ネクタイが首輪なら、それを絞めた俺たちは、杭に繋がれた犬のようだった。




 かしましくきらめくドレス。紳士気取りのタキシード。冷笑する宝石たちに、うすっぺらい笑顔が追従する。さらにはあちこちから匂うローズやベリー、ありとあらゆる香水の匂いが混ざりあっては漂うものだから、ただでさえ沈鬱な都内の空気は、これ以上ないというほどの毒物へと変貌してしまっていた。
 耐えきれずに深く呼吸をする。えづきそうになって首を振った。
 ――だめだ。だめだだめだだめだ。
 慣れなきゃいけない。受けいれて、飲みこまないといけないんだ。
 今までそうしてきたように、いつもみたいに、できるだろう。
 ほら。
 なあ、
みつるくん」
 紺のストライプが視界をかすめた。
 すぐ目の前、ワイングラスを片手に立っているのは、仕立てのいいスーツを着こなした中年の男だ。彼こそが世界に名だたる雛咲コーポレーションの代表取締役であり、経済学の先駆者をして「雛咲を左足に経済は歩く」とさえ言わせしめた男、雛咲謙吾ひなさきけんご。この野外立食パーティーの主催者だった。
「箸が進んでいないようだ。若い人の口には合わないかな」
「いえ、すこし気分が。日にあてられたみたいで」
「それなら座って休んでいるといい、無理をする必要はない。このあとに差し支えては困るから」
「はい、……ありがとうございます」
 礼に白々しさが混じるのを、俺自身も感じていた。その合間にも脳みそはミキサーにかけられたような不快感を覚えていて、知らず知らずのうちに眉が寄る。
 ――あなたのせいだよ。
 そう言ってしまえたらどれだけ楽だろう。
 けれどもいざ腹をくくろうとすれば、頭には途端に野々宮ののみやの看板がちらつき始める。野々宮株式会社――雛咲コーポレーションの傘下にある子会社の筆頭だ。俺の父親がそれを経営している限り、息子の失態はすべて彼の監督不行き届きとみなされる。
 だから言えない。口が裂けても言えっこない。
 なにからなにまで整えられた、あなたの娘さんと俺との婚約――この会食を前座にした出来レースみたいな見合いの席が、いまの俺にはどうしようもなく気鬱でしかたがないんです、だなんてこと。
「ああ、充くん、もしよければ、だがね」
「……あ、はい」
 失敗したなと歯がみする。社長を相手にしながら、気をよそにやっていた。
 とはいえ相手はそれを気にした様子もない。むしろうろたえているのは社長のほうかもしれなかった。
「休憩のついでで構わない。かえでの様子を見てやってくれないか。ちらりと見てやる程度でいいから」
「お嬢様の」
 目先に迫った婚約の相手だ。たちまち浮かびかけた渋い顔を押し隠す。
 社長は「ああ」とすまなそうに笑って、スーツの胸ポケットから一枚の布切れを引き抜いた。
 スカーフか、とも考えたけど、違う。薄手の生地、良くも悪くも目立つ黄の色。そのうえ表面にはなにやら唾液じみたものがこびりついていた。
「恥ずかしい話だが、今朝がたから犬の姿が見えなんでな」
「犬?」
「娘のペットだよ。雄のグローネンダール、シェパードの仲間だ。みいちゃんという」
 それはまた。
「……かわいらしいお名前で」
 そうだろうと社長は目元をゆるませる。こうなってしまえば天下の雛咲健吾も一児のパパだ。見ちゃいけないものを見たような気になりながら、スカーフのほうへ目を背けた。
 なら黄色いそれは、件のみいちゃんのものなんだろう。七色にきらめく唾液の跡にも納得はいった。
「普段は家で放し飼いにしているんだが、窓を開いた拍子にどこかへ出ていってしまったらしい。残っていたのはこれだけというわけだ」
 シェパードといえば大型の牧羊犬だ、小学生の娘さんの手に負えなくてもおかしくない。でもそれとこれとは話が別だ。俺は丁重にお断りしようと手を掲げる。社長は何を勘違いしてか、その手にぐいぐいとスカーフを押し付けてきた。
「随分落ち込んでいるようでな、楓め、部屋から出てこようとせんのだよ」
「はあ、いや、でも社長」
「よければ様子を見てきてもらえないか。ついでにひとつ話でも。見合いの前に緊張を解いておくという意味でも、なあ、充くん」
 なにやら厄介なことになってきた。
 つまりは婚約者たる俺に、傷心のお嬢様の心を解きほぐしてやれと言いたいらしい。ちらりと見てやる程度、からずいぶんハードルが上がったものだ。
 やるともやらないとも答えないうちに、社長は「頼んだよ」と言い捨てて、そそくさと歩いていってしまう。それきり俺とバンダナは取り残されて、からっ風に吹かれる心地で立ちつくすことになった。
 ……犬ねえ。犬。犬ですか。
 つぶやく俺の傍ら、ジンジャーエールが呆れたように気泡を吐きだした。
「そりゃあ逃げたいよな」
 人間だって現実逃避ぐらいしたいときがある。ときがある、なんてものじゃない、本当はいつだって逃げだしたくてたまらないんだ。でもそんなのってかなわない、かなわないこそ俺たちは、ネクタイで自分を縛りつけて、へたくそな愛想笑いを浮かべているんだろう。
 なんだよ。
 それじゃあ結局、人間も犬も同じじゃないか。
 からり。氷がグラスの内壁を叩いた。皿に取ったばかりのチキンをテーブルに残して、俺はそっと立食の場を離れる。
 なにも社長の言いつけに従おうと思ったわけじゃない。いまはただ、瘴気の吹きだまりみたいなその空間から、一刻も早く逃れたかっただけだった。





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