂漠になった。地上の水はすでに乾上がり、わずかな地下水を掘って水分を得るものもいた。あるいは、水中に生きるものたちはとうの昔に滅び去ったのだと……詳しい過去の物語はロカにはわからない。ただ彼女の視界は鮮やかに彩られた果てない赤と橙の世界が広がるだけで、つまりこれが砂漠なのだということだけわかっていた。されば、止まることなく歩き続けることはできるし、動くものがあれば認識し捕えることもできる。生存だけならば充分に可能な世界だった。背に載せた非常食をひと目見たときも、その色に心躍る気がした。生命というのはこんなにも、鮮やかな水色や緑色をするのだ――ロカには格段特別に思われ、印象的な教訓となった。
 やがて視線が太陽から離れた。次の戦地へ向かうための歩みを始めたのだった。人伝てにその地を聞けば応じてロカも移動する。参加は自由、離脱も自由、しかし一度離れれば再度の参加は難しくなる。戦地は刻一刻と移動しているため、歩き続けなければならなかった。
 彼女が足を踏み入れているのは、かつてスペインと呼ばれていた領域のアンダルシアという南方の広い地域だった。元来この地域は暖かく乾燥した気候で、世界の変化によって真っ先に砂漠化が始まった地域の一部であると聞かされていた。海があった時代ならば現在の戦場からかなり離れた地域であったが、ジブラルタル海峡は乾上がり、ここを歩いて超えることができれば、望む場所は十里と離れることはない。砂の大地を不定形生物のように這いずり回る戦場はもはや目と鼻の先にあり、そこにいけば新たな非常食を得ることもたやすかろう。彼らはすでに共食いを生業とし、修羅の道を歩んでいた。
 ふと、強風によって舞い上げられた砂塵が甲殻をしたたかに打ちつけ、ロカは嵐の到来を予感した。周囲に視線を巡らせば、後方のずっと向こうから砂嵐の黒い影が見えた。
 存亡の予感の際は深き砂を味方につけよ――旧き言葉ではそのように言い伝えられていた。そして、それはなんら変わらぬ習性でもあった。ロカは背に載せた非常食に向かって鋏角を二度低い音程で打ち鳴らした……いたずらに命落としたくなければ――背に伝わるたしかな感覚。非常食らは背嚢の布地にしっかと自身の鋏角と手をしがみつけたようだった。ロカは安心し、やわらかな足下の砂を複数本の脚を使って掘り進んでいった。



 翌日、ロカは目を覚ました。同時に視界が赤く染まる。深く掘り進んで息を潜めていたにもかかわらず、強大な砂嵐の前にはたかが砂粒など到底歯が立たず、通り道となった砂漠全体が大きく抉られ露わになってしまったらしい。昨日と地形が大きく変わってしまっていた。それでも怪我などしている様子はなく、彼女はひとまず安堵した。
 しばしぼんやりと赤い空を見、仰向けになっていたことにあらためて気づき、起き上がって、非常食は――と背に視線を巡らすと、彼女はぐっと歯噛みした。激しい嵐によって力及ばず飛ばされてしまったのか、三匹も消えて失くなっていた。残り二匹となったいまではこれであと数日の命である。直感した。命尽きるか、命遂げるか――またその言葉が彼女の内に反響し、尾の先から血色の毒液が、一滴、二滴、三滴……滴り落ちて、砂を染めた。
 立ち止まってはいられない――ロカは決心した。歩かねばならない――脚に力を込め、彼女は立ち上がった。とにもかくにもジブラルタル海峡を超えねばならないのだ。
 目的は――ロカは背嚢から小さく厚い革本を取り出した。最後の頁を開いてところどころ端切れた粗末な地図を取り出した。血色の蛍光色で表された手書きの地図は、季節ごとの世界から見た太陽の位置を示すものである。ロカが現在の太陽を見ると、ちょうど南中高度のあたりまで昇っていることがわかった。ジブラルタル海峡は現地点よりさらに南に位置しており、地図を目測にすれば、このまま太陽の方角を目指せばよいらしい。さらに南へ――彼女は歩き出した。
 太陽へ向かう歩きざま、ロカはこのように考えていた……大地を焦がし、生命を焼き尽くす真白い死神を、わたしはなぜ目指さなければならないのか――単純な話だ、その方角に目指すべき地があるから――なぜ、そちらに目指すべき地があるのか――それが死を生み出す地の偶然だから――戦地が、戦場が死を生み出すのだというのか、ではなぜ生きるためにみなその地を目指そうというのか――お前は太陽以外のなにを目印に、永遠の砂漠の果てに愚にもつかぬ生死の境へ歩もうというのか――なにをいう――命尽きるか、命遂げるか、戯言を問うまでもなく、命も不純な動機と穢れに、お前はすでに死に急ぎ――その思念を最後に、相反し合うロカの思念が大きく深い沈黙に落ちた。長い長いその合間を彼女の両の足音が刻み、答えはついに返ってこなかった。しかし、もはや問答を続ける気など、彼女にはなかった。
 これまで歩いた道のりは、かつてポーランドと呼ばれていた地域から現在地のアンダルシアまで数ヶ月をかけた数千キロの距離だった。それまでは中途で別の小戦場と合流し、そこで食糧を得ることもあったが、ここ二ヶ月はほかの戦場とも合流することがなく、食糧の当ては道中で見つけた蟲(注[1])と、背に載せた数十匹の非常食しかなかった。栄養面での心配はないが、この食糧確保の方法は一生に一度だとも聞かされ、それ以上は無理だということも覚えている。もとより蝕(注[2])は長き命ではないが、それなりの食糧事情では数十年、あるいは数百年生きるものもいるという。夢のような生き方をしているといわれているものの存在は、戦場の場所を聞く際に人伝てに聞いている御伽噺の類ではあった。そんな御伽噺を話半分に聞くさなか、隙あらば喰らい、あまりにも非道とすら感じるその術を繰り返すことで生きながらえていたのだ。せめてこの砂漠の真ん中に乾き朽ち果てた遺骸でもあれば、それを喰むことでまた数日ほど長く生き延びられるはず――ロカは周囲の赤いまだら模様に神経を張り巡らせた。
 些細でもいい――望みがあれば――脚はもはや砂漠と同化しているに等しかった。代わり映えしない砂漠の砂が重みを増して絡みつき、踏み出すたび歩を微睡ませる赤色の水が……砂なるものは水に近しき地球大地と涙のひと粒……と、いかなる脅迫観念に襲われとうとう気が狂ってしまったのか、なにものかが陽気に歌っていたのを覚えていて……このまま夢魔に心ゆだねて心身沈めてみせようか――とすら思ったこともあった。
 そのとき、視界の端の遠々しい箇所で、かすかに砂粒が蠢くのを見た。望み――わずかばかりの光明に導かれるままロカは道を逸れ、そちらに歩を転換した。ほんの数度太陽が傾いた頃に目的の地点に着き、彼女は首を地に向けた。しかし、なにかがおかしいと瞬時に感じ取った。水色の細い線が雑然とした手つきによって描かれた水溜まりのような風合いで、いつの間にかその場所に残っていたのだ。
 濡れている――瞬間、足下の砂が激しく波打った。バランスを崩して後ろに倒れたロカの足元で砂が爆発し、現れた砂まみれのなにかが覆いかぶさる。軟らかな巨体ののしかかり攻撃をなんとか腕で食い止めたものの、途端そいつの体から水色の液体がほとばしり、それが伝う手や腕に激しい痛みがつらぬいた。強酸――気づいたときにはもう遅い。すでに甲殻が溶け始め、一部は筋肉に達し始めていた。彼女は痛みに耐えながら勢い任せで払い除けると、そのまま血色の毒液を流し込もうと尾節にぐっと力を込める。しかし、そこでやにわに冷静になった。強酸で守られた体への直接攻撃はむしろこちらの痛手となりうる。甲殻まで溶かしてしまう手前、無邪気な攻撃は針までも無下にしてしまう。そうなれば、残りわずかと信に抱いた寿命すら無駄にしてしまいかねない。
 蝕は尾先の危険を感じ取ったのか一瞬の間で砂上を這い、水色の線を残しながらロカと距離を取った。軟らかな体躯の割に動きのすばやいそいつは、おそらく蛞蝓なめくじと蛇を掛け合わせた蝕であろう。微細な鱗の合間から粘性の強い体液を分泌させ、砂や礫など自然の付着物による擬態を可能とする暗殺者。先ほどのように砂を体に纏わせて獲物を待ち伏せ、足下からバランスを崩し身動きの取れなくなった束の間を狙い、獲物をその軟らかい体で包み込み、強酸で溶かしながら、すりつぶしていただくのである。いわば、体の下部全体が移動と咀嚼と消化を兼ね合わせたハイブリッド器官であるといっても過言ではない。しかし、得てして生命体というものは必要な部位以外を武装することもない。なればこそ、弱点はある――かの蝕の背中は、擬態を目的とした粘性の高い体液が優先して分泌されている体部のはずだと、ロカは判断した。
 蝕は威嚇するように上半身を浮かせ、強酸性の粘液を分泌する面を大きく見せつけた。あの面を向けられては攻撃する隙など皆無である。それでもロカはかの蝕が愚かな頭脳の持ち主であることを見越していた。砂上の戦闘ならば勝ち目はないが、砂中の戦闘ならばロカのほうが一枚上手……存亡の予感の際は深き砂を味方につけよ――彼女は咄嗟に砂に潜った。虚を突かれ地を這い距離を詰める蝕が、砂に潜り込む前にロカを捕らえようと襲いかかるが、遅すぎた。覆いかぶさったときには彼女は砂中深くに潜り込み、蝕はロカを捕らえられない。どこに行ったと視線を巡らし、砂中の振動を感じ取るため地べたに下部を密着させた。
 しかし、これこそロカの思う壺であった。忍び寄る死 (注[3])と呼ばれる彼女に、砂漠での隠密行動で勝るものはもとより存在しなかったのである。振動は粉雪が地に舞い降りる程度、ゆえに気づかれることもない。ひっそりと砂中から身を露わにしたロカは、依然砂中の振動を捉えようと必死に地べたに体をこすり付け、腹這いとなった敗残者の姿を見下ろすと、無防備な後背部に立ち、尾節に力を込めた。すると血色の毒液が滲み出し、彼女は一滴落ちる寸前にその無防備な背に向けて深々と針を突き刺した。蝕は毒液による苦痛にしばらくのたうち回り、やがて動かなくなった。
 動かなくなったことを確認した彼女はすぐさま強酸性の粘液を分泌しない背部から喰えるまでを喰らい尽くし、皿のようになってしまった蝕の遺骸のかたわらに片膝立て、だらしなく座した。想像以上に傷は深く、毒液と同色の流血が止まらずにいたのだ。傷口に残る微量の酸が血小板の凝固を阻んでいるらしかった。これまでか――ロカは情けなく頭を垂れた。そして、左胸に刻まれた五つの文字列……「P1941(注[4])」に手を這わした。これは囚われびとの証明であり、同時に、決められた運命を持つ選ばれたものの文字列だと聞かされていた。わたしはなにものなのか――足下の砂に気を取られるたび映る左胸の文字列が、否応なしにその可能性を提示してやまなかった。この文字列はなんだ――そう思われてしまうのは、小さく厚い革本に、胸の文字列と似た文字列がびっしりと書き込まれていたからであった。彼女と同様の毒液で書かれたその無数の文字列は最初の頁の「y0000」から最新の頁の「da7935」まであり、ひと組の文字列同士の並び方はばらばらで、統一性といえば、頭文字がいくつかの大文字と小文字の組み合わせしかないということだけだった。なんのための文字列なのかはいくら考えようとわからずじまいだった。
 だが、ロカはたしかになにかを覚えていた。当座まで生きながらえてきたものとして、よく見聞きし、覚えてきたことがあったのだ。旧き言葉、旧き習慣、旧き鋏角の音色も覚えていた。したたかにすばやく打ちつけ骨の打楽器のように響き渡る乾いた音色。原始の音色とも呼ぶべきだろうか。覚えているはずなのに、覚えていない……そのもどかしさに自身も鋏角を打ちつけ鳴らしてみせようかと思い至ったが、なかなかその体力も戻らない。
 ふと、よいことを思いついた。先ほどの蛞蝓型の蝕、粘性の高い体液を分泌していた。ときとして礫や枯れ木なども擬態の素材として纏っていたはずである。乾けばそれなりに傷口を塞ぐ役割を果たしてくれるのではないか――怪我の功名とはこのことか――ロカはかたわらの遺骸の、いまだ固まらずに溜まるわずかばかりの体液を傷口に塗り込み、しばし太陽光に当てて乾かした。案の定、乾くことで体液はていよく透明なフィルム状となり流血を止めてくれた。これでまた少しは動かせる体となっただろうが、懸念される事項はまだある。ロカは蝗とよく似た性質を有した礁螟しょうめい(注[5])によって、全身を通りぬけられ喰い尽くされたことによる病に冒され、通常の蝕よりさらに余命いくばくかといった状態になっていたのである。ときおり尾先から無意識に滲み出る毒液がその証左だった。体が朽ち、徐々に命削られようとしていたのを騙し騙しで歩き通し、ここまで到達してきたが、先の戦闘で消耗も激しい。動かせる体といっても、持って三日あるかないかであろう。
 ロカは桎梏の彼方から逃げ延び生きるため戦場を渡り歩いてきた。しかし、そこは同時に死と隣り合わせの場所であり、そこに身を置かなければ別の危うき死が虎視眈々と生を狙い、そうして……死に追われる羽目に陥っている――比較的無事な腕を持ち上げ、彼女は弱々しく頭を抱えた。礁螟と同様、これもまた逃れられえぬなにがしかのひとつということなのだろうか。所詮、命あるものは死によって追われ滅ぼされる身なのだ。だが、ここでもロカを生はそればかりではないと思いとどまらせたのは、命尽きるか、命遂げるか、いずれの結果が先になろうか、その旧き言葉であった。すなわち、死に追われるか、生を追うか、どちらがより早いかという自明の理。
 かつて、やがて彼女の身の糧となる傷ついた蝕と出会ったことがあるのを、ロカは霞のかかった頭のなかで思い出した。その蝕を見かけたのは、ユーラシア大陸の名もない荒野の中途を次の戦場目指し歩いていた頃である。その蝕は梟と蟹を掛け合わせたものであり、まさに死に逝こうとしていた。ひと目見て梟と蟹を掛け合わせたとわかったのは、梟特有の大きく丸い瞳がこちらを向いており、近づいてみれば特徴的なまだら模様の四対の翼と蟹のような鋏の脚が一本、力なく地に投げ出されていたからだった。片方の脚が失われ血が止まることなく流れていた。
 こいつも礁螟に――そこまで察し、彼女は尋ねた……なにをしている――しかし、その蝕は質問に答えたのか否か、ひと思いに喰ってくれりゃあ……と虚しく、低く、喉奥を鳴らしてみせた。眩しくて……眩しくて……なんでこんなにお天道さんつらく当たるんだよう……脚が痛い……体が熱い……そのように訴えてくる蝕に、ロカは答えることを放棄した。そんなことは、いまこの地球上を生きるだれにもわからないのだ。それを語ることのできる証人は、もはやどこにもいないのである。蝕はなおも言い続けた……休めるとこがないんだよ……脚なんてしょっちゅう火傷するしよう……せんころ賊に追われて……きれいな脚い一本盗られて……血い流れて……もう飛べねえって諦めてさ……。
 このような場で力尽き、憐れな姿を遺すのか――ロカは思い、蝕の目の前に膝を着いた。そして、焦点の合っていない弱った瞳を覗いてようやく返した。そうだな――途端、蝕の黒い瞳が一気に最大限拡がり、嘴が薄く開き、体が小刻みに震えたのち、黒い瞳がわずかに収縮した。ほとんど一瞬のことであった。のたうち回りもせず、呻くこともなく、ただ痛みに身を任せ、蝕はロカが見たことのない穏やかさでその命を終えたのだった。名を尋ねておけばよかった――だがもしかすると――ふと思いながらもすでに手遅れであることに嘆息し、かの蝕の黒い瞳が白く濁り始めてから、ようやく喰おうという気になった。通常ならば喰えない部位も喰らい尽くし、跡形もなくなり……その日の夜は砂中に潜っても、闇がいつもより長く意識されていた気がした。
 さて――歩かねば――ロカは特段感慨も抱かぬ記憶を想起し、そのように心身奮起させた。太陽を見上げて方角を洗い出し、目的地はそう遠くないとなにものかに言い聞かせながら。



 人間なる純粋種が生態系の頂点に座していた黄金時代。元妻の不貞により不信となり、毎夜女を寝床に呼び込みそこなう残虐王がいた。しかし、そのような背徳的な行為をやめさせようと勇気ある聡明な大臣の娘が王に嫁ぎ、毎夜のこと、驚異の作り話と興味深き物語の数々(注[6])を語り継ぐことでついに殺されることなく、さらに語り継ぐ物語によって王の残虐性をも浚うことができた、という設定の長大な物語が作られたらしかった。らしかった、というのは現在ではその逸話自体が御伽噺の類であり、いまとなっては信じるものも皆無のためである。存在のみ知っているというものが蟲と蝕と砂漠だけの世界になってしまった現在では大半なのであり、それを気にかけるものにも、ロカは今生の道程でひとりとて出会ったことはない。みな生きることのみに必死なのだ。
 しかし、いずれ喰うという目的以外に出会ったこともない他の蝕に思い馳せることが、ほかならぬロカにはできていた。記憶の彼方よりもずっと以前からの代物……なぜ後生大事に抱えて運ぶかもわからぬ小さく厚い革本が、自らの左胸にあるそれと同様の文字列で埋め尽くされていることの意義を、考えずにはいられなかったのだ。
 せめて、この命尽きるより早く、わたしと同様の文字列を持つものに会ってみたい――。
 消えゆく命と等しい灯火のようなかすかな希望が、いつしか知らず胸に宿っていた。だが、そのような豊かな感情を叶えてくれる地など世界のどこにもありはしないと果てない砂漠を見ながら思い、ロカはわずかにそれを残すばかりで余分はすべて捨て置いた。
 寝る間も惜しみおぼつかない脚を動かし、やがて三夜を歩き通した日のことだった。照りつける太陽光線のさなか、ふと顔を上げて行き先を確認すれば、陽炎で揺らめく地平線の彼方に真っ青に澄んだ焔のかげを見た。まるであるべき水を失った水龍(注[7])のようなものが、砂漠を這って蜷局を巻いているようにも見えた。遠方より目を凝らすことで不可思議なその景を観察してみるが、ロカの目では遠すぎて判別ができない。青い、生命と同色ということは蝕らの大群がたむろしている可能性もあった。戦地がこちらまで移動してきたのだろうか――そのように思われたが、いずれにせよ青い景のある方角は戦地のある方角でもあり、行かないという選択肢が残ることはなかった。あらためて、彼女は一歩踏み出した。
 近づくにつれその澄んだ青の正体がなんなのか、外見を把握できるようになった。その青はまさしく彼女が望んだ生命の青だった。さながら水の海であり、広く荒廃した大地を潤す存在である。残念ながらその生命では自身の腹も渇きも満たすことはできないが、しかし、御心というのだろうか。ロカは不意に体が……もし存在して身を浸からせたのならこのような心持ちとなろう……言わん方なき充実感でいっぱいになった。
 その青の正体は、満開のひまわりたちによる広大な海だった。
 幻のような世界……いまだかつて見たこともなく、それすら御伽噺なのだといずれ嘲笑されたであろう植物があったのだ。とうの昔に絶滅し消え去ったはずの植物がロカの目の前にたしかに広がっており、近づいて、近づいて……おそるおそる触れてみると……触れた先から楽しげにからかうように花弁が振れ、ようやくそれが幻などではないことを認識することができた。足下を見てみれば、砂とは少々異なる素材で出来た岩らしきものが敷き詰められており、その合間からひまわりの強靭な幹が伸びている。ロカの背丈ほど成長し一斉に太陽を見上げるひまわりの花と自らの行いが重なって思われて、そんなことはない――と頭を振った。ひまわりらはここで地下水を糧に、真白い死神と戯れてなお生きることを赦されたような、祝福された生命なのだ。なにものも侵すことのない純粋無垢なひまわりと、もはや喰うか喰われるかでしか存続することのできない蝕とでは、大いなる違いがあろう。
 それでもつられて顔をそちらに向けた際、ひまわりの海の真ん中付近に一本だけ佇む一際高い植物が目にとまった。見た限りでは枯れ木の類である。そう思ったロカは、あすこでの休憩も悪くない――と三夜歩き通した脚をいたわりながら海へ分け入った。花弁の大きいひまわりによる群れは見方を変えれば緑のひさしといったところだろうか。ロカにとって感じられる外気温が途端にやさしいものとなり、その心地よさにおのずと歩も前へ出る。やがて、ロカは枯れ木の目の前まで来た。
 死の姿をとどめたままの枯れ木には無数の枝が伸びており、おそらくかつては青々とした葉が鬱蒼と生い茂っていたのだろう。そればかりではない。このあたりは見渡す限り草原であったに違いなかった。すべてが生命の青や緑に包まれていた輝かしい黄金時代、その尊い生き残りが、ここでひっそりとつつましやかに佇んでいたのだ。
 ロカは枯れ木のかたわらに座って休もうと根元に近づいた。三夜歩き通したなか天国のような光景を見たためか、猛烈な夢魔が襲って来たのだった。一度寝てしまえば、しばらくは起きられまい――ロカはまだしっかりと根を張っている枯れ木の根元に座り込もうと視線を下に向けた。そして、あるものに気づいた。蝕の腕のようなものが幹の裏側にちらりと見えた気がしたのだ。だれかいるのか――同様に身を休めている他の蝕かもしれないと裏側に回るも、そこにあったのは、幹に体を預けた姿勢ですでに朽ち果てた遺骸であった。人型をしており、脚と手を合わせて八本、長い尾の先に鋭い針をたずさえていた……似ている――直感したロカは思わずその遺骸の左胸を見た。しかし、なにも書かれていない。ロカは遺骸の傍に座り、左胸あたりの砂埃を手で払い除けた。すると、そこにはうっすらと「T1729(注[8])」と刻まれていた。
 ロカは突然どうしたらよいのかわからなくなった。どんなことにももはや望みなどないと高を括っていたというのに、ここにきて運命の神などというものは愚かで浅はかな温情を投げかけてきたのだ。その温情に答えるべきか否か、それに対するたいそうな答えなどロカは今生の旅で学んだこともない。まして、唯一仲間とも呼べるものがすでに朽ち果て、互いの命をすら分かち合えない無残な姿で見つかろうとは、かろうじて沸き立つ情念も複雑なものとならざるをえなかった。
 しばらく霞がかった頭で考えていたものの、そこでふと遺骸の頭付近の枯れ木の幹に、命尽きる直前の彼女が刻み込んだであろう傷を、ロカは見つけた。
 Diem(注[9])――。
 これは彼女の名だろうか。しかし、ロカはこの名を知らなかった。どんなに記憶を手繰ってみても、そのような名を表す言葉は見つからなかった。なぜわざわざ自らの名を刻んだのだろうか……おそらくほかの仲間であったものも、名を刻んだものはいないはずである。考えてみれば、ここで朽ちた彼女もまた、わたしの名など知らないに違いない――どんな旅をしてきたのかも――一切の理由なくロカは確信した。だからこそ遺しておかねばならないのだろう――生きるものが生きることでこれからも生きられるように――と。決心したロカは小さく厚い革本を取り出し、その文字列がいまだかつて刻み込まれていないことをつぶさに確認した。ぬかりなく確認し終えると、震える尾節に力を込めた。そして毒液の血色をインク代わりに、革本の文字列のもっとも新しい部分に「T1729」の文字列と「Diem」の名を刻み込んだ。血色の毒液がついに枯れ果てたことを感じ取った。間に合ってよかったと考えるべきなのか、運命の神が温情を投げかけただけと考えるべきなのか、ロカにはわからなかったが、おそらくわたしがここで彼女を見逃そうが、いずれなにものかがこの遺骸の砂となる前に同様のことをしただろう――さいわいにも、ロカには一匹だけ生き延びている我が子がいた。
 すなわち、このために命があり、このために命があった。
 ロカはようやくひとつの結論に達した。
 左胸に刻まれたこの名はまさしく、命そのものであったのだ――。
 この結論を導き出したことは決して遅くなかった。彼女は背嚢にしがみついていた忍耐強い我が子を取り出し、両手に抱えた。気づけばいつの間に成長したのだろうか。生まれてきた直後の姿よりひと回りもふた回りも大きくなり、革本を背負うには充分な体格になっていた。
 永遠の砂漠で命絶たれた命の遺骸を追い、掠れ朽ちゆく墓碑銘を道程で刻む……生きよ――彼女はその源のすべてを自らの尾節に込めた。新たな巡礼の旅に解き放つ「P1942(注[10])」。旧き言葉Plus Ultra(注[11])より、名を「プルス」としよう――プルス――この世に生まれ死に、そして再び見出され生まれ変わる墓碑銘に向けて、一泊と二泊、鋏角でそのように打ち鳴らしながら、我が子の左胸に力強く、刻み、託した。そこでふと、わたしの名の由来は――そう思い立ち、自らの記憶を手繰ってみると、もっとも儚い記憶のなかにMi Vida Loca(注[12])という旧き言葉を見つけた。
 生きるためには喰わねばならない。ロカは再度鋏角をしたたかに打ちつけ、自らの体を糧とするようプルスに命じた。母の体を喰むなど恐れ多いのか、「P1942」……プルスは怯えながら何度か未熟な尾先で彼女の脚をつつき、彼女がなにもしないことを確認すると、耐え忍んできた飢えを満たすように勢いよくその未熟な牙を突き立てた。長き巡礼の糧としてゆっくりと鋏角でロカを喰み、流れ出る生き血を啜ってゆくプルス。その食事のあいだ、このひまわりと同様つねに太陽の方角を見定めよ――ともプルスに命じることとした。いずれプルスも太陽を真白い死神と思い絶望しよう。しかしその絶望すらも、やがて自明の理とあい至るのである。
 脚と腕を一本ずつゆっくりといただいたことで満足したのか、彼女はロカによって体に括りつけた革本を重そうにしながら、頼りなさげな足取りで振り返ることもせず、ひまわりの青き海をまっすぐ南へ歩いていった。目指す地は真白い死神、ひまわりの顔向くところ、ジブラルタル海峡を超えた先……かつてセウタと呼ばれた地である。あの速度ではとても間に合わないだろう。しかし目指す地には、いずれ必ず辿りつく。
 我が子の旅立ちを見届けたのち、彼女は最期の力を振り絞り、「Diem」と刻まれた横に自らの名である「Loca」という言葉を刻んだ。遺骸の横の幹に並んで身を預け、残った手で遺骸の右手を取る……初めて心から安心した。夢魔はもはや目前に迫り、一度寝てしまえば、しばらく起きることはできない……だが、死ぬわけではない。再びその名で呼び起こしてくれるものが現れるまで、しばしのあいだ眠るだけだ。
 そして、おだやかに意識消えゆくさなか、こんなときはなんというのだったか――と、ロカはいつかなにものかが遺した言葉を思い出した。

 Adiós.(注[13])



(注[1]) あらゆる生命体を総称する言葉。
(注[2]) 蟲と蟲を遺伝子的に組み合わせた合成生物。素体を「胚」と呼び、素材を「肢」と呼ぶ。外形や特質の多くは胚から継承される。
(注[3]) オブトサソリと呼ばれる蟲の俗称。現在において純粋種は絶滅しており、なんらかの蝕の胚や肢として部分的な特徴が見られるにすぎない。
(注[4]) 当時リビアのトブルク戦線にてイタリア軍が敗走し、戦地にて殉職した兵士たちを弔う哀悼歌「英雄葬送曲」が、カルロ・オテッロ・ラッタより発表された年。
(注[5]) 蚊の睫毛に棲むとされるほど小さい伝承の蟲。超硬質の外殻を身に纏い、空間を高速で飛び交う。生命体の設計図たる遺伝子を喰む習性を持つ。集団で奔放に移動する過程で気まぐれに他の蝕を襲うが、極小のためほぼ不可視で、避けることが難しい。
(注[6]) マイク・ミニョーラ作『驚異の螺子頭と興味深き物事の数々』。ここでは『千一夜物語』のことを指す。
(注[7]) 大局将棋の駒の一種。王将から三×三のマスが初期位置。あるべき戦場を失い、途方に暮れている。
(注[8]) 俗に「ハーディ・ラマヌジャン数」または「タクシー数」と呼ばれる。かつてのハッカーのあいだでは「一見すると特に意味のない数」などの意味で使われていた。
(注[9]) Carpe Diemより「日を摘め」。意訳として「花を摘むように、一日一日を大切にして生きろ」など。紀元前一世紀頃の詩人ホラティウスの詩のなかに登場する。タトゥーとして体に刻む場合に用いられることが多い。
(注[10]) ジョージ・アンタイル作曲、交響曲第四番「1942年」が発表された年。第二次世界大戦の様相を、全編を通して表現し、アメリカのショスタコーヴィチと称される。
(注[11]) Plus Ultraより「さらなる前進」。意訳として「もっと先へ」など。ローマ神話によると、ジブラルタル海峡手前に「Nec Plus Ultra(先には何もない)」と世界の果てを意味する警告文が書かれた柱が建っていたことに由来する。十五世紀には「Nec(何もない)」が外され、スペイン探検家たちの新世界進出を象徴する言葉となった。また「Plus Ultra旅団」という義勇軍の名称として用いられたこともある。
(注[12]) Mi Vida Locaより「わたしの狂った人生」。意訳として「後悔せず人生を楽しめ」など。タトゥーとして体に刻む場合に用いられることが多い。
(注[13]) 別れの言葉。十字軍遠征が活発に行われていた頃、少年兵がどこへ行くのか尋ねられた際「A Dios seas(神の身許へ)」と答えた言葉がスペイン語として定着したもの。転じて、旅の無事や再会をお祈りするなど多様な意味が付加されている。
(了)

Epitaph;墓参りアンソロジー Web版